07. taked4700 2013年7月10日 22:00:07
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: XujT7I2OGU
>>06>旧ソビエトは4年も放射性物質が人に与える影響を考えていたっていうのが凄いなと思った。 多分、ソビエトはそんなことを考える余裕はなかったはずです。1986年にチェルノブイリ事故。その4年後は1990年。この年は、ソビエト連邦が崩壊する直前であり、チェルノブイリ事故後、当時の書記長であったゴルバチョフ氏はてんてこ舞いで何とか立て直しをしようとされていたのです。 そのことは、ウィキのソビエト連邦の項を見ても分かります。 >1987年12月にはアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約が締結され、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始 とか >なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。 とある点に注意してください。1986年のチェルノブイリ事故で一気に経済的に行き詰まり、それまでの書記長が周辺国を弾圧して金を巻き上げてきたのをゴルバチョフ氏は軍備を削り、周辺国を独立させることでソ連の負担を減らそうとしたのです。あのころ、ゴルバチョフ氏による東西間、つまり、共産圏と自由主義圏との間の緊張緩和策はとても注目を浴びていて、ゴルバチョフ氏によって新しい平和が訪れるかとさえ期待されていたのです。自分もわくわくしながら見守ったものです。 ただ、現実は、アメリカによる大掛かりなソ連崩壊作戦であり、チェルノブイリ事故自体がアメリカによる仕掛けであった可能性が高かったように思えました。それは1991年のソ連崩壊とゴルバチョフ氏の失脚を見るまでは分かりませんでしたが。 ウィキのソビエト連邦の項: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6 より部分引用: 冷戦終結[編集] マルタで会談するブッシュ大統領(手前右)とゴルバチョフ(手前左) ゴルバチョフは1988年3月の新ベオグラード宣言の中でブレジネフ・ドクトリンの否定、東欧諸国へのソ連の内政不干渉を表明していたがこれを受け1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。 また、1987年12月にはアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約が締結され、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始した。同時に東欧に駐留していたソ連軍の一部も、本国への引き上げを行った。このような流れの中で、ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。 崩壊[編集] 詳細は「ソ連崩壊」を参照
「8月クーデター」でモスクワ市内に展開する戦車 国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日にクーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁し条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった(ソ連8月クーデター)。 クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕された。クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフの直属の部下だったこともあり、ソ連共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し同時にソ連共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止し同党は事実上の解体に追い込まれた。連邦を一つにまとめ上げてきたソ連共産党が解体されたことにより、これ以後実権は各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。 9月6日、国家評議会はバルト三国独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの5つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意、また連邦への加盟を拒んでいる残りの共和国への説得を続けた。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア共和国大統領も、5000万の人口を擁しソ連第2位の工業国であるウクライナが加盟しない主権国家連邦は無意味であるとして、12月3日にウクライナ独立を承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。同年12月8日のベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、残る諸国もそれに倣ってCISに加入した。12月17日、ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日には最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した。
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