07. 2013年3月29日 12:33:40
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http://econdays.net/?p=8138 今後さらにアメリカ経済を強く健康にするためにどんなことができると考えられるのでしょうか?II. 財政政策 【財政政策は試してみれば機能する】 理論上は,需要が低調なために産出が低調なとき,政府の予算を変更するのは有用になりえます.減税すれば人々のポケットにお金が入りますし,それによって消費が後押しされます.道路や橋のようなものに政府が支出すれば,鉄鋼やコンクリートの需要が創出されえますし,建設労働者が仕事をとりもどせます. 私の考えでは,大恐慌から学べるのは,この理論が実証的な根拠によって確証されるということです.1930年代に用いられたとき,財政政策は現に回復に拍車をかけています.主な問題点は,財政政策があまり用いられなかったことなのです. 【1930年代】 学術研究の大半は,私の研究も含めて,問題の大きさに比べてルーズベルトの財政政策対応が実に小さなものだった点を強調しています [fn1].連邦政府の赤字予算が対GDP比でほんの数パーセントほども上昇した年はありませんでした.25パーセントという失業率に直面しているにしては,これは実に弱い処方です.また,財政政策はいくぶん腰の据わらないものでした.ある年には穏当な拡張的政策がとられている一方で,またある年には縮小的な政策がとられる,という揺れがあったのです.大規模で持続的な財政拡張が一度もなされなかった事実をみて,ある研究者はこんな有名な結論を述べています.財政政策は「30年代において成功した回復の手立てではなかった――機能しなかったからではない.やらなかったからだ.」[fn.2] これはおおむね正しいのですが,誇張があります.1930年代に財政政策はいくらか試みられたときもありました.そして,試みたときには回復の助けになっているように思われます. そうした機会の1つが,1933年-1934年の冬です.困窮した国民と厳しい冬に直面して,1933年11月に政府は民間事業局/民間土木工事局 (Civil Works Administration; CWA) を設立し,失業者の直接雇用に乗り出しました.CWA の労働者たちは,ありとあらゆる仕事をしました.水道管の設置から,道路の補修工事,遊び場の建設工事まで.私が目を見張るのは,このプログラムはわずか数ヶ月で4百万人以上もの人々を雇用するのに成功したという点です [fn.3].この素早さと成果の規模は,2009年の政策担当者たちには夢見ることしかかなわないものでした. また,1936年にも退役軍人への手当で財政政策が試みられています.さかのぼって1920年代に,第一次世界大戦の退役軍人たちは手当を約束されていました――その支払いは1945年になっていました.大恐慌が長引くにつれて,退役軍人たちは手当を早期に得たいとせき立てるようになりました.ワシントンでは大規模な行進が繰り広げられました.これはのちに「ボーナス・アーミー」と呼ばれるようになります.1936年に,議会はついに手当の繰り上げ支給に合意します.興味深いことに,ルーズベルト大統領は手当を支給する法案に拒否権を行使しています――そのため,議会が改めて大統領の拒否権を覆してようやく成立しました. 手当は巨額でした.支給された総額は,年間GDPの約2パーセントにのぼりました.そして,実際にこれを受け取った320万人の退役軍人にとって,これは大金でした.平均の支給額は547ドル――これは今日の価格にしておよそ9000ドルに相当します.ある見事な新研究では,広範な証拠を検討し,そのすべてが同じ結論を指し示していることを見いだしています:すなわち,この手当は消費者支出を増やし,産出と雇用を刺激した,という結論です [fn.4]. 私のお気に入りの証拠が1つありまして,米国在郷軍人会によってなされ,長らく忘れ去られていた研究が出典です.この研究では,在郷軍人会のメンバーに「手当でなにをする予定か」と直接に質問しています.多くのメンバーは,新車を買うつもりだと回答しています――ちなみに,購入費用は1936年の通貨でだいたい500ドルです.そのうえで,1936年に全米で新車登録件数を調べたところ,退役軍人の割合が高い州ほど,少ない州よりも,州人口あたりの自動車販売数が大きくなっていることが確かめられました. こうしてなされた研究の示唆によれば,この拡張的財政対応1つによって,1936年に失業率が1.5パーセントポイント減少しているとのことです.当時の失業率が――この手当を受けてもなお――17パーセントだったことを踏まえれば,これではとうてい十分とは言えません.それでも,これが助けになったことは疑いようのないことです.かくして,私の教訓が得られます:「財政政策は試してみれば機能する」 1930年代の財政政策の影響を納得していただくのにちょうどいい例があります.