01. 2013年3月04日 01:39:15
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一つの資本主義から複数の資本主義へ『中国共産党と資本主義』第6章を読む(1) 2013年3月4日(月) ロナルド・コース 、 王 寧 1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。 2008年7月18日、中国の市場転換に関するシカゴ会議の閉会のスピーチの最後にロナルド・コースは「中国の奮闘は世界の奮闘である」と宣言した。2008年12月10日付『タイム』誌は、中国の30年間にわたる市場転換と、この卓越した人間ドラマでケ小平が演じた英雄的役割についての時事解説を載せた。記事はこう締めくくられている。「これはわれらの時代の偉大な物語だ。我々の、誰しもの物語―─中国だけではない」 この物語が1976年の毛沢東死後の中国に新たな一章を開いたとき、ポスト毛政権は文化大革命後に断固たる政策転換へと舵を切った。階級闘争の教義を捨て、「社会主義の優越」を実現する代替のアプローチとして社会主義的近代化を掲げた。 1950年代半ばから続いていた急進的イデオロギーがようやく誤りで有害だと認められ、ここから政策立案に良識とプラグマティズムの入りこむ余地が生じたのだ。この指導体制と政策の転換によって社会主義イデオロギーの締めつけがゆるみ、その後の経済改革が促された。 毛沢東時代は社会主義の命令を押しつける政治活動が次々にくり出されたが、中国は繁栄を共有できる約束の地にたどり着けなかった。失望と不満が、とりわけ毛沢東時代に地位を失った党の長老に、「右派」として攻撃された知識人に、農業集団化のせいで口に糊するのに必死の8億人の農民の大多数に広がり、深まっていた。彼らは変化を求めてやまなかった。 階級闘争論を斥け、社会主義的近代化を受け入れた中国は、政界の内紛というマイナスサム・ゲームの呪縛からついに解かれ、経済発展というプラスサム・ゲームにとりかかった。毛の壮大だが破滅的な社会主義の実験の苦汁をなめさせられた中国人は明らかに、改革の遠大な計画に懐疑的になっていた。 また同時に、外界から長いあいだ孤立していたので、社会主義の代案にほとんど心当たりがない。このため指導部は、即席とありものの利用でひねり出したことに取り組むしかなかった。なおも社会主義イデオロギーの旗印のもとに集いながら、実際的な目的を達するための多様な方法を模索した。 しかし20世紀末には、中国は1978年コミュニケで意図したような公有制と国家計画にもとづく「近代化した社会主義の強国」になったことを祝すのではなく、気がつけば、私有企業家の活動と市場原理に満ちた活気ある経済を備えていた。これは中国の経済変革の最も意外だった面だ。 中国は社会主義を近代化しようと努めながら資本主義になった。中国の物語は、アダム・ファーガスンが「人間の行為の結果ではあるが、人間の設計の結果ではない」と述べたものの典型だ。中国のことわざがもっと詩的に表現している。「有意花を栽えて花発かず、無心柳を挿して柳陰を成す」(花を咲かそうと思って植えた花が開かず、誰も気にかけなかった柳が成長して木陰をつくる)。 偶然から「致命的な思いあがり」を免れた中国 中国の経済改革は、当初そう受けとられ進行中ずっと思われていたような、社会主義を解体して、資本主義へ移行することを意図したものでは断じてなかった。むしろ、その目標は「社会主義的近代化」、毛沢東が果たせなかった経済開発を実行するための第2次革命、もう一つの「長征」であり、1978年コミュニケが宣したように、中国を「20世紀中に近代化した社会主義国」にすることであった。 共産主義は資本主義を葬り去る運命にあると主張しているから、共産党は市場改革とは両立しないと広く信じられている。しかし政治組織(共産党)と政治イデオロギー(共産主義)を同一視する過ちを犯してはならない。人間は一人ひとりが多様なアイデンティティ(例・男性、教授、夫、経済学者、アダム・スミスの崇拝者)をもつ。政治組織も同様に、多様かつ流動的なアイデンティティをもつ。