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●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ
★湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係
この章では、主として原爆被爆者と国家との関係について記すことにする。しかし、私はすこし廻り道をしようと思う。それは、日本初のノーベル賞(物理学)学者である湯川秀樹について書いておきたいと思うからである。まずは、先に1度引用した中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』から引用する。
・・・私の高校の同窓生は、広島在住の有志が中心となって『ヒロシマと広高』という同人誌を不定期に発行している。そこには「被爆前から原子爆弾の存在を知っていた」とする2人の証言がある。1つは1997年8月発行のもので、同級の中野武彦君のものだ。彼は皆実町の高校の寮で朝食をとっている最中に被爆したが、全壊した食堂の残骸を押しのけて、やっとの思いではい出した。顔に深い切り傷を負っていた。その夜は近くの芋畑で野宿したという。
(被爆した夜、野宿していると)高校生の集団ができて、夜空になおも赤い炎をちらちら見せている市の中心部を見つめながら、私たちは時折元気づけに寮歌を歌っていた。ふと私は、京都帝国大学で物理学を専攻し、荒勝教室にいた義兄が、物知り顔に話していたのを思い出した。
「マッチ箱1個の大きさで、戦艦1隻すっ飛ばす爆弾があるんやデ。原子爆弾言うんや」
B291機か2機の爆撃で、これほど広範囲に被害を与え得る爆弾は、原子爆弾以外にないのではないか。そのことを持ち出したが、居合わせた化学を教えるH先生は、きっぱりと否定した。
「理論的には可能じゃが、いくらアメリカだって、まだそこまではいっとらんじゃろう」
けれどもやはりあれは、世界で最初に人類の上に落とされた、1発の原子爆弾だったのである。
これまた呉鎮守府の三井大佐の「京大・荒勝研究室(海軍)ニテ行ヒアルモ」と符合する。物理学者の間では、弁当箱とかマッチ箱とか、その大きさこそ違え原子爆弾は公然と語られていたようだ。・・・
私は、本書の1章を、日本の原子爆弾製造について書くべく、たくさんの資料を集めてきた。しかし、この構想は途中で断念した。この「マッチ箱1個の大きさで・・」の表現の中にあるように、日本の原爆製造は、ほんの初歩的実験ともいえない程度であったと知ったからである。日本の原爆開発を真正面から書いた本はないとはいえない。しかし、空想物語の域を出ない。何といってもウラン鉱石さえ、ほんの少量しか入手できていない。
国家が研究に投資した金額はマンハッタン計画の数万分の1もない。読売新聞社編『昭和史の天皇』の「原爆投下」の章を読めば、私の書いていることが事実であることがわかる。
この引用文中の「京大・荒勝研究室(海軍)」とあるのは、日本海軍が、京都大学の荒勝文策理学博士を中心とした研究室に原子爆弾の研究を委嘱したからである。陸軍は☆理化学研究所(理研)の仁科芳雄博士に研究を依頼した。「マッチ箱うんぬん」程度の研究であったと記しておく。この件で興味ある方は『昭和史の天皇』の「原爆投下」の項を是非読んでほしい。
『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を続けて読んでみたい。あの★湯川秀樹博士が登場するからである。
(☆参考: http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/23941835.html 「競馬放浪日録」)
・・・いま1人は私の中学、高校で2年先輩の永田泰次さんだ。2000年8月発行の同人誌の中で、やはり「広島に原爆が落とされていることがわかっていた」と次のように書いている。
「当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される3ヵ月前の1945年5月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第1回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした」
