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「モノの価格は市場原理によって決まる」という有名な言葉がある。需要と供給の交差する地点が最適な価格になるという経済原理のことを言い表した言葉だ。
ある商品を1万円で売りたい人と、その商品を1万円で買いたい人がいれば、需要と供給の原理によって、その商品の売買が成立する。この法則はオークションや株式売買等でもお馴染みの原理である。
しかし、本来この原理がまともに機能すると言えるのは、前提となる環境条件が整っている場合の話である。
所謂「市場原理主義者」(意味不明な言葉だが)と呼ばれる人々は、モノの価格は市場に任せれば全て最適な価格に収斂するという考えを持っている。しかしながら、「最適な」という言葉の定義は、環境条件によって大きく変わってくる。
例えば、生産者が正規社員ばかりの市場と、非正規社員ばかりの市場では、最適なる価格というのは大きく違ってくる。百貨店とコンビニでは売られている商品が違うが、仮に同じ商品を販売した場合、人件費云々で利益率は大きく変わるので、最適な価格設定は違ってくる。
もし、市場原理の役割が“商品を限りなく安くすること”でしかないなら、日本の労働者は全てパートかアルバイトにしなければ成り立たないということになってしまう。
本来、市場原理というものが機能しているのであれば、労働市場すらも平準化されるべきだが、実際のところはどうなっているのかというと、歪な大きな格差が開いたまんまだ。
現代日本で安値競争を繰り広げている企業の従業員の大半は、基本的にパートやアルバイトとして雇用されていることはよく知られている。雇用形態をパートやアルバイトにすることによって最適な価格を下げているわけだが、これが全員、正社員であれば、当然、最適な価格は上がってしまうことになる。この事実1つ取っても、市場原理で決定される価格というものは、前提となる環境条件によって変わることが分かる。価格というものは、市場原理だけで決まるのではなく、環境条件も考慮に入れなければ意味が無いということだ。
上記は日本の例だが、20世紀以前の経済環境と21世紀以降のグローバル経済環境下では、「最適な」という言葉の意味するものが全く違ってくるため、その定義を根本的に見直さなければいけない。
「市場原理によって価格は決まる」という台詞が如何に正論であったとしても、経済のグローバル化によって発生した“変数”を無視した経済理論は、なぜか現実感が伴わない。それは定義自体が曖昧なためである。
20世紀以前の如何なる優れた経済学者であっても、現代のような複雑化したグローバル経済を前提にした経済学を説いたわけではない。
経済学というものも、その時代、その環境において最善となる答えが変わってくるものなので、如何なる大経済学者が説いたことであろうと、それが必ずしも現代で通用するかどうかは分からない。良く言えば「形骸化」、悪く言えば「机上の空論」と化してしまうのが、経済理論の宿命でもある。過去の経済公式や統計理論をどれだけ頭に詰め込んだところで、複雑化した現代の経済を把握したことにはならない。なぜなら、確立された21世紀の経済学などは、未だ誰も説いていないからだ。
無論、「市場原理」という法則は普遍のものである。しかし、市場原理によって決定される価格というものは、その前提となる市場の違いによって異なる。
日本という1国の市場で考えるか、それとも世界という全体市場で考えるかで、決定される価格というものは違ってくる。個々の市場によって決定される「最適な価格」のことを市場原理価格と呼ぶのであって、決して世界で「最も安い価格」が市場原理価格ではないのである。
もし、グローバル経済下で、最も安い価格にすることだけを目的とした市場原理を徹底して押し進めれば、日本人の平均所得はいきなり現在の10分の1以下まで下落することになるだろう。日本の労働者の平均年収が400万円と仮定すると、それがいきなり40万円になってしまうわけだから、時給に換算すれば、せいぜい200円以下になるということである。
最低賃金が約800円になっている国で、いきなり平均所得が時給換算で200円になってしまうことが、はたして現実的(最適)な解だと言えるだろうか? 仮にそれが市場原理によって齎される最適な解だとして、「はい、そうですか」と素直に納得できるだろうか?
あまりピンと来ない人がいるかもしれないので、もっと分かりやすい例えで言おう。
もし、地球人の10倍の仕事能力を持った異星人が何十億人と地球に飛来し移住することになったとして、“地球人は異星人の10分の1しか仕事ができない”という理由で、いきなり収入を10分の1にすることは正しいのか?ということだ。市場原理というものが、異星人が混在する市場においても絶対だということであれば、如何に自然の原理とはいえ、それが多くの地球人にとって容認できるものなのか?ということだ。
異星人というのは、あくまでも例えなので的外れなツッコミはご遠慮願うが、日本よりも10倍以上人件費が安い中国などは、実質的に10倍の仕事ができる宇宙人みたいなものである。
日本人も中国人も同じ人間なのでベースとなる仕事能力は変わらないが、人件費に10倍もの差があれば、競争にならない。無論、グローバル格差が縮小していけば問題はなくなるわけだが、縮小していく過程においては、なんらかの手立て(ソフトランディング化)は考える必要がある。
競争にならないという理由から、「モノ作りは全て中国に任せて、日本は高付加価値仕事に携わるべきだ」というリカードの比較優位説のような意見もよく聞かれるが、先進国の人間が揃いも揃って全員、製造業を捨てるというのは、少々話が飛躍し過ぎであり、およそ現実味のない話である。
そもそも、将来的にグローバル格差が無くなれば、どこの国にも万遍なく様々な業種の労働者が存在するのが当たり前という社会になるわけで、そう考えると、過渡期である現在だけ国によって業種を分けるというのは無理があると言わざるを得ない。
国内市場のみで考えれば、正規労働者と非正規労働者では、同じ仕事をしていても収入が違う。この場合、市場原理がまともに機能すれば、両者の収入は平均的なものに収斂していくことになる。これなら誰が考えても正しいと思うだろう。
同一の環境下で歪に開いた不条理な格差を正常な状態に戻すという意味での市場原理であれば納得もできるだろうが、元々大きな差のある異なる市場を一緒くたにすることで発生する様々なマイナスを一切コントロールせずに成り行きに任せ、それが市場原理だと言うのであれば無茶苦茶な話だ。現代という時代が、グローバル経済に移行する過渡期であるということを完全に無視した考えだと言わざるを得ない。
お役所等の無駄を是正する意味での市場原理と、世界格差を無くす意味での市場原理とは、似て非なるものであり、齎す結果も全く異なる。
一応お断りしておくと、本記事はグローバル化や競争原理が悪だと言っているのではない。全く環境の異なる市場をいきなり混ぜ合わせることによって生じる当然の諸問題を全く考慮せずに、全てを市場原理ならぬグローバル原理(市場破壊原理)に任せるというのは、ある意味で文明人としての思考を放棄した姿であるということである。
「デフレは消費者にとっては天国」と言われる。しかし、世の中に生っ粋の消費者というのはほとんどおらず、大抵は消費者でありながら生産者でもある。働かなくても生きていける一部の絶対消費者にとっては、モノの価格が最適化(世界統一の最低価格に下落)するのは良いことであっても、大部分の人々にはそうとは限らない。
グローバル化によって問題が生じることが予め判っているのであれば、その問題をできるだけ最小化するために知恵を絞る、それが国民を主役に置いた「経(世)済(民)学」の基本というものだ。経済の主役は理論ではなく、あくまでも人間なのである。
(補足)本記事は「TPP」のことを述べたわけではないので、誤解のないように。
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