マルクス主義の個人や組織がただマルクス主義であるだけのはずはない。共産主義と資本主義が互いに対抗しあうイデオロギーとして正反対の立場をとる一方で、共産党は存続の危機に際しては、資本主義も含めたあらゆることを受け入れ、実地に試すことがありうるのだ。 共産党と共産主義を分けて考えなかったために、多くの人が経済体制移行の取り組みを誤ることになった。市場改革は、まずはイデオロギーも政治組織も含めて共産主義システムを一掃しなければ不可能なものだ、との考えが浮上した。共産主義だった過去との完全な決別が、市場経済へ新たな歩を進めるための絶対条件と考えられた。 結果として、既存の経済システムに手を加えての漸進的方式は、そもそもの最初から除外され、改革のビッグバン方式と呼ばれた手法が誕生した。加えて、政策立案者の顧問である多くの経済学者は、その現代経済学の専門知識をもって市場経済を新たに建設するには、社会主義を跡形もなく消し去らねばならないと信じた。 しかし市場経済が合理的に設計されうると考えることは、設計主義的な合理主義という「致命的な思いあがり」とハイエクが称した誤りを犯していた。何十年も前にハイエクは、ノーベル賞受賞の記念講演で警告していた。「社会の進展を自分らの好きなように形づくるための知識も権力も、実は持っていないのに持っていると考えて行動すると、大きな害を引き起こしやすい」 中国は幸運にも、まったくの偶然から、この致命的な思いあがりを免れた。経済改革に着手したてのころ、中国は共産主義を一掃してゼロから始めようとは(とうてい考えられなかったし)考えなかったから、まっさらの計画をもって臨むのでなく既存のシステムを調整することから開始した。 だが社会主義をひきつづき奉じていたので、その欠点を認めはしなかった。実のところ、毛沢東の死後には中国の社会主義の本質と展望をめぐる公的な議論が噴出した。毛の指導下では何がいけなかったのか、中国は次はどこへ向かうべきか。1981年、華国鋒から中国共産党主席の座を引き継ぎ、82年に党総書記となった胡耀邦は、84年にイタリア共産党の機関紙『ウニタ』のインタビューに応えるなかで、自身と党に対し疑問を提起した。「〔1917年〕十月革命から60年以上たった。多くの社会主義国が資本主義国の発展に追いつけていないのはどうしてなのか。〔社会主義の〕どこがいけなかったのか」 社会主義に傾倒してはいても、中国指導部はその外遊中に資本主義の洗礼を受けるや、これを見直し称賛しさえもした。当時、工業開発担当副総理だった王震は1978年11月6日〜17日にイギリスを訪問、この国の労働者階級が果たした高次の経済的・社会的発展を知って驚嘆した。訪英前のこの国の資本主義に関する知識は多分にマルクスの著述に依っていた。ロンドンの貧民街を、貧困と窮乏と搾取を目にすると予期していた。 だが驚いたことに、王の給料はロンドンのごみ収集員の賃金の6分の1にすぎなかった。外遊が終わるころには、王震はイギリスの資本主義と中国の共産主義への信奉に関して、これまでより深く正確な理解に達していた。 イギリスはよくやったと私は思う。生産物は豊富にある。3つの不平等〔都市と農村、工業と農業、精神労働と肉体労働の不平等、マルクスはこれらの廃絶を社会主義の使命とした〕はほとんど除去されている。社会正義と福祉は大いに強調されていた。イギリスが共産党政権に治められていたなら、そのままわが国の共産主義社会の手本となった。 イギリスに共産党支配を足したものが共産主義に等しいという王震の公式は、資本主義と社会主義に対する現実的で非イデオロギー的な態度とともに、いつまでも変わらぬ党への愛着を示していた。このプラグマティズムの精神がなかったら、中国に残っている社会主義信仰のせいで、その後の市場改革は達成されなかったに違いない。 共産党の組織としての柔軟性と順応性の証左 中国の経済改革の何より尋常ならざる特徴は、30年にわたる市場転換中に中国共産党が存続し、むしろ繁栄したことだろう。これは明らかに、社会主義の実験が失敗したのちの共産党の組織としての柔軟性と順応性の証左であり、党が無敵だとか社会主義そのものの優越を証拠立てるものではない。 