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株式日記と経済展望
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前回の衆院選に続いて今回も福島を含め、数多くの原発立地地元で自民が
圧勝した。脱原発は、都市部の中でしか通用しない独りよがりのものだろう
2013年7月23日 火曜日
◆原発が参院選の争点になっていない理由 7月3日 武田徹
http://www.huffingtonpost.jp/tooru-takeda/post_5108_b_3537732.html
原発問題は、参院選では特に争点となって盛り上がらないまま、再稼働に向けて大きく舵を切るという「最悪」の結果になりそうだ。
実はこの道はいつか来た道なのだ。先月に刊行した拙著『原発論議はなぜ不毛なのか』(中央公論新社)で、脱原発運動が実を結ばないのは、それが「選択できない」からだと書いた。拙著の中では二又に分かれる山道の比喩で説明している。一方の道は先に行くと崖が崩れて通れなくなっているのが見えている。もう一方の道は霧が深くて先が見えない。さて、どの道をゆくか。崖崩れで通行不能の道を敢えて選ぶ者などいない。誰もが霧がかかって先が見えないが、もしかしたら通れるかもしれない道を選ぶだろう。山道であれば当然の選択なのだが、原発立地地元がそれと同じ選択をしている事情に多くの人が思い至らない。
原発立地の殆どが大都市中心、臨海工業都市中心の経済発展から取り残された過疎地だ。人口減少は止まるところを知らず、このままでは地域が破綻してしまう。そんな状況の中で立地地元は原発を選んだ。地元にしても事故の可能性がないとまでは考えてはいない。しかし、事故はあるかもしれないし、もしかしたら起きないかもしれない確率的なリスクだ。それに対して過疎化による破綻のシナリオは確実な危機として眼前に立ちはだかる。だとすれば事故がないかもしれない、あったとしてもそう酷いことにならないで済むかもしれない可能性に地元が賭けることには相応の整合性がある。
脱原発運動が奏功しなかったのは、こうした構図を理解しなかったからだ。何をいうか、今度こそ状況は変わる。福島の事故後に再稼働などありえない、そう思う人も多いのだろう。たとえば地方自治体首長の中にも再稼働に反対の動きがあるではないか、と。しかしそれは多くの場合、首都圏に近く人口が増加していたり、新幹線や高規格道路が建設されて原発以外の産業の発展が望める、相対的に豊かになれた地域の首長の言動だ。それ以外の立地で脱原発の声は決して大きくならない。
これも「いつか来た道」であり、立地地元の選挙では原発の是非が争点にならないことすら多かった。立地地元の人にしても危なっかしい原発を積極的に選ぶわけではない。しかし今の暮らしを安泰のうちに続けたいと願うなら脱原発は選べない。そんな消極的な選択の結果、立地地元の「原子力ムラ」は中央の「原子力ムラ」の国策を受け入れてきた。
再稼働容認の立場を取る自民党のエネルギー政策は、大枠においては311前に時計の針を戻そうとするものに他ならない。それがあからさまになって参院選で論点化されるのを避けようとしているが、原発論議が盛り上がらないのは、そうした自民の姑息さだけのせいではない。脱原発側が「崖が崩れている山道を通過可能にする」、つまり原発を選ばずとも地域が過疎化から脱し、豊かな生活ができる方策を提案できていないからだ。
江藤淳が田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』には、戦後日本の豊かさがなんとなく得られたものではなく、対米従属の構図の中にあることを批評的に顧みる姿勢があり、それが題名の「、」に示されていると述べて絶賛したのを思い出す。311から今回の参院選に至るまでの経過はその逆で、アベノミクスの景気対策の是非こそ争点になるが、原発なしに生き残ることができなかった地方の「貧しさ」の来歴を戦後日本の「豊かさ」と対照させて省みる動きは今のところ見られていない。
脱過疎、脱貧困への具体的な提案を伴わない脱原発の掛け声だけでは立地地元は動けない。こうして「、」が打たれることなく、選びたいわけでもないのに原発を選んでしまう構図が維持され、その構図に甘んじる政党と、その構図を崩せない政党の屈折した共犯関係の中でまともな原発論議なしに「なんとなく原発大国」への道が復活してしまう。そんな懸念を濃厚に感じる。
◆山本太郎の当選は「終わりの始まり」か? 7月23日 武田徹
http://www.huffingtonpost.jp/tooru-takeda/post_5251_b_3632881.html
前回の衆院選に続いて今回も福島を含め、数多くの原発立地地元で自民が圧勝した。殆ど争点にならなかったが、自民党が再稼働を進め、311以前の原発状況に時計の針を戻そうとしていることを立地地元住民が知らずに投票したわけではない。自民を勝たせるしか選択肢がなかった立地地元の現実を踏まえ、彼らにそうではない選択が可能となる状況を提供することを目指さなければ、山本の脱原発論は被爆の不安に駆られて情緒的に盛り上がった都市部の脱原発運動の中でしか通用しない独りよがりのものに留まる。そして今回の彼の当選は全国的な脱原発への第一歩になるどころか、むしろその独善性が明らかになって都市部の脱原発運動自体が自壊してゆく「終わりの始まり」となろう。