永田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、永田さんはこう言う。
「西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ」・・・
私はこの文章に接したとき、「やっぱりそうだったのか」と正直思ったのである。これには理由がある。私は渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたが』(2003年)の中に書かれている、ある文章を思い出したからである。
・・・戦時中、日本で1日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱1つの大きさで戦艦1つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日いう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。しがし、その基礎理論が完結をみないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを1つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。日本の利益にはならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。・・・
この渡部悌治の「湯川秀樹論」については後述することにして、私が彼の本に書かれた湯川秀樹と関係する諸々の事実を調査していたとき、偶然とはいえ、中条一雄の文章に接したということである。中条一雄は次のように書いている。
・・・独自ルートで考えられるのは『もはや高地なし』〔フレツチャー・ニーベル、チャールズベイリー著、1960年〕の1節だ。原爆投下の約半年前の1945年初めごろから、1部の米学者の間から「原爆使用反対」の声が出て、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所だった。アーサー・コンプトン所長を中心に政治家や軍関係者に対し、さまざまな反対運動を繰り広げたようだ。その様子は「届かなかった原爆使用反対の声」という項目で詳しく紹介されている(同書111ページから119ページまで)。6月4日には「同研究所で対日原爆使用を阻止しようとして7人の科学者が会合を開いていた」とあるが、結局反対の声は通らなかった。
シカゴ大と京大、そして冶金研究所と冶金教室。冶金つながりに不思議な符合がある。学者の間では、あの戦時中でもスイスあたりを経由して、日米間でひそかに情報を交換していたという話もある。終戦後、西村教授か亡くなったのち、永田さんは同教授のご子息に「生前、こんな話を聞いていましたか」と尋ねたところ、「そんな話は一切聞かなかった」という返事だったという。だが、永田さんは、今でも日米間の「冶金つながり」を信じている。・・・
私は中条一雄のこの後半部分を読んで、先輩の永田に原爆情報を伝えたのは、間接的ではあるとはいえ、間違いなく湯川秀樹であったと思うに至った。アーサー・コンプトン所長を中心に、「日本に直接、無警告による原爆投下をやめ、事前に知らせてからにしろ」という反対運動が燃え上がった。アーサー・フランクによる「フランク報告」にその内容が詳しく書かれている。しかし、私は本書が莫大な頁数になるゆえに、学者たちの反対運動に触れなかった。これらの運動は、結局、原爆製造・投下の最高責任者スティムソン陸軍長官によって潰されるのである。
中条一雄は「シカゴ大学と京大、そして同じ冶金研究所と冶金教室・・」と書いているが、シ力ゴ大学の冶金研究所は、「原爆研究所」とは表現できないとのことからきた★偽名である。イギリスの原子力委員会が「管合金」という言葉を使ったのと同様の偽名である。京都大学は、このシカゴの冶金という言葉に倣った可能が高いと私は思っている。
湯川秀樹は戦争が終了してから3年たった1948年に『原子と人間』という本を出版している。その中に「アメリカ日記」が入っている。1939年10月3日の日記を見ることにしよう(英文の部分は私が和訳した)。
・・・10月3日(火)晴 稍々寒し(シカゴ)
