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ABCCは何をしたか(「広島の視線」・原爆・広島・平和公園・ガイド・花・英語)(既出かと思ってたらなかったので投稿。)
http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/194.html
投稿者 こーるてん 日時 2013 年 8 月 22 日 22:17:54: hndh7vd2.ZV/2
 

http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/26276180.html
ABCCは何をしたか

<IMG SRC="http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/15856.jpg">

原爆資料館のABCCの説明は次のようになっています。
「原爆の人体への影響を長期的に調べるため、1947年にABCC(原爆障害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました。1951年、市内比治山の高台に移り本格的な施設が整いましたが、市民からは『研究、調査するだけで治療行為をしない』と、その活動を批判する声もありました。
1975年に日米対等で管理・運営されることになり、(財)放射線影響研究所(RERF)として改組されました。」


占領軍とABCCがどのようなことをしたのかは具体的には書かれていませんので、新聞記事や証言で見てみましょう。


◎記事
1.ABCCに関する朝日新聞の記事(1998年7月29日付)。
記者(添田孝史)の質問に答えたのは、87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして、被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授。


Q: ABCCの研究は軍事目的だったのですか。
A: 研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がないニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった。


Q: ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。
A: 治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ。ABCCは、多い時は千人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて一人ひとりにインタビユーし、亡くなった7500人を解剖した。


(記者のコメント)現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆二世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。


2.「葬られた原爆展・スミソニアンの抵抗と挫折」(1995年、五月書房)より。
『米国政府は、放射能が多数の人口に及ぼす影響をよりよく理解するため、1947年に米国防総省学士院の後援で原爆傷害調査委員会(ABCC)を発足させた。この委員会は結局12万人の原爆生存者を確認し、その人たちのいた正確な場所と放射線量を確認し、長期にわたって健康状態を調べることになった。この調査委員会は犠牲者に対し治療をしなかったので、日本で厳しく非難された。治療をしないという決定は二つの理由からだった。それは、日本の医者から患者を奪いたくないことと、生存者を治療すれば爆撃した罪を認めることになるからであった。日本人の側からすれば、合衆国政府はこの調査委員会を通し、日本への原爆投下を一つの実験として、生存者をモルモットと見なしているとしか思われなかった』


◎証言
1.深川宗俊氏「広島はたたかう」より(1966年、胎内被爆者・被爆二世を守る会発行)1945年8月6日、広島市内の救護所、病院は全滅しました。多数の救護班や救援隊が県内・県外から送られて来ますが、日本の調査団の貴重な調査研究は、すべて米軍の占領軍の命令で没収されました。原爆に関する研究発表も、原爆をテーマにした芸術作品も、9月19日に米軍が実施したプレスコードで、私信まで検閲されました。
当時宇品にあった原爆救護病院も10月14日、米軍メイソン大佐らの手で、それまで行った調査結果の提示を求められ、あらゆる研究資料や剖検材料を没収しました。メイソンらは、それは作戦行動の一部であると脅したのです。アメリカはABCCの敷地について、元宇品と比治山を要求したが、広島市は強く反対の意向を伝えました。「どうしても反対すれば、広島市にとっても日本政府にとってもいい結果にはならない。」というGHQの殺し文句でけりがついたのです。
占領中はこのような殺し文句が大手を振って通ったのです。学校の授業中でも子どもが連れ去られたり、街で遊んでいる子どもにチョコレートなどをばらまいて、ジープに乗せていったりしたのです。それに反すると、軍法会議にかけると脅すのです。ある少女の場合は、一糸まとわぬ裸にされたうえ、前・横から写真を撮られ、それを気にやみ精神異常をきたしたそうです。


2.岡村ヒサさん
私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。
全文はhttp://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/30256009.html


3.久保浩之さん
妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。


4.知人
ABCCで死体から脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。


5. 匿名
ある日突然、縁なし眼鏡の二世がジープと共にやってきた。そして、"血を採るだけだ"と言った。私は、"血はあげたくない"と断った。するとその二世は"アナタ、ソンナコトイッテイイノデスカ。グンポウカイギニマワッテモイイノデスカ"と言った。これ以上断れば本当に軍法会議にまわされるかもしれないという恐怖心だけが残った。そして"あした一人で行くから"とこたえていた。
全文はhttp://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/26276325.html

