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被曝と健康12 (一般編−4)中村先生の心境2・・・350人の犠牲は仕方が無い
http://takedanet.com/2013/10/350_1885.html
平成25年10月14日 武田邦彦(中部大学)
音声解説
http://takedanet.com/files/tdyno.399-(12%EF%BC%9A26).mp3
先回、中村先生が「ウソ」をつかれたことを示しました。立派な先生が公的な立場で「ウソ」をつかれたのですから、かなり明確な理由があるはずです。それをさらに考えていきたいと思います。見解書の中で、まず注目しなければならないのは、
というところでしょう。ここで先生は重要なことを2つ指摘されています。
1)5mSvという被曝は問題ではない(平常時において特別な場合に認められている)、
2)もう少し高くても良いぐらいだ(”現存被曝状態”で)
この二つの記述は「おおざっぱには」理解することはできます。つまり、「普通は1年1ミリだけれど、「特別な場合」には5ミリまで認められている、中村先生としてはもう少し高い被曝でも良いと考えている」ということです。
でも厳密に考えると良くわからないところがあります。つまり、「平常時においても特別な場合に認められている」というのをこの見解書の中で探すと、がんセンターの藤井部長が、
という数値を書いておられますので、平均1年1ミリを超えなければ、5年で5ミリまでOKということです。そうすると、1年に5,2ミリの外部被曝を受けますので、これに内部被曝を加えると5年間に被曝する量を1年で受けてしまいますから、6市に住んでいる人は1年以内に移住しなければなりません。
そうなると、ここでいう「特別な場合」というのはハッキリしません。私が知っている範囲では、入院患者で医師が観察している場合は1年5ミリという特例がどこかにあったような気がしますが、医師が診ているとか特殊な条件がついていたと思います。
いずれにしても中村先生は単に「特別な場合に認められている」というのが、この6市の市民に適応できるのかに言及していないので、書いてあることは現実的には無意味な記述です。
また、ここでも中村先生は「外部被曝だけで1年5ミリが認められている。それを少し超えても大丈夫」と日本国の法令には違反することを、「自らの判断」で言っておられることが判ります。それでは、中村先生の「大丈夫」というのはどの程度のものなのでしょうか?
この見解書に同時に見解を書かれている藤井がんセンター部長とご一緒なので、「被曝の危険性」は藤井部長と同じ見解であると考えられます。藤井部長は、
1)1年1ミリで、1年に8000人の致命的発がんか重篤な遺伝障害がでる、
2)これは「確率的影響」なので、被曝量が増えるとそれに比例して増える、
としていますので、内部被曝がゼロとして、5.3ミリシーベルトの被曝による日本人の「致命的発がんか重篤な遺伝障害」の発生数は、42400人(8000×5.3)と言うことになります。これは交通事故死の8倍に相当しますが、中村先生は「大丈夫」と言っておられます。
「大丈夫」というのは人によって感覚が違うので、日本の法令(国民の約束)では「原発からの放射線で年間8000人犠牲者がでるのが、我慢の限界」としていますが、中村先生が個人的に犠牲者が40000人余であっても耐えられると思うことはありえます。
因みに、福島県顧問だった山下氏は「100ミリまで安全」と言ったが、山下氏の「安全」というのは、1年に80万人の致命的発がんか重篤な遺伝障害ということになります。日本の年間の死亡者数は120万人、それに加えて被曝で80万人が死亡するのですから、死亡者数は200万人になることになりますが、それでもそこまで耐えられるという人がいることは事実です。(私は山下氏がここまで異様なことを言うので、医師の免状を返上すべきと思うので、山下氏と言っている。ハッキリと限度を超えていると思う。)
交通事故でも1年1万人を超えたら日本社会は「耐えられなかった」のに、なぜ中村先生は4万人でも大丈夫と言われたのだろうか? 見解書からは「日本人の税金を使いたくない」ということがあり、もう一つは交通事故と違って「被曝で死亡した」という証明が医学的にできないことによると考えられます。
まず、お金の問題。引用した文章の終わりに「いずれにしても、このようなことに多大の費用を掛けるのは問題と思います」とありますが、福島県で1年1ミリ以上の被曝になる人は少なく見ても100万人ぐらいですから、350人ぐらいの方が「致命的発がんか重篤な遺伝的障害」をおこすことになります。これが5年続きますと、おおよそ1750人となります。(このような比例関係は中村先生と同じ見解書に書かれた藤井部長の計算を使っている。また内部被曝を考慮していませんから、現実よりかなり少ない数値です。)
1750人の犠牲者のためにお金を使うのはもったいないじゃないかという考え方です。このような考え方は、古くは水俣病、新しくはフォード・ピント事件に見られるもので、大きな産業のためには犠牲者はつきものだという基本的な考え方があります。これについては、このシリーズで解明していきたいと思います。
第二に、交通事故と違って「ガン」で死亡しても、それが放射線によるものか、一般的なガンか、現在の医学では判別できないと言うことです。つまり仮に福島で1750人の方がガンで死んでも、「自然にガンになった」と言えば、政府は補償しなくても良いということです。
つまり中村先生がウソを言った理由は、福島以外の人の税金が福島の人を守るために使われるべきではないと判断されたのでしょう。つまり論理は次の通りです。
1)このまま放置しておくと1750名の人が致命的ガンか重篤な遺伝障害になる、
2)しかし、原発をやるかぎりそのぐらいの犠牲は受け入れるべきだ(先生の私見)、
3)法令で定めた1年1ミリ(1年8000人)は、守らなくても良い、
4)たとえ福島の人が発がんしても、自然の発がんと区別ができないから将来とも補償金などの問題は発生しない、
と考えられたのでしょう。私は「科学は人の幸福のためにあり、あらかじめ約束した範囲を逸脱することは科学者の良心に背く」と思いますが、このような倫理観は人によって違うので、中村先生は、「科学は万全ではないから、1750人程度の犠牲者が出るのは仕方が無い」とお考えになったのでしょう。
では、犠牲者は致し方ないと考えた中村先生は、なぜ、見解書に「犠牲者がでるが、お金の方が価値がある」と言わなかったのでしょうか? 人間、正直が一番ですから、言うべきだったと思います。でも、先生が言われなかったのは「大衆に説明してもムダ」と思われたのでしょう。これは日本が民主主義の建前をとりながら、本当は指導者が民主主義を信じていないことによっていると思います。
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