繰り返しになるが、もし本当に脱原発を望むのであれば、原発なしに生き残ることができなかった地方の「貧しさ」の来歴を省み、その抜本的な解決を図る姿勢が必要だ。そのためには長期的、巨視的な視点に立った論議や丁寧な政治的調整の作業が求められ、それはまさに良識の府としての参議院で繰り広げられるのがふさわしいものだ。もしも今後の日本の未来に希望があるとすれば、山本太郎を含めて最も参議院らしからぬ選挙で国政入りした議員たちが、参議院本来の役割を取り戻すべく活動できるかにかかっているのかもしれない。
(私のコメント)
「株式日記」では、今回の参議院選挙はアベノミクスに対する信任選挙になるだろうと書いてきました。一時は円安株高の動きが逆転して株が乱高下しましたが、円も1ドル=100円前後で安定してきて、株価のほうも15000円台近くまで維持して戻してきたせいもあり、まだアベノミクスの破綻は見せていない。
しかし福島第一原発では、災害復旧の目処が経たず様々な問題が浮上して来ている。低容量の被曝がどの程度健康に被害が出るか分からないからだ。福島原発の解体は30年から40年もかかる作業であり、メルトスルーした核燃料はどうなっているのかも分からない。福島の住民の避難生活はいつまで続くのかも分からず、学者も分からない。意見がまちまちだからだ。
このような状況で、参議院選挙が行なわれましたが、電力の大消費地の東京で反原発の候補が当選して、大災害が起きた福島では自民党の候補が当選してる。政治家自身も反原発を訴えるべきか、再稼動を訴えるべきか世論を掴みかねているようですが、私自身は安全な原発は再稼動するべきだと「株式日記」で書いて来た。
原発は止めてしまえば安全と言う事は無く、福島第一原発4号炉は停止中だったにも拘らず、冷却が止まっただけで水素爆発を起こした。5重の安全装置も電気が止まれば安全装置も働かないと言うのは予想できなかったのだろうか? 東京電力は「想定外」を連発して責任逃れをしていますが、原子力安全保安院では大規模な津波に対する勧告はしていても、東京電力の勝俣会長は「知らない」ととぼけている。
昨日は山本太郎氏の当選について書きましたが、当初は泡沫候補扱いされていた。今までもタレント候補が票を集めて当選する事はありましたが、山本太郎氏もタレント候補に過ぎないかどうかは今後の活動にかかっています。電力産業界や原子力関連産業界ではテレビなどへの圧力をかけて山本候補を妨害しているようだ。
今まではタレント候補が当選すればテレビ局などではインタビューで引っ張りだこになるはずですが、山本候補の発言を恐れてテレビ局は及び腰だ。東日本大震災では見えない報道管制がしかれていたのは明らかであり、政府部内の会議議事録も取っていなかったと言う事は、一体何が起きていたのかを国民に隠蔽する事だ。
日本の報道規制は、記者クラブ制度で管理されてしまって、福島原発災害でもテレビでは東大の原子力工学の学者がデタラメな解説をし続けてきましたが、水素爆発の危険性を誰も予測できなかった。アメリカならば原子力空母や原子力潜水艦などを運用しているから、原子炉に対する対処法の専門家が沢山いますが、日本にはいない。
原子力安全委員会の斑目委員長も災害が起きても適切な助言が出来ずに、菅首相は暴走してしまった。原子力安全保安院の技官にしても実際の原子炉については素人同然であり、現場についても非常時における安全マニュアルが整備されていなくて、手動によるベント作業すら出来ないレベルだった。
原子力安全神話は戦前における日本軍不敗神話のようなものであり、神話は国民を騙す為に作られたものだ。いずれもマスコミが政府などの圧力で扇動してきたものですが、神話から覚めてみると国民はどうしていいかわからず過剰な反応を示すようになる。政府やマスコミが言っている事はデタラメだと言う事が根付いてしまうと、信頼を取り戻すには50年〜100年かかる。
反戦運動にしても反原発運動にしても、日本軍や日本政府がしでかした不始末の結果生まれてきたものだから、それらの失敗を繰り返さないためにはどうすべきから反省しなければなりませんが、政府も霞ヶ関も体質は戦前と変わりがない。日本のエリート達は失敗を認めないから破局するまで突き進んでしまいますが、それを防ぐには十分な情報の公開とエリート任せの政治や行政を治さなければならない。
発電などのエネルギー問題は国家の基幹問題であり、専門家と言えども分からない事が多くて、大衆は極端から極端に走ってしまう。民主党では54%原発で賄う計画を発表していましたが、事故が起きた後は菅総理は脱原発に180度方向転換した。これらの行動パターンは戦前の八紘一宇から戦後は反戦平和に転向したのと同じだ。
山本太郎氏が言うように電力は火力だけでも足りていますが、問題は経済性でありコストのかかる発電は問題があるし、まだ使える原発を稼動させないと言うのも問題がある。何度も言うように原発は止めれば安全だと言う事にはならない。稼動させて運用していったほうが安全性は担保されるだろう。原子力を扱える技術者もいなくなればかえって危険だ。
科学や技術の問題は学者でも分からない事が多く、シェールガス革命も全くの予想外の出来事だ。捨て場所がないとされている使用済み核燃料も新技術で完全に燃やしつくせる原子炉も出来る可能性がある。次世代型の原子炉についても何度か書いてきましたが、一気に脱原発と言うのは行きすぎだと思う。
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