午後零時30分汽車はシカゴ・セントラル駅着、船山氏の自動車で直ちにクォーディラングル・ヒルに向ふ。船山氏は私が昨日帰って来るかと思って迎へに行ったり、又コンプトン氏はディナーを途中で打切ってスティーブンス・ホテルヘ行ったりした由。
1時10過ぎホールに行くとコンプトン氏は既に待って居られて昼食を共にする。実に親切な、真面目な、頼もしい人である。丁度食堂にはデンプスター博士、マルキン博士、アリソン博士も居て一緒に賑やかに話する。それからコンプトン氏の案内でシェーンその他の人のやっているバルーンにカウンターを乗せて飛ばす実験装置を見せて貰う。バルーンはうすいゴムで22粁(最高)迄上る由。シェーンの最近の実験法は既にピス・レブュー(9月15日)に発表されて居るが、ソフト・コンポーネント(柔核力)が最高の度合いになる高さまで中性子によって作られる強分子は柔核力に比例して増す。これを中性子がフォトンであるとするとよく了解できる。・・・
湯川秀樹はコンプトンの案内で各種の実験装置を見て回る。そして、20人ばかりの関係者が集まった会議室で講演をする。その内容を翻訳して伝える技術を私は持たないので以下は省略する。
私はこのときから、湯川のコンプトンや他の学者たちとの交流が始まったとみている。
渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』に戻ろう。渡部は「軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬ」と書いているが、私が調べた範囲内で、日本の原子物理学の理論面での研究では、ある分野(中間子理論)では世界的水準に達してはいたと思えるが、どうも納得がいかない。日本の原爆研究で、アメリカにとって投に立ったものがあるとは思えない。
有馬哲夫が「月刊現代」(2008年1月号)で、「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」という記事を発表している。その中に、次のような文章がある。
・・・たしかにバーグは、ハイゼンベルクが1944年のクリスマスにスイスのチューリッヒにやってきて講演することを突き止め、現地に入り実際にそれを聴いている。だが、彼が12月30日に本部に送った報告書には、ナチス側の潜在的原爆開発者としてハイゼンベルク配下の科学者の名前があげられているだけだ。ちなみにそこには「キクチ(菊他正当時大阪帝大教授)」、「ユカワ(湯川秀樹、当時東京(ママ)帝大教授)」の名前も言及されている。・・・
私は、トマス・パワーズの『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』(1994年)を読み、ハイゼンベルクがたしかに、1944年のクリスマスにスイスのチューリッヒで講演をしている事実を確認した。しかし、このハイゼンベルクの生涯を追求した本の中に日本人の2人の原子物理学者の名前を発見できなかった。それだけではない。私はこの本を読み、ドイツの原爆は、他の本に書かれているのとは異なり、未完成であった、と思った。だから、私はドイツの原爆製造についてほんの少ししか書かなかったのである。
それでも、湯川秀樹には疑問が残る。ノーベル物理学賞受賞の理由は、彼の「中間子理論」による。この理論は仁科芳雄とその弟子たちが湯川秀樹に先んじて構想し、理論化しつつあったものであった。たしかに小沼進二編『湯川秀樹日記』(2007年)を読むと、湯川秀樹の中間子理論への情熱のすごさがうかがえる。彼は仁科芳雄たちに先んじて英文で書き発表した。アメリカの物理学者は彼を自国に迎えた。全米各地の大学で湯川は歓迎される。その様子を彼は「アメリカ日記」の中に書いている。
湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒勝教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している。私はこの理論面での原爆研究のデータがシカゴ大学のコンプトン研究所に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から湯川秀樹のもとへ伝わったと信じている。
小畑弘道の『被爆動員学徒の生きた時代』(2007年)から引用する。湯川秀樹が登場する。