だが、もっと驚くべきは、社会主義を救うはずだった改革が、いつしか中国を市場経済へと変えていたことだ。この驚異の物語の攪乱要因は、中国の「実事求是」の教え、ケ小平が誤って「マルクス主義の真髄」と呼んだものである。 中国が巨大な経済の実験場と化したとき、競争力がその教えの魔法を発揮できたのだ。発見の実験的過程で、原材料が最大の利益を生む使用へと向けられ、集団学習を容易にする制度的な取り決めや組織構造が出現した。 毛沢東の遺産をいじくり回しつつ、中国は一歩また一歩と、脇道には逸れず後退もせずに進むうち、ふと気づくと、社会主義を救うはずだった30年の改革ののちに市場経済へ変貌を遂げていた。 ベルリンの壁崩壊後、社会主義は旧ソ連圏で廃された。中国においても敗北した。飢えた農村は私営農業を復活させ、郷鎮企業は国有企業の収益を上回った。都市部では個人企業と私営企業が導入され、国家主導の企業改革が与えたよりも大きな活力を都市経済にもたらした。 中国の経済改革の物語は、頑固な私企業家精神の物語でもあり、大胆だが漸進的な社会実験の物語でもあり、また、より良い生活を求める人間の謙遜と忍耐の物語でもある。 (次回につづきます) ロナルド・コース (Ronald Coase) 1910年生まれ。100歳を超えて現役の英国生まれの経済学者。論文の数は少ないが、そのうちの2つの論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)(1937年)と“The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)(1960年)の業績で、1991年にノーベル経済学賞を受賞。シカゴ大学ロースクール名誉教授。取引費用や財産権という概念を経済分析に導入した新制度派経済学の創始者。所有権が確定されていれば、政府の介入がなくても市場の外部性の問題が解決されるという「コースの定理」が有名。著書に『企業・市場・法』(東洋経済新報社)。 王寧(ワン・ニン) アリゾナ州立大学政治国際学研究科准教授。 103歳のノーベル賞学者の 中国資本主義論
1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。
JBpress>海外>欧州 [欧州] スウェーデンの日本語教育と学校の財政難 日本に憧れ、日本語を学ぶ生徒たち〜北欧・福祉社会の光と影(3) 2013年03月04日(Mon) みゆき ポアチャ 現在、スウェーデンの高校と夕方から始まる成人学校の2校で日本語を教えている。 「スウェーデンは移民のスウェーデン人化に成功している」かどうかは議論が分かれるところだが、クラスの生徒は様々な国籍のルーツを持っている。と言っても、全員がスウェーデン生まれでスウェーデン国籍を有しているのだが、彼らの両親のバックグラウンドは実に様々だ。 様々なルーツを持った日本語クラスの生徒たち 日本語を学ぶ2年生と3年生(写真は筆者撮影) 写真は2年生と3年生だが、真ん中にいる1人を除いて、両親かどちらかの親がスウェーデン外にルーツを持っている。
そのルーツも、チリ、ポーランド、中国、サルバドール、セルビア、そしてアッシリアと多様だ。 家庭内ではそれぞれの言葉で話しているという生徒も多い。 そして調査によると、家庭内で別の言語を話している子供の方が、スウェーデン語の成績が比較的よい傾向があるという。また、複数の言語を話す子供ほど未知の言語の習得が早い、という調査結果もあった。 そして、途中でドロップアウトせず2年、3年と継続して日本語を選択する生徒の率は、やはり他国のバックグラウンドを持つ生徒の方が高いようである。 日本語を学習するきっかけも様々だ。 ポケモンやGACKTに魅せられ日本に憧憬 昨年の卒業生のアネリに、どうして日本語を勉強するのと聞いた時に、こんなふうに答えてくれた。「小学校4年の時に『ポケモン』を見て、その冒険の世界に強くあこがれた。その時から、将来は日本語の勉強をして絶対に日本に行くと決めていたの」 彼女は在学時、たった1人で上級のコースを学習して単位を修めた。現在はヨテボリ大学の日本語科で勉強している。春から慶応義塾大学に留学するようだ。 時折ピカチュウの衣装を着て学校に来るイザベラ 日本の歌とバンドが好きで、「GACKT」や「雅-MIYAVI」をいつも聴いているというイザベラ。彼女はたいてい黒っぽいメイクに黒いジャケットを身に着けていて、なかなかタフな雰囲気なのだが、時々は「ピカチュウ」の衣装を着て学校に来る。
