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国柄探訪: 不易流行 〜 守るべきもの、変えるべきもの
何百年も続く老舗は、守るべきものを守りつつ、時代の変化に即して、変えるべき所を変えている。
■1.キッコーマンの売上の45パーセントは海外で
醤油のキッコーマンは、平成24年度決算では、売上の45パーセント、営業利益の69パーセントを海外であげたという。アメリカで醤油を製造している工場は稼働後30年にわたって、ずっと二桁成長を続けている。その後に進出した欧州も同様で、さらにシンガポール、台湾、中国にも工場を持っている。
キッコーマンの醤油醸造は300年前以上に遡る。その名称は「亀甲萬」から来ており、香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされている。
醤油と言えば、純和風の調味料であり、かつ300年以上もその醤油を作り続けてきた企業が、いまや売上の半分近くを海外であげているのは見事と言うほかはない。そう言えば、キッコーマンのあの醤油ボトルはアメリカや欧州のスーパーでもよく見かける。
醤油を世界に普及させたキッコーマンの足跡については、弊誌640号「しょうゆを世界の食卓に 〜 国際派日本企業キッコーマンの歩み」で紹介した。[a]
キッコーマンの成功の一因は、安い化学醤油ではなく、本物の醸造醤油にこだわった点だろう。中華料理の煮込みなどでは化学醤油でもごまかせるが、肉のテリヤキでは明らかに味が違う。テリヤキを通じて、アメリカ人は本物の醸造醤油の味を覚えていった。
しかも、醤油を使ったアメリカ料理を開発して、新聞の家庭欄などで紹介し、一般家庭の食卓で醤油を定着させていったのである。
ここには、伝統的な醸造醤油にこだわりつつ、それをアメリカ家庭の食卓にあった新しい形で普及させていくという戦略があった。変えてはいけないものと、時と場所によって変えていくべきものとのバランスが、キッコーマンの国際的な成功をもたらした。
■2.「実はそれまで醤油を少しバカにしていたのですが(笑)」
「不易流行」という言葉がある。「不易」とは「変わらないもの、変えてはいけないもの」を指す。「流行」とは、「時とともに移り変わっていくもの、変えていかなければいけないもの」のことである。
キッコーマンの成功は、まさにこの不易と流行の見事なバランスにあったと言える。人間学を学ぶ雑誌『致知』の本年1月号が、この「不易流行」をテーマにして、キッコーマンの海外展開の基礎を作った茂木友三郎・名誉会長を表紙に掲げている。
茂木氏は、アメリカ進出の際のエピソードをこう語っている。
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昭和30年代に入って国内で醤油の売り上げが伸びなくなったんです。それまでは戦争中にうんと減産していたため、つくれば売れていたんですが、30年頃には戦前の生産レベルに戻ったのです。それで多角化と国際化が必要になったわけです。
昭和32年にはアメリカに販売会社ができて、翌年には私もアメリカに留学していたものですから、夏休みにはスーパーでの実演販売を手伝いました。醤油で味付けした肉を焼いて、小さく切って楊枝に刺してお客さんに食べて貰ったのですが、これが結構評判が良かったんですよ。
実はそれまで醤油を少しバカにしていたのですが(笑)、あの時に考えが変わりました。醤油を海外で売っていきたいと思ったんです。[1,p67]
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家業の「醤油を少しバカにしていた」が、アメリカ人たちが醤油で味付けした肉をおいしそうに食べる姿を見て考えが変わった、とは、醤油醸造の「不易」に氏が目覚めた瞬間ではなかったか。その舌鼓を打つ姿こそ、キッコーマンが300年間、追求してきた理想であろう。
そして、その舞台が日本から地球全体に広がった。醤油が焼き肉にも使われるようになった。こうした変化が「流行」である。
同社は「こころをこめたおいしさで地球を食のよろこびで満たします。」という「キッコーマンの約束」を発表しているが、ここには、不易と流行が見事に両立している。
■3.「名を成すは常に窮苦の日に在り」
キッコーマンのアメリカ進出は苦労の連続だった。工場を建てようとすると、地元の農民たちが公害を出すのではないかと反対し、2ヶ月ほどかけて説得に回ってなんとか理解を得た。