・・・ところで、同じ市内にあった学校でも、農村部に疎開をしていて難を逃れたところもある。陸軍広島幼年学校と広島高等師範附属中学校である。
前者は、将校生徒を育成する目的で全国6ヵ所に開設された学校で、広島幼年学校(「広幼」)は、1897年(明治三〇)に開校された。〔中略〕疎開は6月に行われ、49期生と47期生が高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に、また48期生が甲奴郡上下町(府中市)に移住していた。生徒の総勢は670名ほどであった。なお、疎開のことを陸幼では「転営」と言っていた。・・・
「幼年学校」といっても、現在の中学1年から高校生にあたる生徒たちであった。彼らは、第二総軍の畑元帥の命を受けて6月に「転営」となった。「6月」に注目したい。広島に原爆が投下することがほぼ決定したときである。畑元帥のおかげで彼ら670名は助かったが、広島高等師範附属中学を除いた学校の子供たちは、強制疎開という名の駆り出しを受けて死んでいったのである。ここにも畑元帥の奸計が読み取れよう。続きを引用する。
・・・一方、広島高師附属中学校は千田町(現在の広島大学千田キャンパス付近)にあり、ここも爆心地から1、5キロであり、疎開をしていなかったら大きな犠牲が避けられなかったところである。附属中学の1年生120人は賀茂郡原村(現在の東広島市)へ、2年生120人は豊田郡戸野村(東広島市)、また科学学級は比婆郡東城町(庄原市)へと疎開した。疎開の名目は、一応「農村動員」としていた。このうち科学学級というのは、44年2月にスタートした理数系に秀でた生徒を集めたもので、全国では東京、京都と広島にあった。戦況が厳しさを増すなかで、いわば速成で科学者の卵を養成しようとしたもので、湯川秀樹博士らの進言と軍の後押しで創設されたものである。生徒たちは動員に出ることなく、ずっと授業を続けていた。・・・
私はこの小畑弘道が淡々と書く文章を読みつつ、『原爆は8時15分に落ちたのか』を読んだときと同じ思いを抱いた。「湯川秀樹は原爆投下について事前に知っていた」と。
そしてまた次のようにも思った。「彼は間違いなく、日本の原爆研究のデータをコンプトン研究所に流し続けていた」と。そしてまた次のように思った。「少なくとも仁科芳雄と2人で受賞するべきノーベル賞が、湯川秀樹単独の受賞になった」と。
馬場重徳(科学者)の「仁科芳雄功績調書」(1946年2月11日の文化勲章授章のための功績調書として作成されたもの。日付不明)の中に「量子論に関する業績」が載っている(『仁科芳雄往復書簡集1 現代物理学の開拓』2006年)。
・・・殊に阪大の湯川博士の中間子理論には当初より多くの関心を示した。この理論は昭和12年、宇宙線中に予言されていた新粒子が発見されるに及んで、世界の学界の注目の的となったが、仁科博士は或いは研究室における宇宙線の実験的研究を以て協力し、或いは、関西と東京との理論的物理学者の会合を屡々主催するなど凡ゆる援助を惜まず、湯川博士の理論の完成に尽力した。・・・
ロバート・K・ウェルコックスの『ジャパン・シークレット・ウォー』(1995年)がアメリカで出版された。あたかも、日本が本格的に原爆製造に着手しているかのごとくに書いているが、丁寧に読むと、その製造がマンハッタン計画に比して、全くの初歩的なものであったことが分かるの
である。次のように湯川秀樹について書いている。
・・・荒勝は才能のある研究者のグループを持っていた。特に、1949年にノーベル物理学賞を貰った湯川秀樹がそのグループの中にいた。湯川は1939年以降、核分裂によるエネルギーの計算をし続けていた。湯川は世界での理論物理学の分野で有名な1人であった。荒勝はそんな湯川を彼の意のままに使ったのである。・・・
ウェルコックスの本の中に、海軍が京都大学の荒勝研究室に与えた研究費は1500ドルであったと書かれている。マンハッタン計画は20億ドル以上の金が使われた。この点から見ても日本の原爆製造物語は書く気にもなれない。しかし、戦後、湯川は原爆研究に関係したとは一切語っていない。彼は都合の悪いことはすべて封じ込めてしまった。
この頂の終わりに、湯川の戦後の活動について書いておきたい。
湯川は、朝永振一郎、坂田昌一との共著『核時代を超える』(1968年)の中で次のように書いている。
