02. 2013年8月22日 10:09:24
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タンク汚染水漏れ、「レベル3」相当 福島第一原発 東京電力福島第一原発で高濃度の放射能汚染水がタンクから漏れた問題について、原子力規制委員会は21日、国際原子力事象評価尺度(INES)で8段階の上から5番目の「レベル3」(重大な異常事象)に相当すると発表した。高濃度の汚染水が300トンと大量に漏れたことを重視し、レベル3が相当と判断した。(朝日新聞デジタル) [記事全文]◆過去最大の水漏れか ・ 汚染水300トン漏出=最大8000万ベクレル―貯蔵タンクの水位低下・福島第1 - タンクからの漏えい量としては過去最大で、東電が漏れた場所と原因の特定を急いでいる。時事通信(8月20日) ・ [映像]福島第一原発のタンク 汚染水漏れは過去最大量 - TBS系(JNN)(8月21日) ◇レベル2への引き上げとも見られていた ・ 福島第1 事故評価引き上げ検討 「レベル1」→「2」なら異常事象 - 産経新聞(8月21日) ・ [映像]福島第一原発に水たまり、規制委「汚染水漏れレベル1」 - TBS系(JNN)(8月20日) ◇原発事故の国際評価尺度 ・ 【図解・社会】東日本大震災・国際原子力事故評価尺度(2011年4月12日) - 時事通信 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/311eq_fukushima_1np/;_ylt=A3JvTHSOZBRStncBM18AAAAA 原発稼動停止の裏で起きていること/石川和男(東京財団上席研究員) PHP Biz Online 衆知 2013/8/21 12:54 石川和男(東京財団上席研究員) 将来的には脱原発する運命にある日本が選択すべき現実的な道とは [拡大] 原発推進派・反対派の双方から多数のバッシングを受ける著者はある時、過激な推進派と過剰な反対派の間に共通点を見出した。それは、「すべての課題をテーブルに載せずして『稼働だ』『反対だ』と叫び、相手からの鋭いツッコミには返す言薬を持たない」ということ。本書は、原発にまつわるすべての課題をテーブルに載せることを目指し、様々な視点から客観的に、冷静にこの間題を考察する。将来的には脱原発する運命にある日本が選択すべき現実的な道とは――? 資源エネルギー庁にいた著者が独自の「原発安楽死論」を展開する。 ◆赤サビだらけの老朽火力発電所◆
「今火力発電が1つでも止まったら日本はアウトです」 案内してくれた老電力マンは暗い顔で重い口を開きました。 石油やLNG、石炭による火力発電は、なんとか原発に代わる電源になり得るものではあります。しかし、このまま原発を稼働せずに火力だけを動かし続けると、莫大な燃料費がかかり続け、日本経済は別の面から窮地に追いやられかねません。 さらに、今ほぼすべての原発が停止しているなかでなんとか日本に必要な電力が供給されているのは、火力発電がかなり無理をしながらフル稼働しているからだということをお伝えしておかなければなりません。ここに、日本全体がブラックアウト(広域的な大停電)しかねないほど大きな落とし穴があるのです。 今、原発なしで電力供給を維持できているのは、莫大な燃料費に加え、1度はガタがくるほど老朽化してお役御免となった火力発電所を半ば無理やり再稼働させているためです。 私は今回、その実態をみるために、老朽火力発電所を何か所か視察しました。そして驚くべき現実を目の当たりにしました。冒頭の老電力マンのしわがれた呟きにすべてが凝縮されていたのです。 たとえば、その1つ、中部電力の武豊火力発電所。名古屋から名鉄線で約40分、愛知県知多半島の重要港、衣浦港の一角に広がる人口4万人ほどの武豊町。武豊火力は、その町の工場地帯の一角に突如、8階建てほどの鉄塊として姿を現しました。まさに異形です。 というのは、遠目にもいたるところに赤サビが浮き、その痛み具合がよくわかり、全身ボロボロ状態の変形長方形の巨大なポンコツロボットのような有様だったのです。加えて、まるでパッチワークのようなツギハギだらけの煙の通り道であるダクト。