ようやく工場が稼働すると、オイルショックに襲われて大赤字。茂木氏は日米を頻繁に往復する生活に体を壊し、2ヶ月近くも入院した。復帰してからも赤字が続いて、針の筵(むしろ)に座っている気分だった。この時が一番の試練だったという。
そんな時、父親から貰った書が励みになった。
成名毎在窮苦日 (名を成すは常に窮苦の日に在り)
敗事多因得意時 (事に敗るは多く得意の時に因(よ)る)
これは渋沢栄一翁から父親に贈られた書である。渋沢翁には韓国・仁川に醤油工場を作った時に指導を受けたという。
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翁に深い畏敬の念を抱いていた父は、名が残るような立派な仕事は、いつも苦しい状況の中から生まれてくる。厳しい時こそチャンスだと。逆に調子のいい時は失敗も多いので、油断せずに気を引き締めてかからなければならない、と説いてくれました。
この書はいま私の書斎に掲げてありましてね。厳しい時はいつもこの書に励まされてきました。[1,p68]
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アメリカ工場は3年目から醤油が売れ始め、4年で累積損失を一掃できたという。今日のキッコーマンのグローバルな繁盛は、この「窮苦の日」にできたのである。
新しい「流行」に挑戦して苦しい時こそ、「不易」に戻って、そこから力を得る。また得意の時にも成功に甘んぜずに、「不易」を軸に「流行」を追求していく、という姿勢が、企業に長寿をもたらす。
■4.不易と流行は互いに支え合うもの
『致知』1月号の巻頭言には、テーマの「不易流行」を次のように解説している。会社設立の百年後に生き残れるのは、千社のうち、2、3社だとして、
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ちなみに日本には二百年以上続いている会社が三千社ある。韓国はゼロ、中国は9社だという。
何百年も続く老舗を観察すると、共通のものがあるように思える。
一つは創業の理念を大事にしていること。その時代その時代のトップが常に創業の理念に命を吹き込み、その理念を核に時代の変化を先取りしている。二つは情熱である。永続企業は社長から社員の末端までが目標に向け、情熱を共有している。
三つは謙虚。慢心、傲慢こそ企業発展の妨げになることを熟知し、きつく戒めている。四つは誠実、誠のない企業が発展した験(ためし)はない。
いずれも不易の基をなすものである。その不易を遵守していくところに生命の維持発展がある。[1,p7]
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「創業の理念」こそ「不易」の中軸である。キッコーマンで言えば、「こころをこめたおいしさ」は、表現は変われど、創業以来の変わらぬ理念であろう。
そしてその理念を忠実に守っていこうとすれば、時代が変わり、国が変われば、変えなくてはならないところが出てくる。日本では和食に使われる醤油が、アメリカではテリヤキにも使われるというのも「流行」である。アメリカの食卓を「食のよろこび」で満たそうとすれば、こうした「流行」は不可避であった。
したがって、「不易」を守ろうとするからこそ、「流行」が必要である。また「不易」の創業の理念があるからこそ、それを軸として安心して、変えるべき所を変えていく「流行」が可能となる。「不易」と「流行」とは対立するものではなく、互いを支え合うものである。
そして、情熱、謙虚、誠実は、この「不易」と「流行」を何百年にもわたって追求するために必要な姿勢である。
■5.靖国神社での献茶で、658柱の戦友の顔が、
不易流行のテーマに関する巻頭記事として、茶道裏千家・前家元の千玄室氏と、虎屋社長の黒川光博氏の対談が掲載されている。
裏千家は千利休を始祖として450年以上、16代続く老舗である。虎屋も1520年頃の創業と推定され、500年近く続いている。不易流行を語り合うには絶妙の配役である。茶と和菓子という組合せも心憎い。
千玄室氏は、戦争末期に21歳で海軍の航空隊に配属され、特攻隊員になった。隊の一人の戦友が「千な、俺が生きて帰ったらおまえのところの茶室でお茶を飲ませてくれるか」と言った。その一週間後に、その戦友は出撃して戦死した。千氏は語る。
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彼らは自分たちが死ぬことによって、国が救われるのだ、という気持ちで飛び立っていった。そういう連中がいまの日本の状態を見たらどう思うでしょうか。それを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。・・・