・・・世界平和を念願する人たちの活動の仕方は多種多様であった。しかし、それらの人々の出発点は同じだった。原爆投下、それからまた水爆実験があたえたショックは強烈であった。核兵器を廃絶し戦争を廃絶しなければ、人類の前途は暗黒だと直覚したのである。非常に多くの人々に共通するこの直覚を、最も簡明率直に表現したのが1955年のラッセル・アインシュタイン宣言であった。それは人類の良心の叫びであると同時に、新時代に処すべき人間の良識の具現でもあった。この宣言は、その最後において世界の科学者および一般の人たちに次の決議に署名するように呼びかけた。
「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしていくという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的手段をみいだすよう勧告する」
このラッセル・アインシュタイン宣言の呼びかけは無駄ではなかった。当時ほとんど不可能と思われていた東西両陣営の自然科学者の討議の揚が出現した。それが1975年の第1回バグウオッシュ会議であったのである。・・・
カナダにあるバグウォッシュという名のホテルは、「死の武器商人」であるサイラス・イートンが持ち主である。この会議は、朝鮮半島、ヴェトナム戦争で武器を売りまくり、巨万の富をつくった男が主催した会議である。
この会議の最後には巧妙な〔仕掛け〕があった。それはアイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンを、会議が「次期アメリカ大統領にふさわしい」と宣言したことである。
J・F・ケネディは核実験反対を唱えていた。ニクソンは核実験継続を唱えていた。バグウォッシュ会議は続けられていくが、その費用は、あの原爆を広島と長崎に落とした連中が出し続けたものであった。
同じ湯川、絹永、坂田共著の『平和時代を創造するために』(1963年)の中で湯川は次のように書いている。
・・・それなら、その他の条件とは何か、また最終目標は何かという点になると、ラッセル・アインシュタイン宣言は、はっきりしたことは何もいっていない。ラッセルもアインシュタインも共に早くから世界連邦主義者であったから、おそらく両氏とも心の中では、最終目標として世界連邦のイメージを描いていたと思う。しかし多くの科学者の賛成を得るためには、そこまで飛躍しない方がよいだろうと判断したのであろう。私自身も世界連邦の理想には以前から大いに共鳴しているが、科学者の会議でそれをはっきりとだしてよいかどうかについては、いろいろと問題があったと思う。・・・
この本は1963年に出版された。湯川は生涯、世界連邦主義者として活躍した。
私はこの世界連邦主義を唱えた連中が、国際金融寡頭勢力から操られた人々であることを研究し尽くしている。その詳細は省くが、バートランド・ラッセルも、アルバート・アインシュタインも、原爆を日本に落とした金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン・・・等の〔雇い犬〕であったと書いておく。
世界を1つの政府が支配するという思想ほどに恐怖に満ちた思想はない。原爆を落とした奴らは、この思想を平和思想という。私は平和とか平和主義とかいう言葉を嫌悪する。この西洋からたれ流された「ピース」を拒否する。私たちは汚れちまった「平和」という言葉に代わる、新しい思想を打ち立てて、世界連邦主義者たちに立ち向かわねばならない。
湯川は自分が原爆製造に関わったことをすっかり忘却し、ひたすら壇上から、平和主義と世界連邦を唱えた。
広島と長崎で死んでいった人々よ、広島と長崎で被爆し苦しみの中に生きていく人々よ、汚れちまった「平和」という言葉に代わる、ほんとうに美しい言葉を生き残った私たちに教えてほしい。あなたたちが心の中で叫び続けた言葉をこの私に教えてほしい。私は今から、新しく、美しい言葉を探す旅に出よう。
★湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係 <了>
続く。
●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ
★元帥の述懐は「君!なるようにしかならんねェ」