今にも火でも吹きそうなザマ。これでよくぞ、電気を産み出せているものだと思わされます。 しかし、どうして、そこまでツギハギ状態になったのでしょう。理由はこうです。 ボイラーの排気ダクトは周囲が繊維状の保温材で覆われ、その周囲が金属の外装材で覆われています。通常運転されていれば保温材は雨水が浸透してきても熱で乾燥します。ところが長年使用していないと、水分を含んだままなのでサビが浮き出てきます。そのサビから穴が空きます。こうして穴だらけのダクトとなり、それをいきなり使用する羽目になり、大至急鉄板を溶接して穴をふさいだからです。配管の腐食もいたるところで見つかり、その都度、部分的に新品に換えたといいます。 その赤サどやパッチワークダクトでもわかるように、武豊2号機は、とうにご隠居の身、やがて寿命となりお葬式(解体)を待つばかりの運命にあったのです1972年に運転を開始し、37年働いて働いて働き抜いて4年前から運転を停止していた状態だったのです。 ◆満身創痍に鞭打って◆
そんな「ご隠居」状態だった武豊火力2号機(37.5万kW、燃料:重油、原油)の出番は、突然やってきました。 菅首相(当時)の思いつき迷走発言、パフォーマンスです。 東日本大震災後の2011年5月6日、菅首相が突如、中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の運転を停止する「要請」を表明しました。浜岡原発の津波対策が完了し、政府の評価・確認を得るまでの間は、浜岡原発の運転を停止するよう求める、というものです。 「反原発で何かパフォーマンスをしたかった菅首相の目に飛び込んできた恰好のターゲットが浜岡原発だったのでしょう。中部電力が老朽火力を動かせばなんとかやれるというのを視野に入れ、法律では止められないので、『要請』という姑息な手段で浜岡ストップをメディアに訴えた。東日本大震災から約2カ月、当時はわけもわからずただ原発怖いという空気が満ちみちていただけに、菅氏のパフォーマンスにメディアは『首相よくぞいった』とばかりに大々的に報じました。その時点で、すでに中部電力にノーという選択肢は残されていなかったのです。何も瑕疵がない浜岡を可能性だけで止めようという、法治国家としてはありえないような方法なのですが」と当時を思いおこしながら怒る自民党関係者。 かくして中部電力はこのメディアに強く後押しされた総理「要請」を受け入れざるを得なくなり、5月9日に浜岡原発4号機(113.7万kW)、5号機(138万kW)の停止、そして定期検査中であった3号機(20万kW)の運転再開を見送ることを決めたのでした。 中部電力の全発電電力量1237億kWh(2010年度)の12.4%(同)を占めていた原発がすべてストップとなったのですから、それは一大事です。 その浜岡原発の突然の停止で、突然の出番がやってきたのが、2年前、老朽化で引退寸前だった武豊火力2号機だったというわけです。5月10日。夏の冷房需要のピーク、7月末の稼動を目指し、いっせいに準備が始められたのです。残された時間はたった81日。しかし、その再稼働は前記したように綱渡りの連続でした。 前記のダクトの穴程度ならいざしらず、運転制御用のコンピューターが故障した時は、メーカーからは「中部さん、こりゃ古くて修理は無理ですよ」とまで言われたのです。そこを泣きついて、やっと修理し動かしたというのです。また台風にも襲われ屋外の海水取り込み装置にゴミや海藻が大量に流入してきました。その除去作業。 問題はこれだけではありませんでした。 再稼働直前の2011年7月27日、ようやく試運転再開にこぎつけました。いよいよ試運転開始。しかし、まもなく悲痛な声が若手電力マンからあがったのです。 「大変です! タービン軸の油温度が急上昇しています!」 「なに! このままだとタービンが焼き付いてしまうぞ!」 タービンが焼き付けば、2号機は2ヵ月以上動かなくなります。夏のピーク時に中部電力は大幅な節電要請、あるいは下手をすればブラックアウト(大停電)の危機さえ迎えたのです。所長は怒声にも似た荒い声を張り上げました。 「誰か! なんとかできないのか!」 その時、ひとりの老電力マンがこう声をあげたのでした。 「私がやってみます!」 