私は毎年靖国神社に献茶をする際、658柱の亡くなった我われの戦友の顔がワーッと出てきます。したがって私はいま、争い事を地球からなくし、真の平和というものを少しでも早く打ち立てられるように、一わんのお茶を持って最後のご奉公をしているのです。[1,p14]
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茶道は亭主と客との間の人間的なぬくもりを重視し、それを「和敬清寂」の精神と呼ぶ。これを不易とすれば、千玄室氏がその精神を世界に広げるべく、60カ国で300回以上も茶を差し上げてきた活動は「流行」と呼べるだろう。
■6.「その時代時代に合った味というものがあるのではないか」
虎屋には9代目光利が1805年に残した「掟書(おきてがき)」があるという。もともと天正年間(1573-1592)に書かれたものを、書き改めたものだ。そこには「倹約を第一に心がけ、良い提案があれば各自文書にして提案すること」「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない」などと、現代にも通用する条々がある。
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いまから四百年以上も前に書かれたものに九代目が共感し、それが現代にも通用することを考えると、ものの真理や商売の心得はいつの時代にも変わらないのだなと思います。・・・
ただ、変えてはいけないものがある一方で、変えていかなければいけないものもあると思います。
虎屋のように古くからある店は味も不変だろうと多くの方がおっしゃるんですが、私は味に不変ということはないだろうと思うんです。やはりその時代時代に合った味というものがあるのではないかと。
例えば戦後、甘いものが不足している中でお感じになる甘さと、現代のように和洋菓子が豊富にある中での甘さというものは少し違う。和菓子の味は、時代によって変えていかなければならないと私は思います。[1,p13]
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と、現社長の黒川光博氏は言う。不易流行そのものである。
東京の赤坂本店に併設された虎屋菓寮に入ったことがある。ゆったりとソファーが配置された店内にはクラシック音楽が流れ、和服を着た品の良い女性たちが、お茶と和菓子を供するという、周囲の喧噪とはまったくの別世界であった。
慌ただしい現代であるからこそ、新たに、ゆったりとした店を構えて、和菓子の味わいという不易を守っているのである。
■7.「物事にぶつかって、初めて本物の叡智に至る」
こういう深い内容の記事を何本も載せる月刊誌『致知』が、10万部ほども売れているという。日本の月刊誌の上位に入る部数である。我が国にはこういう真面目な雑誌を読む人が10万人もいるという事実だけで、日本の将来に関して多少の安堵を覚える。
致知とは中国の古典『大学』にある「格物致知」が出典であるが、これは、物事にぶつかって初めて本物の叡智に至る、という意味で、まさに、本号で紹介したキッコーマンの茂木友三郎、裏千家・千玄室氏、虎屋社長・黒川光博氏がそれぞれの実体験に基づいて語られていることこそ、本物の叡智であろう。
この『致知』を私も長年愛読し、弊紙のテーマ探しにも活用させていただいてきたが、その『致知:』が今年、創刊35周年を迎える。「致知」という言葉に込めた理想を35年も守ってきたという不易とともに、流行にも手抜かりは無い。
メルマガを発信したり、最近は海外190カ国に送本するサービスが始まった。海外で暮らしている日本人は多いが、その地にあわせた「流行」を心がけつつも、それに流されないように、日本人としての「不易」を求める方も多い。
また、現在の我が国としても、グローバル化、少子高齢化など激変する政治・経済・社会環境の中で、何を守り、何を変えていくかについて、叡智が求められている。そのためにも『致知』は、筆者が長年の読者として、自信をもってお勧めできる月刊誌である。
『致知』のご厚意で、本号で紹介した「不易流行」をテーマとした1月号を、定期購読された方にプレゼントしてくれるそうである。以下のリンクからどうぞ。
(文責:伊勢雅臣)
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