縮小的な財政政策がとられ,これと逆方向に向かった時期の例です.1937年に,財政政策は拡張から縮小へと力一杯に転換しました.ひとつには,退役軍人への手当で1936年の政府の支出額がふくれあがったあと,翌1937年にはこれが消え去ったというだけの事実があります――これで,公共支出は大きく減少しました.ですが,同時に増税も行われています――1937年は,社会保障税がはじめて徴収された年でした.こうしたことにより,経済の状態に合わせて調整された財政赤字は,急激に減少しました――年間GDPの約4パーセントという減りようでした [fn.5]. また,産出も急落しました.1938年には,第二の景気後退が起きています.それどころか,大恐慌からの回復が非常に遅かったと我々が考える理由の1つには,実は2回にわたる深刻な下降があったことが挙げられます.財政の縮小だけがこの第二の景気後退の原因ではありませんが,諸研究をみると,これが重要な寄与をしたらしいことがわかります [fn.6].というわけで,これが「財政政策はものをいう」ことを示す1930年代からえられるもうひとつの証拠です. 最後に,第二次世界大戦がもたらした自明な影響に言及すべきでしょう.私が何度もつぶそうと試みている考えの1つに,「第二次世界大戦によって大恐慌は終わった」というものがあります.私の考えでは,この主張は1930年代中盤になされた景気回復へのとてつもない進捗を軽視しています.実質 GDP は1933年から1937年のあいだに40パーセント以上も上昇しています [fn.7].1938年に二度目の景気後退がなければ,戦争勃発のまえに合衆国は大恐慌以前の水準に復帰していた見込みが高いのです. それはそれとして,第二次世界大戦が非常に巨大な財政刺激となったことは明白です.税も政府支出もともに上昇しましたが,支出の方が伸びが上回りました――そのため,財政赤字ははっきりと増加しました.そして,経済はこの刺激に反応しました:実質 GDP は1941年から1944年にかけてさらに50パーセント上昇したのです.配給の実施その他の手段によって民間消費を制限することになったにも関わらず産出と雇用が戦時中に急増したという事実は,現に実施されたときには拡張的な財政政策が成長をのばしたことを示す証拠,私たちが手にしている最強の証拠の1つです. 【近年のエピソード】 さて,この大恐慌からの教訓,「試してみれば財政政策は機能する」という教訓は,今度の大不況 [Great Recession] への対応で踏襲されたものの1つです.事実,財政政策による対応は,かなり早期にはじまりました.2008年2月に,ブッシュ大統領と議会は1家族あたり最大1200ドルまでの税金払い戻しを可決しました.その実績については経済学者のあいだで議論がありますが,私じしんは,証拠が示しているのは「効果あった」だと解釈しています.個人レベルの支出データを用いた実に周到な研究の示唆によれば,人々はこの払い戻されたお金をもっておでかけして支出したようです [fn.8].そればかりか,1936年の退役軍人たちと同じく,驚くほど多くの人たちが車を買ったようです.この発見は,私にとって感慨深いものがあります.というのも,うちの父も,払い戻しがくるとすぐさまでかけてホンダの CRV を買ったものですから. 2008年危機に対するさらに大規模な財政政策対応は,2009年の米国再生・再投資法 (American Recovery and Reinvestment Act) でなされました.オバマ大統領の就任から1ヶ月後に可決されたこの再生法は,経済の規模との比率でみて,大恐慌におけるルーズベルトの対応より大きなものでした.再生法は減税,政府支出,および景気後退で直接に痛手を受けた人々への援助を組み合わせたものでした. 再生・再投資法のなしとげたことについて,やろうと思えば長々と議論もできます.これは,いまでもきわめて異論のわかれている対応です.私もこの立案に加わりましたので,有効だったと考えたくなるバイアスが明らかにかかっています.(私があまりに再生・再投資法のファンなもので,数年前のクリスマスに,うちの娘が例のグリーン再生法の標識を刺繍したクリスマスツリー用の飾りをつくってくれたほどです.同法から資金の出た建設現場に決まって立てられていた,あの標識です.) いまどんどん登場してきている学術研究を見るに,あの再生法は回復にちゃんと寄与したと私は受け止めています.ただ,明らかに成功した部分とそうでない部分があるのも事実です [fn.9]. 皮肉なことに,私たちが犯してしまったと私が感じている失敗は,他でもなく,経済史家がルーズベルトの失策として批判している失敗そのものでした.実のところ,再生・再投資法に含まれていた財政拡張は,私たちが直面していた問題の大きさに比べてあまりに小さすぎたのです.