彼女は日本に行くために、10歳の時から貯金をしているという。この6月に卒業し、夏に日本へ行く予定だ。 「ドラゴンボール」に魅了され、10歳時からカンフーを始めたロバート。彼は一昨年に卒業し、現在はヨテボリ大学で日本語とシステムサイエンスを学んでいる。 もうすでに、日常会話程度はほぼ問題なく日本語で話せる。時々ふらっと教室に顔を出す。先日は、授業後に「先生、遊びすぎですよー。もうちょっとちゃんと授業しなきゃ」とたしなめられた。 それぞれが、心の中に独自の「日本の風景」を持っている。そしてその世界に憧れ、その幻影を追いかけ続けている。 ひらがな習得の工夫、「『ゆ』はサカナに見えるね」 1年生の時には「ヘイ、ミユキ!」と挨拶していた生徒が、2年時には「ミユキ、オハヨー」、さらに翌年には「センセー、オハヨーゴザイマス」と言うようになっていくのも楽しい。別に私は「そのように言いなさい」などと指導しているわけではないのだが、どういった方法でか勝手に覚えて実践していく。1人が言い始めると、ほかの生徒に伝染していく。 アルファベットとは全く異なる文字を見て、様々な想像を描き、その習得のために各人がそれぞれの工夫をこらす。 「『と』はつま先(トゥ)の形に似てるね」 「『ゆ』はサカナに見える」 「『い』は、iが2つ並んでる」 HOだから「ほ」 『は』と『ほ』などは区別が付きにくい。これを解決したのは、両親がハンガリールーツのマイケルくん。
「『ほ』の右上には横になっている『H』があって、その下に『O』がある。だからHO『ほ』」 習字も生徒たちに人気だ。ある程度漢字を学習した2、3年生たちには、好きな言葉を自分で選んで書きなさい、と言う。 「六月」「子犬」「愛の戦士」「悟り」「龍」「霊感」「音楽」「苺牛乳」など様々な言葉が登場する。とはいえ多くの学生が書く一番の人気は、やはり「愛」だ。 生徒たちには習字も人気 「勉強する」と書いたのは、秀才ダニエル。彼は高校を首席で卒業し、現在はストックホルムの王立工業大学でコンピューター技術とあわせて日本語も学んでいる。
「自由」「平和」、そして「音楽」と書いたのは、両親がチリから政治亡命してきた生徒。彼はミュージシャンだ。 「『憎しみ』って、どう書くの」と聞かれたので、『憎』という漢字を教え、「『愛』と『憎』は紙一重だね」と言ったら深ーーーくうなずいた3年生。18歳はもう子供ではない。 と、こんなふうに授業自体は和気藹々としている。 が、楽しいことばかりでもない。 高まる財政不安、開講取りやめの危機も 学校側の「予算削減攻撃」はすさまじい。 1ページ目に掲載した写真は、2年生と3年生合同のクラスだ。1年生はある程度の人数がいるが、学年が進むにつれてギブアップする生徒が出て、生徒数が減ってくる。そのため2、3年生が同じ教室に座らされているのが現状だ。 これも実は1年前、「来年は日本語クラスが開講されないかもしれない」と心配した生徒たちが皆で校長のところへ直訴し、校長から「2、3年生が一緒に授業するなら開講する」という約束を取り付けたのだ。 学校側はウソばかりだ。 先に紹介したアネリが、「もっと上級を勉強したい」と言った時に、学校は彼女と私に上級コースの開講を約束した。それで彼女と2人で、テキストを選んで日本に注文し、学習スケジュールを立てて試験の日程などを決めた。そうこうしている矢先に学校は「やはり上級コースは開講しない。たった1人の生徒のために開講できない」と言ってきたのだ。 アネリは私のところに来て、ほとんど泣きそうになりながらそのことを訴えたので、私はとにかく計画通り学習を進めよう、ということにした。私にとっては不払い労働だ。 その後、校長が別の人に交代した。新しい校長は私に「タダ働きをさせるわけにはいかない。仕事をしている分は給与を支払う」と約束したのだが、その3日後には「やっぱり払わない」「アネリはほかの生徒といっしょに座って勉強しなければならない」と言ってきた。