09. taked4700 2013年8月12日 11:06:09
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http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/661552/index.html「ザ・スクープスペシャル」 - 原発と原爆〜日本の原子力と米国の影〜 - オープニングオープニング (その他) きょうの放送は戦後68年特別企画として原発と原爆について特集する。 第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎 (ニュース) 2011年の福島第一原発事故を巡る混乱の中、不可思議な事実が起こっていた。自衛隊は被曝のリスクが非常に高いなか、効果が薄いとされるヘリ放水を行った。その背後には事故処理を巡る日米における水面下のせめぎあいがあった。 2011年3月11日に日本で発生した福島第一原発事故は世界中が事後処理に注目していた。その中で同盟国にあったアメリカの関心は高く、NRCでは連日事故に関する会議が行われた。NRCの電話会議記録には当時の生々しいやり取りが残っている。福山元官房副長官のメモには日本と全く異なるアメリカの分析が残されており、メルトダウンの可能性も示唆されていた。3月12日には枝野元官房副長官が爆発的事象があったと発表していた。 去年公開されたNRCの文書には日本がアメリカからの支援要請を断っていた事が記されている。アメリカは1979年に発生したスリーマイル島原発事故以来、新しい原発を稼働させていない。事故に乗じて情報収集を行っているのではないかとの疑惑も囁かれていた。3月14日には3号機でも爆発が発生、痺れを切らしたアメリカは官邸に常駐することを要求、日米関係は大きく揺らいでいた。 北澤元防衛大臣は当時の混乱を記した日記帳を残しており、そこには日米のスレ違いとも思える内容が記されていた。日本政府は原発事故を当事者である東電が解決するべきだとしており、15日には管元首相が東電に乗り込み事故対応が遅れれば外国が乗り込んでくる事を忠告していた。
このあと、米が求めた”英雄的犠牲”。 第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎 (ニュース) 福島第一原発事故に関しアメリカはある会議で”英雄的犠牲”という言葉を使っていた。当時の状況について国務省の元支援調整役はこの言葉をはっきりと聞いたという。また、当時防衛大臣だった北澤氏は駐米大使が米側の情報をそのまま公電で入れており、米側は英雄的犠牲という言葉を盛んに言っていたという。 2011年3月16日、アメリカ・ルース大使はNRC情報に基づき福島第一原発から半径80km圏内の米国人に対して独自の避難勧告を出した。米国務省は中々動き出さない日本に対し、在日米軍撤退という選択肢を提示した。 2011年3月16日には福島第一原発4号機で2度目の火災が発生、一刻も早い注水が連日検討されていた。ここにきて注水を行う部隊が問題となっていたが、菅元首相は意を決して防衛省・北澤元防衛大臣に動くよう指示した。17日、自衛隊は原発事故収束に関する装備・ノウハウが無いままヘリで飛び立ち注水を行った。結果は線量が若干下がったのみでアメリカを落胆させる結果となった。 命がけの”パフォーマンス”!? このあと、命がけの”パフォーマンス”!? 第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎第1章 2011年福島 自衛隊ヘリ放水の謎 (ニュース) 事故当初、被曝を避けるため地上放水により放射線量を下げてから自衛隊ヘリが飛ぶ予定だった。しかし、事故から3ヶ月後に公開された文書により、地上放水よりヘリコプターでの放水が先に行われていたことが明らかになった。ヘリ放水が行われたのは午前9時48分、このあと10時からはオバマ大統領と管元首相の電話会談が予定されていた。 ヘリコプターでの注水作業はシンボル的な意味合いも兼ねられていた。菅元首相は当時の状況について、注水を行うことで政府が前面に出て対応にあたっている事の証明になったと解説。自衛隊が命をかけた作戦はアメリカへのパフォーマンスだったとの見方もでている。