諸研究から示唆される数字として,この財政拡張を実行していなかった場合に予想される失業率に比べて 1.5 から 2 パーセントポイントは下げることができたのだとしても,失業率は10パーセントにまで上昇してしまいました.ですから,明らかに,大恐慌から十分に教訓を学んでいたとは言えないのです. 世界諸国が1930年代から学び損ねている点は他にもあります.それは,財政縮小のコストの理解です.さきほど述べましたように,1937年に赤字削減へ転換したのは,1938年の景気後退につながる要因の1つとなりました.2010年にギリシャで暴落が起きたとき,世界諸国は事実上,時刻の財政赤字について懸念し始めました.そこから多くの国で財政緊縮がなされることになりました――増税がなされ,政府支出は切り詰められました.興味深いことに,多くの政府は,そうした緊縮は痛みをともなうことなく,もしかすると経済成長にも寄与するんじゃないかと信じ込んでいました. しかしながら,その結果は,1938年の合衆国で起きたことと実によく似ていました.イギリスやユーロ圏の多くの国は財政赤字の削減とともに経済成長が止まり失業率が上がる事態になりました.しかも,より激しく緊縮に転換した国ほど,緊縮の結果はひどいものとなったのです [fn.10].こうした苦境にある国々の問題を引き起こしたのは,なにも財政緊縮だけではありません.ですが,1つの要因となったのは疑いのないところです. 【今後への含意】 ここまで,大恐慌当時の財政政策と,その経験からどのように学ぶことができたと考えられるかについて,お話してきました.ここから将来にむけてえられる含意はあるでしょうか? 財政政策は試したときには機能するという教訓からは,諸国はこの強力なツールを利用できる立場を維持するよう試みるべきだと示唆されます.2008年の景気後退に対してもっとも積極的に財政政策を利用した国々を見ますと,そうした国々は当初の政府債務が低水準だったことがわかります [fn.11].中国,オーストラリア,韓国といった国々が積極的な財政拡張にでることができたのは,そうした国々が2000年代前半にとても責任のある財政政策を行っていたためです.ここから,平時には均衡財政または黒字財政で運営するのにつとめ,ひとたび深刻な景気後退に陥ったときには赤字財政で運営できるようにするべきだと示唆されます. 「赤字削減は痛みをともなう」という1938年からの教訓からは,諸国は自国の財政赤字をコントロールしようと試みるときに注意深くあるべきだと示唆されます.私が強く信じるところでは,合衆国のような国々は長期の財政問題に取り組む必要があります.私たちは持続不可能な経路をとっており,これを解決せねばなりません.ですが,そのやり方は賢くなくてはいけません.増税と支出削減は成長を削ぎ失業率を高める傾向があることを理解すれば,赤字削減を徐々に進めるよう調整した方がよいことになります――他の要因が回復を強化しはじめるようになってから,進めていく方がよいでしょう. II. 金融政策 財政政策の話はこれくらいにして,金融政策はどうなのでしょうか? こちらの政策ツールの使い方についても,1930年代からなにか学ぶところはあったのでしょうか? 再び,私の答えは「イエス」です.金融政策の教訓をこうまとめてみましょう:【レジーム転換が必要】. どういうことか説明しましょう.通常,金融政策と言えば,中央銀行が金利と貨幣供給[マネーサプライ]に関してとる行動のことを指します.不況時に中央銀行がとる通常の対応は,金利の引き下げです.金利引き下げにより,企業や家計は借り入れと支出がやりやすくなります――これが人々がふたたび職に就く助けになるわけです. 今日と同じく,1933年の問題も,公定歩合がすでにゼロすれすれになっていました.経済学者は,こうした状況を専門用語で「ゼロ下限」と呼びます.これが意味するのは,名目金利がゼロ以下に下げられないということです.そのため,名目金利を下げるという通常のツールは1933年には利用できなくなっていました. ゼロ下限の状況で,金融政策にできることはないのでしょうか? 実は,ルーズベルト大統領はたまたまその解決法を見つけ出しています.金融政策は,人々の予想に働きかけることができるのです.この働きかけには2通りの方法があります. 大恐慌で景気が下降していた局面では,デフレ〔物価の継続的な下落〕が大いに進んでいました.たとえば,小麦1ブッシェルの価格は1929年に 1.02 ドルだったのが1932年には 36 セントにまで下がっています [fn.12].これほど物価が下がったことで,人々は「物価はこのまま下がり続ける」と予想しました. こうしたデフレ予想は,消費行動に影響をもたらせます.もし,財がますます安くなっていくと人々が予想し続けたなら,支出を先送りするかもしれません.私の夫の祖母は,大恐慌のときに家具を買った話をしていたものです.お店に出かけて気に入ったものがあると,数ヶ月ほど待つことにしたそうです――値段がもっと下がるとわかっていたからです.