02. 2013年9月20日 13:58:35
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JBpress>イノベーション>ウオッチング・メディア [ウオッチング・メディア] 円形脱毛症になっても故郷に帰らない理由 「原発難民」再訪記(その6) 2013年09月20日(Fri) 烏賀陽 弘道 福島県から避難生活を続ける人々を訪ねる再訪記を続ける。取材のため避難先を訪ねると、福島で起きた話を聞くのに、他県にばかり行くことになる。私が取材した人では、隣県の山形県米沢市で避難生活を送った人が多かった。群馬県や埼玉県など福島から遠く離れた場所もあった。 渡辺理明さん(43)もそうだ。渡辺さんに最初に会ったのは、2011年の夏、山形県だった(「野球を教えられなくなった少年野球の監督」)。米沢市で避難所を訪ねたとき、集まってくれた1人だった。渡辺さんは自分が暮らす同県寒河江市の旅館に私を連れて行ってくれた。8畳ほどの和室に、一家6人が寝起きしていた。布団をぎっちり敷き詰め、合宿か修学旅行のようだった。その後、市内にアパートを借りて生活を始めたときも訪ねた。福島第一原発事故から2年4カ月後の今年7月、渡辺さんは依然一家で山形県に避難生活を続けていた。 避難生活が2年を超え体は限界に 東北新幹線で福島駅まで行くと、飯舘村や南相馬市に行くときは駅前でレンタカーを借りて東へ走る。山形へ行くときは、そこで山形新幹線に入り西に走る。方向が完全に逆だ。 渡辺さんは山形駅前まで自動車で迎えに来てくれた。 「お元気ですか」 「いやあいやあ、まあ何とかやってますよお」 そんな挨拶を交わす。いつもの人なつこい笑顔だった。 「地元名物、食べに行きましょう」 そういって、寒河江名物のそばや、さくらんぼアイスの店に連れて行ってくれた。遠来の私をもてなしてくれているのだ。 3回目の山形の夏を迎えていた。南相馬市に比べると、山形県寒河江市は夏が暑く、冬は積雪が厳しい。雪かきなどしたことがなかったのに、こちらでは雪かきをしないと冬は生活できない。 「積雪にはやっと慣れました。でも暑いのはがまんできないです。ヤマセ(福島県浜通り地方に夏期に吹く強い冷風)とかないですしね」 どこか、元気がない。どこか声から気が抜けたような感じだ。いつもはコロコロした体をゆすって、大きな声でしゃべり、ワハハと笑う。しかし今日は口数が少ない。声も弱々しい。おとなしい。 ハンドルを握る渡辺さんの頭が気になった。 「円形脱毛症になりました」 そうメールに書いてあったからだ。 「寝転がってテレビを見てたら、ヨメさんに『あんた、これどうしたの』って言われまして」 3月頃、右側面に直径3〜5センチの丸いハゲができた。 どこかしら体調が悪い。医者に行くと「腎機能が低下している」と言われた。もう少しで透析だとも言われた。喉が痛いと思ったら、ポリープができていた。夜、眠れない。大事を取って、7月に検査のために10日ほど入院する予定だという。 避難生活も2年を超えた。思いも寄らない病気になる。体が限界に来ているのが分かる。 アパートに着いた。奥さんの久恵さん(41)が迎えてくれた。前にも取材で会っている。 「いつもツイッター読んでますよ」 笑ってそう言ってくれた。 「私も最近、調子が悪いんです。でもトシのせいなのか避難のせいなのか分からない。目がかすむんです。でも医者に行っても『何ともありません』って言われちゃうし」 山形県で避難生活を送る渡辺さん一家 台所からいい匂いがした。食事の時間が近づいていた。一家にまじって食卓を囲んだ。晩ご飯はカレーライスだった。
長男は高校1年生になった。山形の高校で野球部に入った。もともと野球少年だったので、避難先でも身を助けた。うまくとけ込めた。野球が上級生よりうまくて嫉妬されるほどだ。次男は小学校6年生。やはり野球少年だ。24歳の長女は福島県いわき市の大学を終えて山形に来た。老人介護の仕事をしている。次女(21)は花屋でバイトしている。 体に無理が来ているのは渡辺夫妻だけではない。 次女は避難してきた年の6月、虫垂炎になり、翌年3月には卵管に炎症を起こしてお腹を10センチ切る手術を受けた。医者は「避難のストレスのせいだろう」と言った。 「親が子を守るのは動物的本能」 渡辺さんは南相馬市で生まれて育った。原発事故が起きるまで、電気設備工事の会社を経営していた。