私は原爆機「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下するために、テニアン島を飛び立つ様子とか、どのように落としたとかを本書では書かなかった。まことに申し訳ないが、そのようなことを知りたい読者は、私がたびたび引用したゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』、そしてこれから引用するジョセフ・マークスの『ヒロシマヘの7時間−原爆を運んだ12人の記録』(1968年)を読んでほしい。しかし、これらの本はすでに出版されて年月がずいぶん流れている。それでも、原爆投下の過程を書いた本は出ている。私は原爆投下の深層に迫りたいのだ。だから落ちた瞬間から描くことになる。
ジョセフ・マークスの『ヒロシマヘの7時間』1968年)から引用する。
・・・広島市民は閃光で目がくらんだ。「エノラ・ゲイ」の搭乗員と違って、これはかれらには予期しない出来事だった。
閃光に伴う音は全くしなかった。機の搭乗員も爆発音はなにも聞かなかったし、広島の人たちも音を聞いた覚えは全然ない。しかし瀬戸内海上のやや離れたところにいた漁夫は閃光を目撃し、爆発の轟音を聞いた。広島から少なくとも30キロは離れたところにいたのに、あの1発の爆発音はB29が8キロ先のまちを爆撃したときの音よりも大きかったと報告した。
広島では高空を飛行中の3機の爆音を聞いて、わざわざ上を見た人はごく少なかった。その少数の人たちは爆弾を見ることはできなかったが、奇妙な飛行機の動きには気がついた。1機が編隊を離れて右に急降下すると、他の1機は左に急降下した。それから3個のパラシュートが突然、花のように開いた。それは「グレート・アーチスト」から落された計測器類を積んだ包みだった。眺めていた人たちのなかには、これを編隊の1機が故障を起した証拠だと思って喜ぶ人もいた。かれらが、目撃した大事件から命拾いしたとすれば、現場からかなり離れたところにいたからにほかならない。市の上空3分の1マイルのところで起った閃光は、史上初めての人工熱風の目に見える証拠だった。〔ゼロ地点〕(爆発点真下の爆心地)の近くにいた人はすべてが瞬間的に、完全に灰と化した。
広島上空で爆発した原爆の効果は段階的に現われた。まず、ウラニウム235の2つの小さな塊りがいっしょになって臨界点に達し、ついで瞬時にして想像もつかないほどの熱と放射能を放出、そのとき、信じられない大閃光がひらめいた。その直後閃光から2、3秒後(〔ゼロ地点〕からの距離によって違う)に、この猛烈なエネルギーの放出によって、天地を砕くような衝撃が起り、続いて火炎と烈風、さらに熱火の嵐が巻き起った。
突然起った数百万度という高温の放出の効果はまさに驚くべきものだった。人も物も簡単に消滅した。なかには石の上に影を焼付けた人もいた。〔ゼロ地点〕から5百メートル以内のタイルや屋根瓦は簡単に溶けてしまった。雲母は溶けて花崗岩の墓石となった。・・・
これが原爆投下直後の〔ゼロ地点〕付近の地獄図であった。正直言って、広島の原爆資料館の展示は、あの瞬間の惨状を伝えていない。ただ、何もない投下後の写真だけが真実を物語っている。マークスの本を読み続けよう。マークスはこの惨状を冷静な眼でしっかりと見つめ、描き続けている。〔黒い雨〕も描いている。
・・・原子の火の玉と熱火の嵐は平地の大気を上空に吸いあげた。その大気が上空の冷たい空気の層に達すると、湿った空気は凝縮し、その1部が雨になって地上へ戻ってきた。それはふつうの雨ではなく、おはじきほどもある大きな黒い滝のような雨だった。この黒い雨は、降ってくるときに、ほこりと灰の雲を通り抜け、そこで黒い色をつけてきたのである。
広島の人びとは自分たちが原爆にやられたなどとはもちろん分っていなかった。パラシュートと閃光を見た人のなかには、かれらの上空でマグネシウム爆弾が破裂したと思った者もいた。うわさやもっともらしい理屈が広がった。市の上空にガソリンがまかれ、そこでマグネシウム爆弾が点火されたというのや、1種の毒ガスが使われたというのである。空気中には妙な臭いが漂っていた。無傷か、あるいは少なくとも致命傷を負ってはいないのに死んだ人も多いとみられた。しかし、医師たちには間もなくこれらの人たちが放射能で死んだのだと分った。
「リトルボーイ」のなかの少量のウラニウムは核分裂を起して中性子と、ベータ粒子と、ガンマ線を放出した。人間がこれらをあまりに大量に浴びると、細胞構造が変化し、その浴び方、その他の要素によって、死ぬか病気になる。・・・