レベルが違いすぎ、そんなのは不可能だ。 ちなみに、私が不払い労働をしていたことは、夫には内緒だった。夫に限らず、スウェーデン人は絶対にタダ働きはしない。夫がそれを知ったら、激烈に怒るだろう。 昨年までは「新入生歓迎会」「忘年会」などと称して、全学年で一緒に映画を見てから皆で寿司を食べにいく、ということも時々していたのだが、今年は「スーパーでお菓子を買ってきて教室で食べなさい」ということになった。 映画を見たくても、DVDは購入してもらえなくなり、「もっと安く映画を見る方法はあるだろう。生徒はよく知ってるよ」と言われた。暗に違法ダウンロードをせよということだ。 プレーヤーは何台もあるが、1台としてまともに稼働しない。校長に「授業で使いたいから新しいものを買ってほしい」と言ったところ、彼はやにわにプレーヤーをバンバン叩き始めた。数分バシバシした後、「ミユキ、直ったよ」。事実直っていた。 一昨年の卒業式の際は、卒業生にコンドームなどの「おみやげ」を配っていたが、昨年からはそんなものも一切なくなった。 低給料で不安定な教職 日本語クラスの試験中の風景 私自身は教員の資格を持っていないので、給与は最低レベルだが、ほかの先生方もそれほどたくさんもらっているわけではない。
この高校では、日本語のほか、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語が選択できるが、必須科目と違い授業数が多くないので、ほとんどの先生方は数校をかけ持ちで教えている。 それでもほぼ毎学期のように先生が交代する。つまり就任しては辞め、新しい先生がまた来る――が繰り返されているわけだ。 先学期にイタリア語の先生が辞めたが、その後に新しい先生が来ず、今学期のイタリア語の授業はキャンセルされた。ドイツ語の先生も決まるのに時間がかかり、授業が開始されるのが数週間遅れた。財政難が、生徒の学ぶ機会を直接侵害しているのだ。 これは恐らく、単純な財政難とか収支バランスの問題ではない。学校の経営自体が、利益重視システムに転換しているのだろう。 2006年、政権が社民党から保守連合に交代して以降の民営化、すなわち資本主義化の波は大きい。特に教育と医療分野において、生徒と患者たちに直接大きく影響している。 週に1度の職員会議では、「イジメのない、魅力的な学校にするために我々ができること」などが議題に上がるが、その背後に隠された真のテーマは「入学者数をどうやって増加させるか」だ。 「インターネットを活用した学校宣伝のアイデア」などを職員らで話し合わせたりもする。「生徒は『お客さま』なのだ」と言われたこともある。「生徒は『顧客』であると認識せよ」――。これが学校の本音だ。 とはいえ、私が来てからの2年半で、何と校長が3人交代している。最近、校長を見かけないなと思っていたら、彼の部屋のドアには「校長は病気療養中」の張り紙。 学校のトップらも恐らく、急激な変化の葛藤に苦しんでいるのかとも思う。 「国民の家」だったはずのスウェーデン社会の変容 社会民主党から交代した保守連合の責任なのか、あるいは社民党が政権をとり続けていたとしても、似たような結果になっていたのかもしれない。社民時代からも教育市場の競争の激化は始まっていた。 いずれにせよ、かつて世界の国々を魅了した国民の平等と階級の撤廃を旗印にした「国民の家」であったはずのスウェーデン社会は大きく変容している。 ではあるが、生徒たちは屈託なく、とりあえず明るい。 こんな欧州の北辺の、日本人などほとんど見かけられない田舎で、全く異なる言語体系を持つ語を習得するためには、どれほどの強靭なモチベーションを保ち続けなければならないだろう。 ドイツ語の先生に「あなたの生徒って、みんなとっても優秀なのねえー。ドイツ語でAを取った生徒はたった1人なのよ」などと言われるのだが、それでも私は授業に出席し、ひたすら日本への憧憬を持ち続ける生徒たちには最高の成績をつけざるを得ないのだ。