第2章 1945年広島 封印された被爆者たち第2章 1945年広島 封印された被爆者たち (ニュース) 戦後68年経ち、日本の原子力問題はアメリカの核戦略とは無縁でいられなかった。核をめぐるアメリカの影の原点は終戦直後の日本へ遡る。次のコーナーでは原爆と原発を巡る知られざる日米関係を検証する。 広島に原爆が投下されてから1か月後、トーマス・ファレル准将が日本を訪れた。原爆開発計画No.2の彼は東京での会見で「広島の廃墟に残留放射能はない」と言明したことが当時のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されている。以来、アメリカは黒い雨などの残留放射能による健康被害を否定し、その核の傘の元、日本政府も同じ方針をとってきた。 終戦直後の日本には原爆被害の実情を伝えようと世界中からメディアが押し寄せた。ロンドン・デイリー・エクスプレスのウィルフレッド・バーチェット記者が外国人ジャーナリストとして世界で初めて広島に入ったのは9月3日だった。村上祐子が広島市にある原爆ドームから彼の当時の記事を紹介し、最後が「No More Hiroshima」で締められている事を話した。トーマス・ファレル准将が残留放射能を全面否定したのは翌9月6日で、ウィルフレッド・バーチェット記者を呼び出して忠告したそうだ。以降、原爆報道はGHQによって厳重な検閲が行われるようになる。 長崎市の浦上天主堂から村上祐子が長崎の原爆について話す。ファレル准将の会見と同じ日に被爆後の長崎に飛び込んだ一人の記者がいた。シカゴ・デイリー・ニュースのジョージ・ウェラー記者は原爆の真実を求めて、破壊を免れた長崎医科大付属病院を訪問し、医者や患者を丹念に取材した。しかし、ウェラー記者の記事はGHQに没収され、差し止められた。ボストンに住む息子のアンソニー・ウェラーさんは封印されたスクープについて生前、父から聞いており「健康そうな人が次々死んでいった」などと話した。 封印された幻の原稿 第2章 1945年広島 封印された被爆者たち第2章 1945年広島 封印された被爆者たち (ニュース) 2003年に発見されたジョージ・ウェラー記者の原稿はカーボン紙による複写で茶色く変色していた。そこには、「長崎では原爆投下から1か月経った今も、後発的な症状で1日約10人が死亡している」などと書かれていた。息子のアンソニーさんによるとジョージさんはそれらの残留放射線による長期的な影響の症状を「X病」とよんでいたそうだ。 アメリカは原爆投下以前から残留放射線の危険性について知っていたと思われる。原爆開発計画責任者のレスリー・グローブス将軍は原爆投下後の8月下旬、残留放射線による健康被害を知り「広島の作業員の白血球が減少し、我々にとってダメージになる」などという内容の電話をかけていた。この頃からアメリカの科学者たちは一転して残留放射線の影響を否定する立場に転じたという。一方でアメリカはABCCを日本に派遣し、人体に対する原爆の影響を徹底的に調査した。記録映画「原爆の人体への影響」を見ても、被爆者の火傷などの状態を記録しているが、残留放射線については本格的調査はおこなっていないとされている。 1950年代、ABCCが残留放射能による健康被害の調査を行なっていたことがワシントンの米科学アカデミーの記録に残っている。そこには原爆10日後、市内に入った消防団や医師に聞いた所1700人中314人に急性症状があったと書かれている。当時、ABCCに勤務していた玉垣秀也医師は被爆者の症状を残留放射線のせいだと主張したが、上司に放棄された、と話している。また、ある日本人女性の調査記録でも、発熱や下痢、脱毛など9つの急性症状が報告されており、残留放射線の影響を指摘している。 抹殺された内部被ばく 第2章 1945年広島 封印された被爆者たち第2章 1945年広島 封印された被爆者たち (ニュース) 村上祐子が栗原明子さんを訪ねた。