一度、類似の経験があるというベテラン電力マンが額に汗を浮かべ、震えそうになる手を何度も片手で抑えながらゆっくりゆっくりと長年の熟練度と勘で、タービンの回転数を少しずつ落としていったのです。やがてタービンは速度を落とし静かにストップしました。 「ふう……助かった。いやあ、本当にありがとう」 所長は震える声を抑制しながら老電力マンに探々と頭を下げました。武豊火力の一同は何度も老電力マンに感謝の言葉を述べました。しかし、なぜこういう状態になったのか原因はまだわかりません。 所内で喧々諤々と議論が始まりました。原因がわからなければタービンをフル稼働させることはできません。当然、再び焼き付く恐れがあるからです。電力需要ピークの8月は目前です。どうしても7月中に原因を突き止めフル稼働にする必要があります。 そんな時、原因がわかったのです。 「長い間使わなかったせいで配管のサビが大量に、しかも一気に剥がれて冷却装置に詰まっていたのです」と、当時を思い出しながら武豊火力関係者が述懐しました。 「そのサビが見つかった時はバンザイでしたよ。皆、夜を徹してサビを除去しました。そしてすべてのサビが除去できた時は、すでに7月30日でした。そしてラスト1日で試運転のスイッチが押され、目標出力28万キロに達しました。皆、泣きました。皆、拍手しました。皆、握手しました。そして8月、武豊火力2号機はその夏、7回動きました。電力フルピークに対応、ブラックアウトを防いだのです」 菅元首相はじめ、こんな綱渡りの電力マンたちの血と涙と努力の賜で電力維持がされていることを、どれだけの方が御存じでしょうか。 ◆日本を壊す「いい夢」◆ そして今も武豊老朽火力では、あちこちに赤く浮いたネジ錆やいつ蒸気漏れするかもわからないボイラー、さらにはいつ破損してもおかしくないほどの古いタービンの羽根が働いています。ボイラーは、燃料に含まれる硫黄分で腐食や劣化が進んでいます。 そして、その問題点がみつかるたびに補修を重ねているので、火力施設は全身傷だらけ。その継ぎ目からいつ蒸気が漏れ出すかもしれず、大事故が起こらないのが不思議なほどです。 「本当に、これで、よく動いていますね」という私の言葉に、施設を案内してくださった電力マンはこう苦笑しました。 「電気は人の命をつないでいるんです。だから停電は絶対に避けなければなりません。このため、脱落、つまり火力停止状態にならないよう、ネジ1本1本にいたるまで、神経をとがらせて毎日戦々兢々としながら動かし続けています。当然、各メーカーさんにも、本来、もう製造中止となりそうな部品とか、ネジ1本にいたるまで、何かあれば、予備がすぐに補充できる体制をとっていただいていますが、運転制御用のコンピューターが故障すればなんともならないかもしれないんです。やはり、稼働から40年もたつ老朽火力を今後も動かし続けるとなると、かなり限界に近いものがありますね」 今の日本には、武豊火力のような40年以上経過した老朽火力が全国で100基近くあるのです。私は、こうした老朽火力を動かし続けることに無理があり、原発が再稼働しないと、これらの老朽火力は近いうちになんらかの理由で突然ストップしかねないと危慎しています。その時は、ブラックアウトはともかく、さらなる節電協力を願わざるを得なくなり、日本経済に多大な影響を及ぼす可能性が大きいのです。 「それなら、そうした老朽火力はストップし、新規の火力発電に移行していけばいいではないかしという論もあるでしょう。 たとえば、東電の常陸那珂火力発電所に出力60万kWの石炭発電所を2019年までに建設するようです。しかし、この例をみてもわかるように、新規の火力発電を建設し運転開始するには最低でも6年から10年前後かかります。今から少しずつ計画を進めても、10年。その間、築40年以上経過した老朽火力は動き続けることができるのでしょうか。そして、その間の莫大な燃料コストはどうなるのでしょうか。 こうしたことを考える時、やはり再稼働できる原発を活用するのがいいと思うのは私だけではないと思います。 原発に代わって再生可能エネルギーがあるじゃないか、原発を動かさなくても火力や水力を使えば停電は起こらないじゃないか、という声。もうそれらが幻想であり、しかも、細い蜘味の糸にぶらさがったような状態で、かろうじて支えられているということがおわかりになったでしょう。
