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【原発の安全】02・・・誕生の時の科学者の動き
http://takedanet.com/2013/08/post_0c39.html
平成25年8月26日 武田邦彦(中部大学)
広島・長崎の原爆の経験があるので、日本では軍事用の原子力利用にはアレルギーがあったので、「原子力の平和利用」を象徴する「非核三原則」と、「自主・民主・公開」の「原子力三原則」を表面にたてて政治的活動が行われた。
15年ほど後の沖縄返還の時にも、表面上は非核三原則を守り、密約で日本政府とアメリカで「沖縄への核の持ち込みは自由」ということになった。
このことから判るように、日本の核化は「政治、軍事、経済」が先行し、技術やエネルギーという視点ではなかった。つまり原子力の利用が大きな政治課題になったのは1950年代の終わりで、その後、1970年代まで、日本はエネルギーの不安は感じていなかったからだ。
それでは、原子力を導入する政治的な大がかりなキャンペーンの中で物理を中心とする原子力研究陣はどのような状態だったのだろうか?
戦争中に核反応(日本軍の原爆)を研究した理化学研究所の仁科芳雄、後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹などの学者が日本の原子力研究の最初を担い、続いて戦後、伏見康司(日本学術会議会長)、茅誠司(東大総長)、武見太郎(日本医師会長)らが活躍した。
これらの人たちはその優れた頭脳で広島の爆弾が原爆であるということや、日本の原子力の平和利用に関する初期の段階で学者として活躍し、どちらかというと「批判派」でもあった。
つまり、正力松太郎、中曽根康弘などの政治、経済組がひたすら日本の核化を進める中で、主として軍事目的への原子力の利用を警戒し、かつアメリカからの安易な技術導入ではなく日本が自主的な研究開発を進めるべきであるというスタンスに立っていた。
しかし、今から歴史を振り返ると、政治・経済サイドが現実的で権力に基づく推進策を採ったのに対して、学者は理屈を述べていたこと、核物理や放射線の影響についてはかなりのレベルにあったものの、アメリカからの情報の不足もあって、原子力発電の安全性やそのエネルギー的意味などについては考えが及ばなかった。
基礎学問の面ではきわめて優れていた初期の原子力の人たちも、システムエンジニアリングのような分野は、概念すらはっきりはしていなかった。
当時、世界的には東西対立と原爆競争の中にあり、1955年のアインシュタインとバートランド・ラッセルによるロンドン宣言に見られるように「核の安全問題」はもっぱら「人類を死滅させる可能性のある核爆弾」に関心が集中していたことにもよる。
不思議なことで、人類の将来を脅かすものとしての環境問題が指摘されたのは、ロンドン宣言からわずか8年後のレイチェル・カーソンの著述物だった。世界の知性と言われたこの二人も、8年後を予測できなかったのだ。
それはともかく、当時、今日の原発の安全についてはほとんど意識されていなかったと言っても良い.またこの時代から科学者は必ずしも誠意がなく、たとえば仁科、湯川などの核物理の専門家は戦争中、原爆製造計画に携わっていたが、それは本人達からは明かされなかった.
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