祖母一家のお財布にとっては,これは完璧に理にかなうことでした.でも,問題は,他のみんなも支出を先送りにする同じインセンティブをもっていたということです.支出が減るにつれて,企業は産出を減らし,失業する労働者は増えてゆき,さらに支出は減少することになったのです. また,人々がデフレを予想しているとき,ゼロ金利であろうとも借り入れのコストはきわめて高くなります.借り手は,借金や住宅ローンを返済するとき,購買力でみてずっと価値の高いドルで支払わねばなりません.これもまた,1930年代に人々が支出を控え企業がほとんど投資しなくなった理由となりました. 金融政策でこうしたデフレ予想を止められれば――さらに,かるいインフレ予想に転換できれば――非常に有用になりえます.先延ばしするかわりに,消費者たちはいますぐ支出したくなるかもしれません――これから物価が上がる前に,いま買ってしまおうと考えるかもしれません.また,人々がインフレを予想しているなら,ゼロの公定歩合は実にいい話に見え始めます――借り手にとって,将来の返済で支払うことになるドルは,いまより価値が下がることが認識されるからです.こうして,企業と消費者の双方とも,借金をして新しい設備や新車を買うのにもっと関心をもつようになるかもしれません. 大事なのは物価予想だけではありません.1930年代序盤には,将来の産出と雇用に関する予想も,非常に悲観的になっていました.高い失業率と低い売り上げが3年続いたあと,企業は新工場の建設に及び腰になっていましたし,消費者はものを買うのをためらうようになっていました.金融政策によって,将来の成長について人々がもっと楽観的に見通すようにできれば,それによって再びものを買い始める強力なインセンティブができます.来年は仕事がみつかりそうだと考える労働者は,車を買う見込みがたかくなります.支払いができるようになるのが彼にはわかっているからです.売り上げはもうすぐ増加するぞと考える工場主は,労働者を雇い設備を買い入れやすくなるでしょう. というわけで,理論は以上のとおりです.でも,実際にどうすれば人々の予想は変わるのでしょうか? その1つの答えを,経済学者は「レジーム転換」と呼んでいます.これが意味するのは,ようするに政策担当者がこれまでと大いにちがう劇的な行動をとるということです.政策担当者たちが人々の注意を引かずにいられないほど大胆に政策を刷新してやるわけです.これにより,経済の結果がちがってくると人々が予想するようになるかもしれません. 【1930年代】 そして,それこそまさにフランクリン・ルーズベルトが1933年序盤にやったことでした.昔,ピーター・テミン [Peter Temin] とバリー・ウィグモア [Barry Wigmore] がすばらしい論文を出しています.時がたつにつれて,私はますます賞賛の念を強めるようになりました.その論文によれば,ルーズベルトの金融政策は,予想を変えるのにとりわけ重要なはたらきをしています [fn.13].ルーズベルトによるレジーム転換を定義する出来事は,金本位制からの脱却でした. いくらか背景の話を補いますと,合衆国は1800年代の終わり頃からある形の金本位制をとっていました.あの時期にはだいたいにおいて金本位制でうまくいっていたのですが,大恐慌では,これが重荷になりました.通貨が固定した価格で金に(また暗黙裏に他のすべての通貨に)ヒモ付けられていると,一国ができることが制限されるのです.たとえば,1931年に,アメリカ経済はひどい銀行取り付け騒動の渦中にありましたが,連銀はこれを止める対応をとりませんでした.それどころか,金利を2パーセントポイント引き上げさえしました.金の流出を懸念し,金本位制を守る必要があったからです [fn.14]. 金本位制の廃止は,「ルーズベルトはこれからアメリカ経済に力を注ぐぞ」という非常に劇的な合図を送りました.ルーズベルトは,外国為替市場に制約を受けることなく積極的な対応をとれるようになりたいと望んでいました. この金本位制廃止につづけて,ルーズベルトは古風な金融拡張を進めました.景気の落ち込むなか,貨幣供給(マネーサプライ)は急落していました.人々が銀行に対する安心感をなくすと,金融機関から現金が引き出され,タンス預金に切り替えられました.連銀はこの変化に対応をとらなかったため,流通するお金の量は急激に減っていきました.これが,ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツ[シュワルツ]による古典『米国金融史』が下した結論の1つです [fn.15]. さて,連銀は1931年と同じく1933年にも貨幣供給(マネーサプライ)の増加に関心をもっていませんでした.しかし,ルーズベルトの財務省は,みずからこれをやる方法を見つけ出しました [fn.16].平価切り下げによって,アメリカが保有する金(金準備)の価値が上昇していたという事実がこれには関わっていました.