原発なしでも日本は大丈夫だという夢を現実のものにしたいのは私も同じです。 しかし、それらは見果てぬ夢なのです。 もう、夢を見て理想論を叫ぶのはいいかげん止めにしませんか。 すぐには実現するはずのない夢を追い続けることで、その間に日本の経済も社会も壊れてしまうかもしれないのです。 ■石川和男(いしかわ・かずお) 1965年生まれ。1989年東京大学工学部卒業後、通商産業省(現・経済産業省)入省。資源エネルギー庁にて石炭、電力・ガス、再生可能エネルギー、環境アセスメントに、他局にてLPガス保安・高圧ガス保安、産業金融、消費者信用など諸政策分野に従事、2007年退官。2008年内閣官房企画官、内閣府規制改革会議専門委員、2010年内閣府行政刷新会議ワーキンググループ委員を歴任。現在は政策研究大学院大学客員教授、NPO法人社会保障経済研究所代表、霞が開政策総研主宰などを務める。 著書に『多重債務者を救え!――貸金業市場健全化への処方箋』(PHP研究所)、『日本版サブプライム危機』(生駒雅、冨田清行と共著、ソフトバンク新書)などがある。 12 【関連記事】 【吉田昌郎・元福島原発所長】社命に背いて日本を救った男の生き様/<対談> 門田隆将 vs 田原総一朗 原爆誕生の地で振り返る「長崎の悲劇」/下村脩(米ボストン大学名誉教授) コンクリート崩壊―事故はまた起こるか?/溝渕利明(法政大学教授) アベノミクス成長戦略の誤り/小幡 績(慶應義塾大学准教授) 再生可能エネルギー政策に求められる対策/佐々木陽一(PHP総研 主任研究員) 最終更新日:2013/8/21 12:57 http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130821-00010000-php_s-nb&p=2
電力、お盆明けで当面は綱渡り…6社で90%台 読売新聞 8月20日(火)20時18分配信 中国電力と九州電力管内で20日、電力需要が今夏で最大となった。厳しい暑さで冷房需要が伸びたほか、お盆休みが明けて工場などが稼働を再開したことも要因で、当面は電力需給は綱渡りとなりそうだ。
九電管内では午後4時台に1時間平均の使用電力が1634万キロ・ワット(速報値)となり、2日連続で今夏の最大を更新した。電力の供給力に対する使用電力の割合を示す「使用率」も、「厳しい」とされる95%になった。中国電管内でも、午後2時台に今夏のピークの1100万キロ・ワットを記録した。 使用率は、関西電力で93%、中国、四国電力で92%、東京電力が90%で、沖縄電力を除く電力9社のうち、6社で90%台となった。 最終更新:8月20日(火)20時18分読売新聞 Yahoo!ニュース関連記事 電力需給、綱渡り…猛暑で需要今夏最高 九電懸命の供給積み増し写真(産経新聞)10時59分 <九州電力>電力使用量が今夏最高…2日連続で更新(毎日新聞)20日(火)21時10分 九州と中国、電力需要最大=冷房の使用増加(時事通信)20日(火)21時0分 松浦発電所、運転再開 猛暑で九電「需給厳しい」 長崎(産経新聞)20日(火)7時55分 お盆明け電力使用91% 逼迫の可能性 猛暑、週末までか写真(産経新聞)20日(火)7時55分 この記事に関連するニュース一覧を見る(15件)
JBpress>イノベーション>ウオッチング・メディア [ウオッチング・メディア] 「もう私も娘ももたない」 「原発難民」再訪記(その4) 2013年08月22日(Thu) 烏賀陽 弘道 原発難民を再訪する報告の3人目をお届けする。2011年に取材した6人の原発難民のうち、避難先と名前を伏せた人が2人いる。その1人が群馬県P市に避難した女性、木下さん(39歳。仮名)である。原発事故直後、クルマを運転して当てのないまま福島県南相馬市を脱出し、夫の兄がいるP市にたどり着いた。それまで、学校の同級生や親戚に囲まれ、引っ越しをしたことすらない人生を送ってきたのに、いきなり知り合いのいない見知らぬ街で、心の準備もなく生活を始めることになった。小学生の娘は学校で「放射能がうつる」とからかわれた。