JBpress>日本再生>人材育成 [人材育成] 42大学のグローバル人材育成構想を比較する(上) どうすればグローバル人材の育成ができるのか(18) 2013年03月04日(Mon) 村田 博信 昨年9月、文部科学省による「グローバル人材育成推進事業」に42の大学が採択されました。 この事業は、若い世代の内向き志向を克服し、国際的な経済・外交の舞台で積極的にチャレンジできる人材を育成するため、平成24(2012)年から5年間にわたり趣旨に適った取り組みをする大学へ財政支援するというものです。 1校当たりの補助金は最大で年間2.6憶円と、送り出し留学の促進に関する国家事業としては、大規模なものとなっています。いよいよ政府も本腰を入れ始めたということでしょうか。これをきっかけに社会総がかりでグローバル人材の育成が推し進められることを期待したいと思います。 そこで、2回にわたり当事業における各大学の構想を見ていきたいと思います。 各大学が掲げるグローバル人材の定義はさまざま ひとくちにグローバル人材と言っても、各大学が文科省に提出した事業企画書に謳われているその人材像はさまざまです。 例えば、東京医科歯科大の考える人材像は以下のようなものです。 「成熟国家の日本が、生命科学研究や国際保健/医療政策、国際協力/医療観光等の分野において世界を支え牽引していくために中心的役割を担うグローバルヘルスリーダー」 背景には、日本は国連拠出金では米国に次いで2位であるにも関わらず、世界保健機構(WHO)における日本人スタッフ数は他の国連機関同様にかなり低い状況があります(日本が払っている分担金の額と比較すると、日本人の国連職員は本来あるべき数の4分の1程度です)。 また、現在、日本では医薬品・医療機器の分野でも輸入超過の状態ですが、その基盤となる基礎研究における国際競争力の向上が急務です。 2008〜2011年の4年間に世界の主要医学雑誌に掲載された論文数を見ると、基礎研究分野では4位と、2003〜2007年を集計した前回調査の3位から順位を下げました。また臨床研究分野ではさらに深刻で、前回の18位から25位へと大きく順位を下げています。 各大学が考えるグローバル人材像 拡大画像表示 これらは英語運用力、情報発信力の不足に大きく起因しているとともに、海外研究留学希望者数の減少も将来の競争力を考えると憂うべき状況です。
そして、東日本大震災の際には他国のボランティア医療スタッフから多大なる支援を受けたように、日本も他国が医療を必要とした時に積極的に国際協力に関わるべきで、そのためにも高度な英語力のもと質の高い災害医療を行える人材の育成が必要となります。 さらに近年アジア諸国の一部では医療観光産業が成長してきていますが、日本は高い医療サービスを持ちながら大きく出遅れています。この状況を打破するためにも英語によるコミュニケーション力を高める必要があります。 グローバル人材育成推進事業の5つの柱 この事業における各大学が取り組む分野は、以下の5つに分類できます。 (1)グローバル人材として求められる能力の育成 (2)大学のグローバル化に向けた戦略と教育課程の国際通用性の向上 (3)教員のグローバル教育力の向上 (4)日本人学生の留学を促進するための環境整備 (5)語学力を向上させるための入学時から卒業時までの一体的な取り組み プログラムのコンテンツはもとより、それを実行するための体制、学生と教員への啓蒙など包括的な枠組みとなっており、従来の局所的な取り組みからの脱皮が感じられます。 今回は、(1)の「グローバル人材として求められる能力の育成」について取り上げたいと思います。 飛び入学、早期卒業を生かしたグローバルプログラムを計画する千葉大学 多くの大学で挙げられている能力・素養は、課題解決力や論理的思考力、チームワーク、チャレンジ精神、コミュニケーション能力、異文化理解力、語学力などです。 それらを習得するためのプログラムとして、地球規模の課題をテーマにしたより実践的なグループ学習や教養教育、さらには国際ボランティア/インターンシップに代表されるフィールドワーク等が計画されています。 またそれらの能力の習得度合いを測定するような取り組みも見られ、従来のアカデミックなカリキュラムとは一線を画すものが目立ちます。 例えば、千葉大学では、1〜2年次には導入としての短期留学を必ず経験させる計画です。 