財務省は,この金準備にもとづいて,ドル札に似ていながらも「金証券」と呼ばれる証券を発行するのが許されていました.そして,財務省はこの権限を最大限に活用したのです.1930年代中盤をとおして,金はアメリカに流入し続けていました.ヨーロッパでの政治的緊張が高まっていたためです.その結果,財務省はこの異例な手法によって金の供給を増やし続けることができました. 最後に,ルーズベルトはレジーム転換を世間に納得させるためにコミュニケーションの強力なツールを用いました.ルーズベルトは,1929年水準にまで物価と所得をもどす必要と,自分の政権がこれを達成するためにとっている方策について,頻繁に語りました.たとえば1933年5月に放送された2度目の「炉辺談話」で,ルーズベルトは金本位制の停止について大々的に語っています.彼は聴衆に向かってこう説明しています.「物価を上昇させて,これまでに借金をしている人たちが,平均的にみて借りた当時と同じドルで返済できるようにする,そうした断固とした目標を政権はもっております.」[fn.17] このようにはっきりと,多様な対応によって,政策担当者たちは人々の予想を変えようと試みていました.ルーズベルトの金融レジーム転換が実際に変化を起こしたかどうかについて,証拠はどうなっているでしょうか? 最初に起こったことの1つは,株価の急上昇です.株価は将来の経済状態に関する予想にとても敏感に反応します.1930年代の最初の3年間は,ずっと株価は安定して下がり続けてしました.ところが,ルーズベルトが金本位制を廃止して3ヶ月後に株価は87パーセント上昇し,その後も上がり続けました. 物価予想も急変しました.さて,人々はふつう,物価がこの先どうなるかについて書き留めたりはしません.ですが,農作物の先物取引契約には記入しますね.ある経済学者がうまい考えを思いつきました.こうした先物取引で合意された価格を使って,1930年代中盤に人々が主要な農作物の価格がどうなると予想していたのか,推測しようという発想です [fn.18].その経済学者は,1933年の春に予想が切り替わったのを見いだしています.それまでは大きなデフレ予想があったのが,小さなインフレ予想に切り替わっていたのです.これは大きな転換でした――当時,まだまだ失業率がとても高かったことを踏まえると,実に驚く変化です.ここから,ルーズベルトの政策は実際に予想に影響を及ぼしたことが示唆されます. こうした物価上昇の予想は,通貨切り下げが一部の農作物価格に及ぼした直接的な効果と合わさって,農家の予想所得を大きく引き上げることにつながりました.小麦の価格は,1932年に 36 セントだったのが,1933年には 87 セントに跳ね上がっています.テミンとウィグモアの示すところでは,1933年にまず跳ね上がったものの1つは,トラック売り上げでした.農家は自分の将来所得について確信を感じると,新しいトラックとトラクターを農場に導入する投資に踏み切ったのです. もっと一般的に見ますと,1933年の春に上昇をみせた支出と産出の項目は,通常は売り掛けで買われるものでした:企業なら機械や車両,消費者なら車や家具などの耐久消費財です [fn.19].このことは,ルーズベルトの対応によってデフレ予想が終わり借り入れの実質コストが下がった事実と整合しています. 大恐慌から私たちが学ぶこと,それは,金利がゼロのときであっても,金融政策は打つ手なしではない,ということです.ただ,金融政策が機能するためには,将来の物価と所得に関する人々の予想を変えなくてはいけません.そして,これを大々的にやるには,レジーム転換が必要となります. 興味深いことに,1936年にルーズベルトと他の政策担当者たちは怖じ気づきます.インフレと急速な成長の便益について1930年代中盤には大いに語っていたのに,実際に急速な成長と穏やかなインフレが3年間つづいたあと,彼らは懸念を抱き始めたのです.誰も彼もがインフレの危険について語り出しました. ここで,反対方向へのレジーム転換がちょっとばかり生じました.連銀は銀行の準備預金の必要額を引き上げて減速を試み,財務省はそれまでアメリカに流入していた金の貨幣化をやめました [fn.20].ちょうど,1937年に財政縮小が起きたのと同じように,金融の縮小も起きたわけです.研究者たちは,これもまた1938年の景気後退で経済が急落した理由だと考えています [fn.21]. 【近年のエピソード】 では,大恐慌から得られるこの金融政策への教訓は――ゼロ下限に直面しているときにはレジーム転換が必要という教訓は――近年の危機において踏襲されたのでしょうか? ここで,私はこう言わざるをえません.「そうでもない」と.ただ,一部の国はこのメッセージを受け取りつつあるきざしがみえます. 合衆国では,2008年の夏から秋に進展していた危機に,連銀が非常に積極的に対応しました.2008年11月までに,連銀はみずからが管理している金利,フェデラル・ファンド金利を実質的にゼロにまで下げています.