私が木下さんを訪ねたのは、その群馬県の街だった。南相馬市からは直通の交通機関すらなかった。 P市は原発被災者の受け入れにまったく不慣れだった。右往左往の日々で、木下さんは疲労と緊張で追いつめられていた。その苦境を書くとき、私は感情的な反発が来ると思って名前や居場所を仮名にした。予想通り、ツイッターで「群馬をdisっている(悪口を言っている)のか」「恩知らずだ」「引っ越しがイヤだなんて甘えている」といった心ない文言が飛び交った。木下さんの苦境ももちろんだが、こうしたむき出しの「他者の痛みへの想像力の欠如」に私は暗澹たる思いがした。ただでさえ苦しい避難生活が、これではもっと苦しくなるのも道理だと思った。そうした理由もあって、今回も木下さんは仮名にしておく。 「この区切りを逃すと帰れない」 木下さんにメールで連絡を取ると、待ち合わせに指定されたのは南相馬市役所近くのファミレスだった。地元の人たちと会うとき、よく指定される。地元の人たちは自分たちの「談話室」のように使っている。木下さんも、何人かとテーブルの客と会釈した。 「ここに来ると、いつも誰か知り合いに会います」 テーブルの向かいに座った木下さんは、くつろいだ顔でにっこり笑った。半袖ポロシャツの腕が日に焼けて健康そうだ。野菜の選別のパート仕事を始めたという。 昼時で混雑していた。お腹が減っているようだ。私たちはカレーライスを頼んだ。10分足らずで食べた。 群馬で会ったときより、ずっと元気そうに見えた。そのとき、季節は冬だった。木下さんは、緊張と疲労のせいか、表情が凍り付いたように動かなかった。時々頭を抱えて「ああもう、何とかしてちょうだいよ」と独り言を言った。いま、目の前にいる木下さんはずっとくつろいでいるのが分かる。 「普通に、訛りを気にしないで話せるから、ラクでいいよね」 私が「元気になられましたね」と言うと、木下さんは笑った。群馬で会ったとき、地元のお母さん仲間から「いい加減に(福島)訛りを直したら?」と言われたことをひどく気にしていた。その話だった。 南相馬市に戻ってきたのは2013年3月末だ。木下さんが群馬に避難したあと、不慣れな環境に苦しみながら、すぐに帰らなかったのは、小学生の娘と息子の被曝を心配していたからだ。 群馬でもそんな話を聞いた。それなのになぜ、帰る決意をしたのだろう。 「こっちは、子供が住むには(放射線量が)高いんだけど・・・」 自宅は室内で毎時0.3〜0.4マイクロSvあるという。大丈夫なのか。 「でも、この区切りを逃すと帰れないよ・・・。もうカネないし。娘ももたないし」 そして自分に言い聞かせるように言った。 「もう、どうしようもない。そういうことですよ」 「区切り」とは子供たちの進学だ。3.11当時、小学5年生だった娘は、今年春に中学進学を迎えた。そのまま避難先の中学に進学するのか。南相馬に戻るのか。中学は高校進学に直結する。高校は大学やその後の人生を大きく左右する。 ちょうど同じとき、避難先の借り上げ住宅家賃補助の期限が切れた。制度上、もう1年延長は可能だ。しかし「あと1年」までしか保証はない。また延長されるかもしれないし、されないかもしれない。もし打ち切られたら? 南相馬に帰るのか? そのとき娘は中学を転校しなくてはならないのか? 高校に入っていたらどうするのか? 生活の基盤を決める「家」の問題が不安定かつ不透明で、将来の計画を立てることができないのだ。 悩み抜いた。出した結論は「ここで見切りをつけて帰るしかない」だった。 娘はヒステリーになり、泣きわめいて暴れた 南相馬市の家は政府が決めた20キロラインと30キロラインの中間地帯にある。政府の定義では「住めるところ」だ。避難はあくまで「自主的」ということにされてしまう。一方、20キロ圏内にある自分の実家は「強制避難」の対象だ。こちらの方は補償が手厚い。しかし測ってみると線量はずっと低い。おかしな話だと思う。 煙のように風に乗って運ばれた放射能雲が残した汚染はランダムに広がっている。ところが政府は「半径Xキロ」という官僚が地図に引いた人工的な線で補償区分をやめない。最初から前提を間違えている。3.11発生当時から筆者が懸念していた矛盾がそのまま現実になっていた。 小学生から中学生に上がる年代の娘も避難先の学校で大変だった。「放射能がうつる」とからかわれた話は本欄で述べた。それから後の話は聞いていなかった。 「娘はヒステリーになっていました」 南相馬に帰ってきた木下さん(筆者撮影) 学校の勉強は南相馬よりテンポが速かった。校外のチームに参加した得意のバスケットボールも、レベルが高かった。ついていくのが大変だった。そのうちに初潮を迎えた。
