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【原発の安全】03・・・原発建設時代の自信家たち
http://takedanet.com/2013/09/post_1a8e.html
平成25年9月02日 武田邦彦(中部大学)
日本の原子力は、正力松太郎や中曽根康弘らが指導した政治・経済面での急速な進展に引きずられるように科学、技術の世界も参加者が増加していった. 何しろ当時の研究環境から言えば、原子力の研究は未来を明るくする先端的研究だったし、国がバックアップしてくれたので研究費も潤沢だった。
つまり、「格好いいし、お金はくれる」という研究テーマだったので、多くの学者が原子力を専門にしようとしたのは理解できることだ。1950年代に原子力に身を投じた人を「第一世代」とすると、私のように石油ショックにショックを受けて「エネルギーがなくなるのは大変だ!原子力をやらなければ」と思って1970年代に原子力を始めた人は「第二世代」に属する。
第一世代でも第二世代でも、大学を出てそのまま原子力に進み、特に原発関係の研究を行う人は「純血種」、「本丸」と言われ、中枢部にいる。途中から参加した人はどこまで行っても外様で、このような徒弟制度的学者システムは原子力のような閉鎖的な分野にはおおい。
ところで、第一世代の科学技術者は基礎的な分野を開拓するので、その特徴は「基礎学問(理学)」で「核物理」が中心になる。つまりウランがどのようにして核分裂をするのか、臨界をコントロールするにはどうしたらよいか、冷却剤や減速材に何を使えば良いかなどの基本的なことを決めていく時期に当たるからだ。
そして原発でも原爆でもアメリカが圧倒的な力を持っていたので、まずはアメリカに行って原子力の最新の学問を学び、それを日本に応用するのが主な役割だった。
これに反対したのが湯川秀樹博士で、原子力の自主開発を主張して初代の原子力委員を辞めた原因にもなった。今になってみると、「原発の安全性は自主開発にある。それができなかったので福島事故が起こった」とも考えられ、その意味で、原子力の導入を急ぐ正力松太郎より、やはり湯川秀樹の考え方の方が正しかったように思う。
技術のことは実業家より科学者の方が良くわかるということかも知れないが、政治家や実業家は自信が強いので、「科学者がなにか言っている。彼らは現実が判っていないから」と言って笑っていた。
ここが面白い。当時の政治家や実業家は原発の安全性が判っていたわけではない。でも、「やりたい」という希望があり、そのためには「安全」であり「日本で開発しなくてもよい」としないとできないから、「安全」といい、「できる」というに過ぎない。
今でも、原発が安全だという人の大半は、「安全かどうか」を考えてのことではなく、「安全としないと再開できない」というだけだ。当時も同じ奇妙な論理があり、そちらの方がいばっていた。
科学や技術というのは面白いもので、理論式でも理論計算でも式を勉強し、計算の過程をいくら勉強しても「自分のもの」にならない。目の前の物理的な現象をジックリ考え、自分で(下手でも)式を立て、自分で計算すると一度に中身を理解することができる。
こんなことは科学技術でなくても、料理でもなんでも「会得する」というのは頭脳と体験、苦しみなどが伴わないと人間は隅のスミまで理解することができない。
湯川秀樹が当時、原発の安全性まで考えて「技術は日本で」と主張したか、あるいは理論的な物理学を進めるための道具として原子力を利用しようとしたのかは不明だが、かりに日本が湯川秀樹の忠告にそってかなりの部分を日本で作り上げようとしたら、その過程で「原子力の安全技術」が育った可能性もある。なにしろアメリカの設計通りの原発を作るのだから、「アメリカの設計に欠けているもの」が発見できなかった。
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