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原子炉建屋の爆発が相次ぐ極限状況で指揮をとった〔PHOTO〕gettyimages
東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)さんへのレクイエム「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36525
2013年08月19日(月) 週刊現代
ジャーナリスト:門田隆将
複数の原子炉が暴走する史上最悪の原発事故。その最前線で闘った男が静かに逝った。彼はそこで何を見たのか。そして日本人は、彼の遺志をどう受け止めるべきか―男が果たした「使命」を顧みる。
■もしこの人がいなかったら
2013年7月9日午前11時32分、東京・信濃町の慶応義塾大学病院で福島第1原発の元所長、吉田昌郎氏が息を引き取った。享年58だった。
あの大震災が起こった2011年3月11日から数えて851日目のことである。あまりに早すぎる「死」だった。
私は、吉田さんの訃報に接し、「ああ、吉田さんは、天から与えられた使命を全うし、私たちの前から去っていったのだ」と思った。
拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)の取材で私が吉田さんとお会いしたのは、昨年7月のことだ。
全電源喪失、線量増加、注水不能……考えうる最悪のあの絶望的な状況で闘いつづけた吉田さんへの単独インタビューは当時、すべてのメディアが目指した案件だった。
私のようなフリーの人間は、軍団で攻めていく大メディアによる正攻法ではなく「周囲」から攻めていくしかない。吉田さんの親友、恩師、先輩、上司……あらゆるルートを辿って、私は吉田さんにアプローチした。やがて、あるルートが吉田さんに繋がり、病床で私の手紙と著作を吉田さんは読んでくれることになった。
吉田さんは、私の戦争関係の著作を読んで、「会うこと」を決断してくれた。おそらく太平洋戦争の最前線で戦う兵士たちの思いを綴ったインタビューとドキュメントに福島第1原発での自分たちを重ね合わせたのではないかと思う。やっと私が吉田さんに会えたのは、アプローチを始めて1年4ヵ月後のことだった。
食道癌の手術と抗癌剤の治療を終え、外出を許されるようになった2012年7月、吉田さんは、西新宿にある私の事務所を訪ねてきてくれた。
184センチの長身で、やや猫背気味の吉田さんは、ニュース映像とはまったく面相が変わっていた。
頭髪は坊主のように短くなり、頬はこけている。食道癌の手術とその後の抗癌剤治療の過酷さが窺えた。
挨拶を終えたあと、私は吉田さんにこう伝えた。
「今回の事故は、日本史の年表に今後、太字で書かれるような歴史的なものです。私は、あの過酷な事故の中で何度も原子炉建屋に突入していった人たちの真実を伝えたい。東電バッシングが続いている中で、今の人たちにたとえ読まれなくても、私や吉田さんが死んだあとの孫やひ孫の世代に向かってこの本を書きます。だから吉田さんは私に対してというより、"歴史"に向かって証言してください」
吉田さんは、特徴である人なつっこい顔でにっこりして、
「門田さん、私は何も隠すことはありません。門田さんが聞きたいことはすべて答えますから、なんでも聞いてください」
そう言ってくれた。こうして吉田さんへの取材は始まった。
「チェルノブイリの10倍です」
ここで食い止めなければ事故の規模はどのくらいになったのか、と私が最初に質問すると、吉田さんは、そう答えた。あまりに当然のような顔をして吉田さんがそう言うので、却って拍子抜けしたほどだ。
その時、頭に浮かんだのは、"悪魔の連鎖"という言葉である。事故が起こっても、石油などの化石燃料はいつかは燃え尽きるが、原子力はそうはいかない。
ひとたび原子炉が暴走を始めれば、原子炉を制御する人が近づくこともできなくなり、次々と原子炉が"暴発"し、燃え尽きることもなくエネルギーを出し続ける。放射能汚染は限りなく広がっていくのである。それが悪魔の連鎖だ。
吉田さんは、そのことをわかりやすく私に「チェルノブイリの10倍」と語ったのである。
「福島第1には、6基の原子炉があります。ひとつの原子炉が暴走を始めたら、もうこれを制御する人間が近づくことはできません。そのために次々と原子炉がやられて、当然、(10キロ南にある)福島第2原発にもいられなくなります。ここにも4基の原子炉がありますから、これもやられて10基の原子炉がすべて暴走を始めたでしょう」
10基の原子炉がすべて暴走する―吉田さんは、それを「チェルノブイリの10倍」という言葉で表現してくれたのである。もちろん、黒鉛炉であるチェルノブイリと沸騰水型軽水炉である福島原発とは、そもそも原子炉の型が違うので、簡単に比較できるものではない。
だが、吉田さんのその言葉で、吉田さんたち現場の人間がどういう被害規模を想定して闘ったのかが、私にはわかった。
■生命をかけてくれた
のちに原子力安全委員会の班目春樹委員長(当時)は、私にこう答えた。
「あの時、もしあそこで止められなかったら、福島第1と第2だけでなく、茨城にある東海第2発電所もやられますから、(被害規模は)吉田さんの言う、"チェルノブイリの10倍"よりもっと大きくなったと思います。私は、日本は無事な北海道と西日本、そして汚染によって住めなくなった東日本の3つに"分割"されていた、と思います」
吉田さんたち現場の人間が立っていたのは、自分だけの「死の淵」ではなく、日本という国の「死の淵」だったのである。
私が注目したのは、その国家の命運を左右する決定的な作業が、大津波に襲われてから数時間の内におこなわれていたことである。
吉田さんは、全電源喪失の中で暴走しようとする原子炉を冷却するには、「海を使うしかない」と、すぐに決断している。海、すなわち太平洋の「水」である。
「消防車というのは、防火水槽からホースで水をとってタンクに貯め、それを燃えているところにホースでかけるもんだろう? それなら何台か消防車を繋げば、海の水を持って来られるはずだ」