福島第一・第二原発内部の電気設備工事の仕事もよくあった。腕を買われて、県外の原子力施設の工事をすることもあった。 「放射線管理区域」に入る仕事が増えたので、勉強して「放射線管理者」の資格を取った。作業員の被曝量が法律の制限を超えないように監督する役職だ。多い場所で年間20ミリSv、少ない場所で10ミリSvに抑えるために、毎日記録をつけ、細心の注意を払ってきた。年間規定量に近づくと、仕事から外さなくてはいけない。仕事を終えて原発から出るとき、体の線量が少しでも高いと除染を受けて値が下がるまで帰してもらえない。暑さで防護服を腕まくりしたり、マスクを外している作業員を叱ることもした。 そんな経験からすると、福島は屋外すべてが原発内部のようになってしまったと感じる。そんな場所では、とても怖くて子供を育てることはできない。 原発事故後、政府が年間被曝量の上限を1ミリSvから20にいきなり動かしたことで、強い不信感を持った。自分が放射線管理者として苦労して守ってきた法律は、一体なんだったんだと腹が立った。 どうして苦労して避難生活を続けるのですか、と私は尋ねた。2年を過ぎて、金銭が尽きたり、精神・肉体の疲労のあまり南相馬市に帰ってしまった避難者も多いことは本欄でも書いた通りだ。 渡辺さんは一気に話し始めた。 「自分の子供を病気にしたくないんです。一生に一度でも、親のせいで被曝して病気になったら、どうします」 「親が死んでも、子供が病気になったら生涯残ります。お墓に線香も上げてもらえません。どうしようもないです」 「親が子を守るのは動物的本能だと思います。イヌでもネコでも子供を守るのが本能だと思うのです」 避難の必要はないという親御さんもいます。私は聞いてみた。 「そりゃあ、放射能の怖さ、影響をよく分かってないのです」 渡辺さんは原発で働く知り合いの中で甲状腺や肝臓がんで亡くなった人たちの話をした。進行が速い。発見後すぐに亡くなる。政府や学者が「健康に影響はない」と力説しても、渡辺さんの経験は「そんなはずはないだろう」とささやくのだ。 理明さんも久恵さんも、南相馬市に戻った知り合いとメールや電話で話すと「いつ帰ってくんの?」「全然大丈夫だよ」と言われて返答に窮する。そんなときは「こっちで地盤固まってるから」「お世話になっている人もいるからね」と返す。 「(放射能の)知識がないのです。無知すぎます。新聞やテレビの基本的な報道すら見てないで安全だ、大丈夫だと言う人が多いんですから」 国や県、市といった行政にも「うんざり」している。広報紙に「祭り」「運動会」の案内が出ている。なぜわざわざ子供を屋外で放射能にさらすのか、理解できない。原発事故以前と何も変わっていないように思える。危険を含めて正直に本当のことを言わないことにも不信感を持っている。 「放射能の犠牲になるのはまず若者や子供からですよ。どうして正直に言わないのか。そうなって苦労するのは妻であり子供なのに」 今戻るとこれまでの苦労がすべてが水の泡に 山形で仕事を始めようかどうしようか、ずっと考えている。仕事はないことはない。しかし、43歳で一から出直すのがしんどい。ためらう。本欄で取材した木幡さんや石谷さんと同じことを渡辺さんも言った。 国や東電からの仮払金、義援金などは2年間で合計320万円だった。それで一家6人がぎりぎり食いつないだ。長女や次女が働き始めたことも助かった。それでも「カネがどんどんなくなっていくのが分かる」という。 長年、地元の小学生にバレーボールや野球を教えてきた。かつての教え子たちの何人かは、成長して高校野球の選手になったりプロになったりして活躍している。その成長を見るのが何よりの幸せだった。みんな我が子のように思えた。その喜びが2011年3月11日で消えてしまった。 「あれですべてが変わってしまいました。すべてが狂ってしまった」 渡辺さんはしんみり話した。 「でも、今戻るとこれまでの苦労がすべてがパアなのです」 時間が経てば分かります。渡辺さんはそう継いだ。 「今は苦しいけど、健康被害は時間が経てば明らかになるのです。はっきり分かります」 東京に戻った後、渡辺さんからメールが来た。長女が結婚することになりました。そう書いてあった。お祝いを書いた。 「おめでとうございます! ついに花嫁の父ですね。お相手は山形の男性ですか」 すぐに返事が来た。 「秋田出身、山形在住の男性です」 ちょっと照れたような文面だった。渡辺一家は山形に深い根を下ろしつつあった。 |