また,連銀は異例な対策をいくつもとりました.特定の資産,たとえば長期政府債券や不動産担保証券を連銀が大量に購入する量的緩和は3回にわたって実施されました.これによって,まだゼロまで下がっていなかった金利を下げようと試みたのです.こうした政策はいくらか有用でした [fn.22]. しかし,失業率がまだまだ高止まりしているのは一目瞭然です.それに,インフレ率は過去数年にわたって連銀の2パーセント目標をずっと下回っています. 連銀が実行に乗り気でないこと,それは,他でもなく,ルーズベルトがやったのと同じくらい劇的なことです.連銀はみずからの目標や運営手段を,世間の予想に大きな波風を起こすかもしれないかたちでは,変えたがらずにいます.つまり,連銀がこれまでやってきていることは現行のレジームの枠内に収まるものであって,レジーム転換ではないのです. 大恐慌の教訓を踏襲しようと試みている国が1つ,登場しつつあるのかもしれません.それは,日本です.日本は合衆国が2008年に経験したことをほぼ20年先に通り抜けています.さかのぼって1980年代,日本経済は世界の羨望の的でした.しかし,住宅市場でバブルがおこり,これがつぶれると,金融システムはガタガタになり,長引く景気の下落が引き起こされました.日本は1990年代に金利のゼロ下限にいきあたり低成長と物価下落の罠にはまりこみました.他のどの先進国ともちがって,日本はほぼ15年にもわたってデフレがつづいています.しかし,我らが連銀とおなじく,日銀は劇的な対応を取りたがっていません. いま,これが変わりつつあるようです.12月に,新政権が選出されました.新首相の安倍晋三は,フランクリン・ルーズベルトの模倣をやっています.安倍は政府支出を拡大して成長を助けることを主張していますし,通貨の価値が下がることを望んでいると実に明示的に述べています.そして,当然ながら,円はここわずか数ヶ月で約20パーセント下落しています.安倍首相は,日銀総裁に早期辞任するよう説得し,もっとずっと積極的な金融政策にコミットしている新総裁を指名しています――そうした政策には,より高いインフレ目標や無制限の量的緩和も含まれます. ルーズベルトのレジーム転換が枢要だったと信じる経済史家にとって,日本は重要な現代のテスト例かもしれません.安倍は大恐慌〔の終熄〕の再演をやろうとしています.うまく行くかどうかを,私たちみんなが注視することでしょう. 【将来への含意】 連銀がいまとっている現行の対応が十分でなく,アメリカ経済が停滞したままであるのであれば,もっと手を打つ必要があるかもしれません.連銀は劇的で世間に見えやすい対応について考える必要があるかもしれません. 多くの経済学者が提案している戦略の1つは,まったく新しい金融政策決定の枠組みです.たとえば,連銀は名目 GDP の経路を目標とするようコミットしてもよいのです [fn.23].今日の話では,この提案〔名目GDP目標〕について詳細まで突っ込んで話すわけにはいきません.ただ,その基本的な着想を言えば,これは連銀に低インフレと長期的な安定成長だけでなく短気でのもっと迅速な経済の回復にもコミットさせるアプローチです. 今日の議論の観点から見て,名目GDP目標を採用するのに関していちばん重要なことは,これが実に明快なレジーム転換になるという点です――金融政策を運営しこれについて語る方法としてこれまでと非常にちがった方法です.また,ルーズベルトの対応と同じく,これまでに連銀が行ってきた段階的な変化よりももっと大きな影響を予想に及ぼすかもしれません. IV. 信用政策 最後に,大恐慌からの回復から得られる3つ目の教訓としてここで取り上げたいのは,高水準の消費者債務に関わります.この教訓を,こうまとめましょう:【債務負担をすぐさまとりのぞくのが大事】. 消費者がどれくらい支出したいと思うかに影響することはたくさんあります.当然ながら,彼らの所得が主要な決定要因です.また,すでに論じたように,将来の物価と雇用情勢に関する消費者の予想も重要な役割を果たします.しかし,重要なことは他にもあります.それは,消費者が抱える債務です. 景気のいい時期に起こりうることの1つに,消費者がたくさん債務を抱えながらも大丈夫だと感じる,ということがあります.しかし,景気後退に入ると,人々は自分の雇用について危なっかしさを感じるようになり,また,住宅や退職後の蓄えの価値も下がります.突如として,こうした債務負担はひどくおそろしいものに思え始めるのです.すると,消費者はこれに対応して,債務の返済に本腰を入れ始め,支出を切り詰め出すわけです.これは,消費者一人一人の金銭的な健全性にとってはいいことかもしれませんが,経済にとっては破壊的になりかねません. こういう種類の状況にいたったときには,消費者がじぶんのバランスシートを修復するのを助ける政府の政策が非常に有用になるかもしれません. 