 
6.女性
私は広島の生き残りのひとりです。(…中略…)ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。

(橋爪 文『少女・14歳の原爆体験記』 高文研)


米・ABCCの新生児データ、助産婦に謝礼払い収集  
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/30286464.html


ABCC遺伝計画」における助産婦の役割
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/29009803.html

「放射能安全神話」を準備したABCCとヒロシマ 哲野イサク
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/030/030.html


ICRP的発想は私たちに刷り込まれている 哲野イサク
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/028/028.html

(転写終了)

 

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コメント
 
01. 東京駅の鳩 2013年8月22日 22:58:09 : Yhz2dktH8ZIuI : DjhpkR4pmg
福島のデータも現在アメリカに情報提供をされている。言葉は悪いが人体実験だ。レントゲンバッジをつけて子供達が通学する環境下など異常だ、放射線管理区域、生活をしてはいけない。広島と長崎の当時の検体資料が日本に送り返されているようだ。、次の新しい資料が手にはいるからか、福島のデータは共有されている。

02. 2013年8月23日 07:05:09 : 9qamfAFsb6
『その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。 』
上記にある通りですが、何故フクイチに国際支援が入れなかったかの理由は、ここにあります。元々ゲンパツなる殺人廃物製造機は、文字通り核兵器の落としだね以外の何物でもありません。
イスラエル企業が監視している四号機は、軍事的ブラックボックスである以上、東電以外の何者も関係してはならないと、死の商人が硬く拒んだ事が、現状の打つ手なしな状態を引き起こした根本原因だと、のちの歴史に書かれる事になるでしょう。
日本人が継続出来ていればですが・・・

03. 2013年8月23日 12:16:25 : GWgfOtzy4g
4号機は米核ミサイルによる、核兵器製造炉としての証拠隠滅の為の破壊だと言われてるようですね。自衛隊は爆破前に退避して爆破後に米軍がきた。311時は点検中で蓋が空いていて壊れてなかったから都合がわるかったらしい。

こちらは呉だが米軍は原爆資料や証拠を根こそぎ強奪していったと関係者から聞いたことがある。。

産婆が奇形児大量さつりくと親から聞いている。

呉の海軍の生き残りで南方から帰ってきた人から聞いたのは米軍は降伏したものや民間人も皆殺しで生きて帰るのがむつかしかったそうだ。

abccは内部被爆を60年間認めてこなかった人種差別白人。その走狗の広島と呉の役人と医者の馬鹿者どもも奴隷根性で内部被爆を認めなかった。自己保身の塊だ。

ずっと呉で言われてた噂だがね、原爆で死んだのも10万や20万どころではない。全部嘘。呉のひとの話では広島に住んでた60万は全滅で呉や周辺部から行った20万以上がしんでるそうだ。ずっと嘘だった。白人は捏造。朝鮮支那人と同じだ。