年頃の女の子にとって、相談できるような仲良しがいない環境では、つらい。そんな変化が次々に起きた。 学校から帰って、宿題をする。バスケの練習に行く時間になる。宿題が終わらない。どうする? と木下さんが聞く。 「宿題が終わってない!」 そう言って怒る。泣きわめく。暴れる。突き飛ばされたこともある。些細なことで、そんな爆発が毎日のように起きた。 木下さんの夫も、南相馬市での勤務を辞めることができず「単身残留」を続けた。木下さんは1人で多感な成長期の子供たちを受け止めなくてはならなかった。ヘトヘトになった。 「ウチがあるんだから(南相馬に)帰る!」 娘はそう言う。夫に相談する。 「本当はここ(南相馬)は子供の住むところじゃないね」 「でも、もう娘はもたないよ」 「私も、もうもたないよ」 そんな会話が何度か繰り返された。小学校低学年の息子は避難先の群馬の学校になじんで「帰りたくない」と言う。最後は娘に言い渡した。 「君たちに『福島生まれ』という現実は一生ついて回るよ。それでもいい?」 「福島で育つとヨメに行けないよ。それでもいいの?」 そう娘に聞いた友人もいる。 「酷な選択をさせているなあ、と親としては思います。放射能は目に見えないから、小学生には分かりませんよね。周りの仲の良かった子供が(南相馬に)帰っていると『ウチはどうして帰らないの?』と思っちゃいますよね」 福島第一原発は1971年から操業を始めた。木下さんは1973年生まれだ。自分は原発を受け入れた覚えはない、と思う。生まれたときからそこにあった。自分たちの上の世代が決めたことなのに、なぜ私たちが苦しまなければならないのだろうと思う。 結局、ここにいるしかない 南相馬に戻ると、娘の「ヒステリー」は憑き物が落ちたように消えた。 笑顔が戻った。「ヒステリーがなくなったね」とからかうと「もうそれは言わないで」と恥ずかしそうにする。「塾に行かない」と言い張っていたのが「塾に行きたい」と言うようになった。 南相馬に戻ってみると、学校グラウンドの除染は終わっていた。しかし通学路はそのまま手つかずだった。市役所に聞くと「除染したごみを片付ける場所がない」と言われた。政治家は「福島の再生なくして日本の再生なし」とか言っていたのに、なぜ除染すらないのだろう。「東京五輪選手村」建設の話はとんとん拍子に進んでいるのに。そんなことをテレビを見て思う。 夏が来て、学校から「(体育の授業で)プールに入りますか」と「保護者の同意書」が送られてきた。が、何を基準にどう決めていいのか、分からない。学校が責任逃れに一筆とっておきたいだけじゃないのかと思う。汚染や除染について「いいニュース」は流れてくる。しかしその反対はほとんどない。 「(南相馬に)帰ってきたら、もう放射能を気にしていたら生活できないところがありますよ」 木下さんはそう言う。生活圏の何もかもが汚染されているので、気にし始めると全てが気になってくるのだ。例えば、祖母のところに遊びにいった娘が、庭の草むしりを手伝っていて仰天したことがある。家庭菜園の野菜は食べてはいけないとされている地域である。 12歳の娘は、これから18歳になるまで毎年ホールボディカウンター検査(内部被曝測定)を受け続けることになっている。子供がモルモットにされて、国や県が安全をアピールすることに使われているように思える。しかし、これ以上頑張るのも無理だと感じる。お金を持っているうちは他県に家を買って引っ越してしまった。そんな金銭的な余裕はない。 「人生の9割はお金で何とかなっちゃいますよね。そこはきれいごとじゃ済まされません。残念ながらウチにはそのお金がない」 「親もいるし、家もあるし、ローンもある。結局、ここにいるしかないんです」 木下さんはそう言った。そして最後にまたふと、独り言のように言って力なく笑った。 「いつになったら、こんな話しなくて済むようになるのかなあ」 |