【1930年代】 大恐慌も,今般の危機も,それに先だってともに消費者債務が大きくふくらんでいました.1920年代には耐久財革命がありました――ここではじめて,家庭が自家用車・洗濯機・冷蔵庫をもつのが当たり前になったのです.また,それに伴って消費者債務が大きく拡大しました [fn.24].住宅ローンも1920年代に急速に増えています.また,いまの私たちが知っているような長期的な分割ローンも,このころにはじまっています.多くは短期的な金利のみのローンで,最後に返済する支払金額が大きくなるバルーン方式がとられていました [fn.25]. 株価が1929年の終盤に急落し失業率が急上昇しはじめると,こうした大きな債務負担が問題を引き起こし始めます.同僚のマーサ・オルニー [Martha Olney] のすぐれた論文の指摘によりますと,1920年代の消費者ローンには独特な特徴があったと言います [fn.26].その多くには,支払いを滞らせて〔ローンで買った〕車が引き取られると,その車への権利(エクイティ)をすべて失うことになるという条件がついていました.ですから,ローンの大半を支払ったとしても,代償は受け取れないわけです.オルニーの主張によれば,この条件によって,消費者には日用品・衣類といった支出項目をすべて切り詰めて自動車ローンの支払いに当てる強力なインセンティブが与えられていたということです.このことは,どうして消費者支出が1930年にああも劇的に急落したのかを説明する一助になるかもしれません. では,大恐慌からの回復期に,この巨大な消費者債務に対処するべく用いられた政策はどういうものだったのでしょうか? 最重要な政策は,もちろん,住宅所有者資金貸付会社 (Home Owners Loan Corporation; HOLC) の創設です.1933年の夏に創設された HOLC(ある著者に言わせれば「驚異の HOLC」)は,問題の起きているローンを銀行から買い取り,住宅所有者に新しいローンを発行しました.HOLC が発行した抵当は,100万以上の住宅にのぼりました.これは当時のアメリカの全住宅の実に10パーセント近くです [fn.27]. HOLC は公正市場価格の80パーセントしか再融資しなかったので,問題の起きたローンを処分したい銀行は,大幅な減額に同意せざるをえませんでした.ここで重要なのは,双方ともにこれで得をしたという点です.住宅所有者は典型的に支払いが大幅に滞っていたため,銀行はそのローンを処分するためならよろこんで元本を減額しました――それに,HOLC は銀行に対してとても気前よく公正市場価格を解釈していました [fn.28].また,住宅所有者は,元本の減った新しい政府ローンを好条件で融資されるという便益をえました.このプログラムは,消費者たちが債務負担の一部から抜け出てもっと乗り切りやすいローンに切り替える助けとなりました. さて, ニューディールで債務負担軽減のために実施された HOLC その他のプログラムがどれくらい景気回復に寄与したのかを示す直接の証拠はあまり多くありません.ただ,間接的な証拠ならいくらかあります.もっとも明瞭なのは,HOLC が多くのローンの再交渉をしていたのと同時期に耐久財への消費者支出が再び増加したことです.住宅着工数も同時期に増加しはじめました.ここから,担保権執行とネガティブ・エクイティ〔住宅ローン残高が評価額より大きいこと〕への対応が1930年代の住宅セクター安定に一役買ったことが示唆されるでしょう [fn.29]. 大恐慌で債務負担を軽減すべく打たれた手が景気回復にとって重要だったと私が考える,その主要な理由は,近年の経験からきています.これは,2008年の景気後退をみずから生きてみることで,大恐慌について私たちが学んだように実感している論点です. 1920年代と同じく,2000年代にも消費者債務は劇的に増えました.家計債務が個人所得に占める割合は2000年に約80パーセントだったのが,2007年には115パーセントに上昇しています [fn.30].この増加分の多くは抵当債務で,これには住宅エクイティローンも含まれます. あるすぐれた新研究では,こうした圧倒的に大きな消費者債務負担が2008年の景気後退での消費者支出にとってどういうものだったかを示しています [fn.31].研究者たちは,最大手の信用調査機関の1つから,2002年から2006年にかけての消費者債務の増加に関するデータを郡別に集めました.次に,危機の最中と危機後の自動車販売数を郡別に検討しました.こうしてわかったのは,景気後退前の債務額が大きくのびていた郡ほど,債務の小さかった郡と比べて,自動車販売数の回復がずっと遅くなっていたということでした.この発見――および他のさまざまな研究――にもとづいて,経済学者たちは消費者支出にとって債務問題がどれほど大きなことなのかを理解するにいたっています [fn.32].1930年代を振り返りますと,この証拠からみて,ニューディールにおいて素早く債務を取り除こうとした対策は非常に有用であった見込みが高いと示唆されます. 