04. 2013年8月23日 12:48:50 : s1s0jQ1eWo
▼「原爆ホロコースト」の実態
広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。第4 に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhc700.html
▼「医師が見た被爆者の生と死〜原爆被害、隠蔽と放置の12年間〜」肥田舜太郎先生
昭和22年(1947年)、私は国立病院の医者でしたが、労働組合の役員をしていました。そんな私に広島の開業医の叔父から手紙が来ました。私が労働組合の役員をしていると知って、私に厚生大臣に会って、「広島で生き残った医者は数が少ないし、被爆者の治療の方法が全く分らない。アメリカは被爆後、日本の各大学医学部が行なった調査資料を取り上げて持っている。それを公開してもらって欲しい。それと、治療法がわかっていたらそれを教えてくれるよう頼んでもらってくれ。アメリカは来年、広島に病院を作るらしい(ABCCのこと)。噂だが、そこでは検査だけをして治療はしないと聞いている。治療もするように厚生大臣に頼んで欲しい」と書いてありました。私は早速、厚生大臣に会いに行きました。当時の厚生大臣は林譲治という自民党の大臣で、私は団体交渉で始終、会っていましたから、その時も大臣が会ってくれて、こういうわけだと叔父の手紙を見せ、「GHQの担当の者に頼んで欲しい」と言うと、「そんなこと出来ない」と言下に断られました。天皇陛下でも簡単には会えないマッカーサー総司令官にそんなことが出来るか、と動こうとしません。それでも根気よく頼むと「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」といわれ、売り言葉に買い言葉というわけで私が行く羽目になりました。日比谷交差点の角の第一生命ビルに星条旗が翻っていて、正面玄関に衛兵が立っています。「軍医に会いたい」というと何かベラベラと英語で言われた。早口でよく分らない。「そのうちに「予約はあるか」と訊いていることが分り、「ない」というと「ダメ」と断られた。陸軍病院の営門でも兵隊に面会にくる家族に、衛兵は規定を教えて断るのですが、何度も来て顔馴染みになると人情が通って、中には入れないが、相手を営門まで連れ出して会わせることを知っていたので、何回も通えば道は開けると日参しました。三日目に同じ衛兵と顔を合わせ、「用件はなんだ」と聞くから「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「連れてきてやる」と昼食休みに若い軍医中尉を連れてきて会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて話すと。原爆関係は軍事機密でそんな問題は自分の権限外だと言う。困っていると、どうしてもと言うんなら上官に会わせるという。呼び出されて会ったのは軍医の高官でしたが、医者なので紳士的に話をしてくれました。しかし結論は「資料の公開は不可能である。被爆者の疾病を隠蔽した事実も学会の研究を禁止した事実もない。念のため調査するから二週間待て」と言われた。やがて呼び出しがあり、「総司令部で調査の結果、隠蔽も禁止も全く事実無根である。従って、今後、そのような言動は一切しないように。万一、そのようなことを喋る時はその責任はお前が取らねばならない」と慇懃無礼に威嚇されて帰りました。猛烈に腹が立ちました。アメリカが落した爆弾で、死んだ者は別としても、なんとか助かっている者が診断もつかず、治療法も不明の病気で苦しんでいる。日本の学者が苦労して調べた資料を没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。理不尽な占領権力の傲慢さに、腹の底から憤りが全身に燃えあがりました。私はアメリカの無法と闘うため共産党に入ろうと決心しました。当時、被爆者の問題など、誰も相手にしてくれず、占領権力に真正面から立ち向っていたのは共産党しかなかったのです。
当時は、被爆者であることを知られてプラスになることは何もなかった。まず周りを警察がうろうろする(被爆者は占領軍から広島・長崎のこと、被害のことなど、原爆に関することは一切、喋ることも書くことも禁止されていたので、地域によってはいつも警察の監視下におかれていた)。回りに人が寄らなくなる(病気がうつると言われた)。
死亡診断書が他病名になっている原爆病の被爆者
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/gakusyuu00.html
▼肥田舜太郎医師の講演より
何日もたって遠くから来た人から同じ病気が出始めたんです。つまり、本当の核兵器の恐ろしさ、あるいは核の恐ろしさは、直接ガイガーカウンター持っていってこうやってさわって、ああ、どうとかこうとかいうのはあんまり怖くないんです。怖いけども、それは死んでも、「ああ、これは放射線で死んだ」って分かる。ところが、何で殺されたっていうのが分からずにたくさんの人が殺されてるわけです。
で、この被害がアメリカの政策と日本の政府の政策で隠されてるんです。つまり、「原子力発電所は安全だ」とか、それから「あとから入って少々の空気吸ったりしたのは、微量の放射線だから心配ない」。これがアメリカが戦後ずーっと世界に宣伝し、国連を動かし、国連に嘘の報告をし、国連の国はみんな放射線被害、原爆被害ってのは直接ピカッてやられたのが怖いんだ、そうでないのは心配ないって思ってるんです。
で、これはこの人は1週間後だからまだ何とか僕らは見当つけるけれども、半年後、1年後、5年後、10年後、20年後、30年後に死んだら全く関係ないことになっちゃう。こういうかたちで人を殺すのが核兵器だし、放射能なんです。
で、皆さん知らないけど、広島・長崎のヒバクシャはアメリカの占領していた8年間、「広島でヒバクしました」、「長崎でヒバクしました」っていうことを言ったら、警察に連れていかれたんです。皆さんはその頃の8年間のことを知らない。
http://www.jcan.net/tanpoposya/jco930/4th_2003/930_4th_hida.htm

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