吉田さんの発想は、奇抜だった。すぐに所内にある3台の消防車の状態が報告される。だが、3台のうち2台は、地震と津波で使用不能になっており、生きているのは、「1台」だけだった。1台では、「繋ぐ」ことができない。
吉田さんはただちに自衛隊に消防車の要請を出している。この要請はすぐに郡山と福島の陸上自衛隊に伝えられ、消防車が福島第1原発に向かっている。
それと共に、現場では、これまた「決定的な作業」が始まっていた。全電源喪失の下、冷却手段は「水」しかない。しかし、その水を原子炉に直接入れる「ライン」がなければ、すべては無駄になる。
現場のプラントエンジニアたちは、ほとんどが地元・福島の工業高校を出て東電に現地採用され、鍛えられて成長してきたプロたちである。彼らは、吉田所長の指示が出た時は、すでに原子炉への水の注入ラインの構築に着手していた。
「消火ラインを使おう」
建物には、火災になった時のためにスプリンクラーなどに水を流す消火ラインがある。そのラインを組み直し、原子炉に直接ぶち込めばいい―そんな発想から作業は始まった。しかし、そのためには、線量が上がり始めた原子炉建屋に入り、あるバルブは開け、また別のバルブは閉めるなどの「ライン構築」の作業をしなければならない。
彼らは、放射能を遮断する全面マスクをつけて原子炉建屋に何度も突入し、この作業を展開している。
線量の増加によって、建屋内への立ち入りが禁止されるまでの「数時間」の間に、この決定的な作業を終えていたことは、奇跡と言っていいだろう。それからもさまざまな作業がおこなわれるが、このライン構築ができていなかったら、その後の作業は意味を持たなかったとも言える。
いち早く消防車を手配した吉田所長と、彼からライン構築の指示が出る前にすでに動き始めていたプラントエンジニアたち―彼らの見事な現場力は、日本を最悪の状態に陥ることから「救った」のである。
3月12日朝7時過ぎ。吉田さんは、ヘリコプターで東京から乗り込んできた菅直人首相一行を迎えた。
「なぜベントをやらないんだ」
そう詰め寄る菅首相に吉田さんは冷静にその時の状況を伝えている。
「それはこういうことです」
菅首相の前に図面を広げ、ベントに入ろうとしている現状を説明し、菅首相はやっと落ち着きを取り戻した。この前に首相一行を迎えるにあたって吉田さんは東電本店と大喧嘩をしている。それは、防護マスクなどの装備についてである。
汚染された福島第1原発に来るには、それなりの装備と覚悟が必要だ。
しかし、現場の防護マスクは数が限られている。しかも、一度使用して汚染されたものは二度と使用できない。決死の作業に必要な防護マスクは、現場に余分がない。
「首相一行が来るなら、防護マスクはそっちで用意してくれ」。テレビ会議を通じて吉田さんがそう言うと、本店からは、「いや、現場で用意してください」という返事が来た。その瞬間、吉田さんが叫んだ。
「ふざけんじゃねえ! こっちには、そんな(数の)余裕はねえんだ!」
歯に衣着せぬ物言いと、上司にでも食ってかかる豪快さは、吉田さんの真骨頂だ。だが、首相一行はそのまま何も持たずにヘリコプターで一気にやって来た。
菅首相は、免震重要棟の入口で放射能の汚染検査も拒否して、靴だけを履きかえて吉田さんのいる2階に上がっていった。
「ヘリコプターから降りて汚染したところを来るわけですから、菅さんたちは、その時点で自分たちが"線源"(注=放射能の汚染源)になっているという意識がなかったですね」
吉田さんはあの首相一行の訪問をそう振り返った。
その後、空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身につけての決死の「ベント作業」の指揮を吉田さんは執った。
■使命を果たした男
吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。
「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」
武黒フェローの命令に吉田さんはこう反発した。
「なに言ってるんですか! 止められません!」
海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、
「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」
そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。
多くの原子力専門家がいる東電の中で吉田さんだけは、原子力に携わる技術者としての「本義」を失わなかったことになる。
その後の荒れ狂わんとする原子炉との苛烈な格闘は、拙著を参照いただきたい。特に3月15日早朝、2号機の格納容器爆発が迫った時、一緒に死んでくれる人間の顔を一人一人思い浮かべて「選ぶ」場面は壮絶だった。
福島に多大な被害をもたらしながらも、格納容器爆発という最悪の事態はぎりぎりで回避された。そして、天から与えられた使命を果たして、吉田さんは旅立っていった。吉田さんが亡くなった翌日、私は、東電に同じ技術者として同期入社した吉田さんの親友から、こんなメールを頂戴した。
〈門田さんの吉田さんへの取材があと半月遅れていたら、世に「あの戦争」で闘った"本義を忘れない"男たちのことは迷宮入りしたかもしれません。それを思うと、門田さんと吉田さんの出会いは「神様が与えて下さった」おみやげだったのかもしれません。吉田さんもきっと微笑んで彼岸をわたっていると思います〉
奇跡のように「日本」を救い、風のように去っていった男・吉田昌郎―今も事故前と同じく東京に住み続けている一人として、吉田さんに「お疲れさまでした」、そして「本当にありがとうございました」という心からの言葉をお伝えしたいと思う。
「週刊現代」2013年7月27日・8月3日合併号より
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