【近年のエピソード】 ざんねんながら,この教訓は――「債務負担を素早く取り除くのが大事」という教訓は――今般の危機において踏襲されていないことの1つです. 2007年から2008年にかけて,バブルがはじけ所得が下がったとき,多くの家計は非常にまずい状態にありました.不良債権と抵当権執行は急増しました.また,さきほど述べたように,家計が債務返済に集中するのにともなって消費者支出は減りました. 私たちも問題を理解してはいましたが,ローンの方が住宅の評価額より大きくなって困っている住宅所有者のために広範な抵当再交渉をする方法を見いだしていません.金融機関は,そうした再交渉をみずからやるのに躊躇しています.また,住宅所有者の援助を目的とするさまざまな政府プログラムも,大半が支払いの減額に焦点を置いたものであって,元本の減額に焦点を置くものではありません.さらに,そうしたプログラムに参加する人々は,当初のぞましいと考えられた人数をはるかに下回っています [fn.33].その結果として,消費者たちがじょじょに債務を返済し終えて復帰するのを待つことになりました.長く困難なプロセスが続き,これはここ数年の実に緩慢な回復の一因となっています. 【将来への含意】 それでは,1930年代の経験からの示唆では,信用政策がこれからどう展開されるべきなのでしょうか? いくつか可能性があります. そのひとつは,消費者債務負担の不健全な急増を阻止する方法の考慮に関わるものです.つまり,そうすることで,そもそも大きな債務負担に陥らないようにしようというわけです.有用と思われる規制の変更と金融教育の改善について,多くの議論がなされています. これと別の可能性もあり,そちらには過剰債務の問題が起きたときにどう対処するかという論点が関わります.ワシントンに移って間もない頃,議会は家計の破産法 (household bankruptcy law) の改革を論議していました.現行法のもとでは,破産裁判官は大半の債務契約を再交渉できます――しかし,住宅ローンは別なのです.破産した場合に住宅ローンにとれる唯一の選択肢は,抵当権執行です. 今後の法改正の可能性としては,破産裁判官に元本の減額と融資条件の変更をさせる案があります.これは,企業倒産において裁判官がいまできていることで,かなりうまく機能しています [fn.34].多くの場合に,これは借り手と貸し手の双方にとってよりよくなるのではないかと私は考えています.というのも,抵当権執行で住宅が売りに出された場合,価値の多くが失われてしまうからです.次にもし債務がふくらみ住宅市場に問題が起きたときには,問題を抱えて非常に困っている家計の債務負担を軽減した方が経済にとってずっとよいでしょう.このように,これから経済が景気後退から回復しやすくするために大恐慌からえられた教訓を活用できる具体的な方法はあります. V. 結語 以上の議論で私たちはどんなところにたどり着くでしょうか? 今日の登壇者で,大恐慌が現在にとって完璧な見本とならないと認めるのは私が1人目です.1930年代から世界はいくつもの重要な点で変わっています.それは,私たちの経済も同様です. しかし,それでもなお,この〔大恐慌の〕焼き付くような経験は,今日にも通じる教訓をもたらしてくれると,みなさんに思っていただけていればさいわいです.大恐慌から,減税と財布支出拡大は不況下の経済を癒す助けになり得ることがわかります.ただし,それは十分に大きな規模で実施した場合にかぎられます.大恐慌をみれば,金利がゼロのときにも金融政策が効果を発揮しうることがわかります.ただし,それにはレジーム転換が必要となるでしょう.政策は十分に劇的でなければ,将来の物価と産出の伸びに関する人々の予想を変えるにいたりません.最後に,債務負担が大きいとき,これをすみやかに取り除く方策は,たんに直接影響を受ける人たちにとって有益なばかりか,経済全体にとっても有益になり得ます. しかし,おそらく,大恐慌から政策に関してえられる最重要の教訓は,ここで取り上げてきた具体的な教訓よりも,ある意味でもっと深いところにあります.なによりも,1930年代中盤の政策担当者たちに関して私が称賛しているのは,彼らの切迫感と,新しいことを試してみようという気概です.前例のない痛みと深刻さをもたらした危機に直面して,彼らは断固とした対応をとりました.彼らがやったことがすべて計画通りに機能したわけではありません.また,政策によっては明らかな失敗もありました.しかし,ここで論じたように,多くの対応は回復をロケットスタートさせ,荒廃したアメリカ経済を立て直す助けとなるのに成功しました. いまの私たちも,みずからの難題に直面しています――失業率はいまなお高く,長期的な赤字はひどく,ヨーロッパは繰り返し崩壊寸前に追い込まれています.私たちもまた,この切迫感と新しいことを試す気概をもつ必要があります.しかし,将来に向けて,新しい解決法を構築する必要もあります.これこそが,大恐慌からえられる真の教訓です. |