そのための事前教育として、日本文化、異文化、帰国後の日本再発見などの国際日本学に関する授業を18単位以上受講させることで日本人としてのアイデンティティもしっかり醸成しようとしています。 また、千葉大学の特徴的な取り組みである飛び入学や早期卒業を全学標準とし多様な修学年限を持つグローバルプログラムを計画しています。 千葉大学:プログラム概要(画像提供:筆者、以下同) 例えば飛び入学者は、「0.5年高校(短期留学)+3.5年学部(短期留学1〜2回)+0.5年仮卒業半年留学」により3〜4回の留学を経験できます。また大学院進学者には3.5年学部(短期留学1-2回)+2.5年修士(1年留学)などの長短合わせた留学の機会が与えられます。
千葉大学ではこのような特別な修学年限での人材をスーパー・グローバル人財と呼び、年間100名程度を育成するとしています。 日本の社会にはエリート教育に対して異を唱える風潮が他国に比べて強いですが、能力が異なる学生を無理に平等に扱うこと自体が不公平であると思います。ポテンシャルのある学生がより自己研鑽できる土壌をつくらないと日本の大学は世界の競争に生き残っていけないでしょう。 そういう点でも千葉大学のような取り組みは注目に値します。 中国重視の杏林大学、途上国に目を向ける鳥取大学 次に杏林大学ですが、こちらは中国を重視した施策が特徴的です。過去や現在、未来にわたる中国の影響力に鑑み、中国語文化圏で卓抜した語学力とスマートでタフな交渉力を兼ね備える人材の養成を図っています。 事実、通訳翻訳トレーニングメソッドを導入した中国語教育においては日本の中でも秀でた存在で、中国大使館や中日友好協会職員の委託研修などの実績もあります。 それらにより中国の名門大学から数多くの優秀な学生が送り込まれているため、日本にありながらも多くの中国人留学生と切磋琢磨できる中国語学習環境に恵まれています。 また中国語・英語サロンの設置による交流の場づくりや海外放送を常時流すなどより実践的な語学力の育成を計画しています。 昨今中国との関係が問題となっていますが、次世代が活発に交流することで将来の友好関係構築に大きく寄与することは間違いありません。杏林大学のような中国重視型のグローバル人材育成は中長期的に見て大きな意義を持ってくるでしょう。 鳥取大学:プログラムビジョン 最後に鳥取大学を取り上げます。同大学ではアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の開発途上国や新興国をフィールドとした海外実践教育を実施する計画です。
それらのプログラムを通じて、国連機関やJICA(国際協力機構)及び国際NGO等のほか、特に開発途上国や新興国への世界展開を考えているコンサルティング会社や海外進出を図る各種企業にとって魅力的な人材を育成することを掲げています。 特に、アフリカやラテンアメリカといった他大学では手薄な地域へ送り込み、学生に半強制的にカルチャーショックを与えることでメンタルを鍛える方針は、どうしても頭でっかちになりがちな大学教育の中において「まずやってみる!」というスローガンの下、たくましい学生を育てるという信念が見受けられます。 これからは途上国におけるBOPビジネスなどがグローバル企業にとっての新規マーケットになる中で、想定外の事態への対応力やリスクテイクのマインドを備えた人材はますます必要とされるでしょう。 鳥取大学の取り組みは地方大学のグローバル化の一つのモデルになる可能性を秘めています。 以上、各大学で多岐にわたるプログラムが計画されていることが分かりますが、限られた学生を対象としているものもあります。 まずは数年間取り組んでみてプログラムが洗練された後に全学に展開するなり、またはエリート教育に徹するなら、選抜された学生から他学生が触発されるような仕組みをつくるなども今後は求められてくるでしょう。 以下に他の大学の特徴的なプログラムをご紹介します。 各大学の特徴的なグローバル人材育成プログラム http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/37028 |