原爆投下時、爆心から離れた工場にいたが、翌日から家族を探すために爆心付近を野宿したという。その後しばらくして髪の毛が抜けるなどの症状がでた。終戦後、栗原さんはABCCで勤務しており、上司に尋ねても厳しい顔で否定、叱責されたという。しかし、ウッドベリー統計部長だけは認めているようで、調査の継続を訴えたが、原爆開発の拠点であるテネシー州にあるオークリッジ国立研究所が反対したため、本国から拒否されたという。ウッドベリーに対応したジョン・オークシャー元局長は残留放射線の影響を否定した。 アメリカで核政策を推し進めているエネルギー省の上級政策顧問を務め、タコマパークに住むロバート・アルバレスを訪ねた。彼は「アメリカ政府は残留放射線の危険性を熟知しており、世界の世論やアメリカ国民を欺いている」などと話した。鳥越俊太郎はジョージ・ウェラー記者が「戦争の最初の犠牲者は真実である」と語っていたことなどを話した。 第3章 1950年代 ビキニー広島 「原子力の平和利用」と日本第3章 1950年代 ビキニー広島 「原子力の平和利用」と日本 (ニュース) 1950年代に入っても、アメリカの核戦略に日本は否応無く巻き込まれていく。その舞台となったのは、ビキニーと広島だったという。 核開発で遅れをとったことを受け、アメリカのアイゼンハワー大統領は原子力の平和利用を訴えた。アメリカの原子力提供計画のターゲットは日本も例外ではなく、被爆国であるが故に、平和利用のシンボルとして進められていったという。 1954年に行われた水爆実験「ブラボー」によって、近くで操業していた日本の漁船の乗組員が被曝。第五福竜丸の大石又七さんが当時の様子を説明した。第五福竜丸からは27種類の核分裂生成物が検出され、乗組員の状態は深刻。頭皮は焼け爛れ、肌は赤黒く変色していたという。 日本各地に降った雨からも放射性物質が検出され、日本では反米感情が勃発。それに対してアメリカは、核兵器に対する日本人の過剰反応は原子力の平和利用に支障をきたすと説明。日本人の嫌悪感を除去するアクションとして、日本人患者の病気は飛び散ったサンゴの化学作用だとした。しかし、第五福竜丸の無線長は急性放射能症で死去。アメリカ側は飽くまでも、輸血治療による肝炎と主張し続けた。 第五福竜丸の被曝報道があった翌日、アメリカ側は外務省を訪れ、福竜丸に関する機密の保持を要請。鳩山一郎総理は慰謝料200万ドルを受け取り、残留放射線と健康被害の因果関係は否定された。乗組員の半数以上は肺臓がん・C型肝炎で死亡しているが、被曝とは無関係とされ、原爆医療法の適用外となっている。 1954年、ソ連が世界初の商業用原発の稼働に成功。アメリカは日本のメディアを巧みに利用し、原子力の平和利用の宣伝工作を更に強化していく。態度決定を迫られた政府は、日米原子力協定の受け入れを表明した。 被爆地・広島に目をつけたトーマス・マレー委員長は、広島での原発建設を提言。しかし核アレルギーの強い日本では原発への反感も強かった。アメリカの宣伝工作は広島平和記念資料館にも及び、館内には原子力の模型などが数多く展示されたという。 原子力平和利用博覧会では来場者に調査アンケートが行われ、原子力は人類の利益になると答えた人は60%、原子力の恩恵を受けたいと答えた人は85%となった。そして1957年8月、東海村原子炉が臨海に達し、日本は世界第3位の原発大国となっていった。 「原発ゼロ」骨抜きの裏側。 第3章 1950年代 ビキニー広島 「原子力の平和利用」と日本第3章 1950年代 ビキニー広島 「原子力の平和利用」と日本 (ニュース) 親日派のリチャード・アーミテージ氏は、原子力がなくては日本は再び活気的になれないと説明。民主党の掲げた原発ゼロ政策にはアメリカの懸念が関係しており、日米原子力協定では核燃料サイクルが許されてきた。しかし原発がゼロになれば、日本のプロトニウムは核兵器利用とみなされる恐れがあったという。
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