私がこれから描こうとするのは、核爆発後の放射能とその放射能がもたらした死である。そして、放射能汚染はない、とするアメリカの主張に同意した日本政府の、否、国家の中枢にいた人々の動きである。原爆投下直後に運よく生き延びた人々も、放射能汚染で死んでいくのである。日本国家が彼らを見殺しにするのである。死に直面してかろうじて生きる人々に、「原爆患者は2度死すべし」と断言するのである。だから、この半世紀以上がすぎた過去を私は拳を握りしめて振り返ってほしいと思い、書き続けるのである。
ジョセフ・マークスは、この原爆投下の隠された重要点を暴いている。続けて引用する。
・・・爆弾を目標上空2千フィートの高空で爆発させた理由のひとつはここにあった。アラモゴルドの実験では、〔ゼロ地点〕から十分離れていても、そこにある土地や物体は放射能を浴びるようになり、それがしばらくの間続くということが分った。陸軍としては放射能でなく熱と爆風で被害を与えることを望んでいたので、爆弾は地上3分の1マイルの高さで爆発させることに決定した。しかし、医師たちは、〔ゼロ地点〕から半マイル以内にいた人たちの95%は放射能で死んだと推定した。医学専門家は、のちになって、ひどいやけどや爆風で傷ついた人の多くが、やけどや傷そのもののためではなく、放射能で死んだことを認めた。・・・
この記事の中に、原爆の恐怖が描かれている。爆心地近くで一瞬にして死んだ、ごく少数の人を除いて、多数の死者は、原爆投下後の爆風が静まった後に出たということを証している。ジョセフ・マークスが書いているように、もう少し上空で爆発させていたら、広範囲に放射能が拡散したことになる。
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』の中で、訳・解説の広瀬隆は、「ロバート・オツペンハイマーがエンリコ・フェルミに宛てた50万人殺戮計画の書簡」を載せている。
・・・1943年5月25日
イリノイ州シカゴ−シカゴ大学冶金学研究所
エンリコ・フェルミ様
放射能で食品を汚染させる問題について報告します。私はすでにいくつかの作業を進めています。また、エドワード・テラーが、あなたの直面している問題について話してくれました。
私がワシントンにいた時ですが、参謀総長がコナントに、放射性物質を軍事的に利用する方法について報告書をまとめるように言っていることを知りました。またコナントは、その報告のために資料を集めていました。そのため私は、グローヴズの承認を得て、有望と思われるその利用方法について彼(コナント)と話し合いましたが、具体的なことについて2、3説明した上で、その規模についての考えを述べました。〔中略〕
要点を申しますと、もしできることなら、もう少し計画を遅らせたほうがよいだろうというのが私の意見です(これに関連してですが、50万人を殺すのに食べ物を充分に汚染できない場合には、計画を試みるべきではないと考えます。というのは、均一に分布させることができないため、実際に被害を受ける人間がこれよりはるかに少なくなることは間違いないからです)。・・・
オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ(シカゴ大学冶金研究所の総監督)たちは、単に原爆を投下するだけでなく、いかに多数の人々を殺害するかを考えていた。50万人殺害を狙うには、東京か、大阪か、そして京都しかなかった。グローブス将軍が最後まで京都を主張してやまなかったのはこのことを示している。
放射能に汚染された水と食料を口に入れて殺害する計画が見事に適中し、彼ら料学者たちは「快なり」と叫んだにちがいないのである。原爆投下による熱風だけでは死者が増えないことを投下前から彼らは知っていたのである。放射能汚染もいかに拡大するかに、「スペクタクル」の演出効果がかかっていた。そして、彼ら科学者の思惑は見事に現実となったのである。
私はたくさんの人々の記録を読んできた。しかし、本書ではいままで1つとして引用しなかった。引用する気になれなかったのである。原爆患者たちの手記や記録を読んで、私は彼らから、この本を書くエネルギーと勇気を与えられ続けたのである。
1つの物語を伝えたい。中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』(1966年)の中から「この子を残して」という記事を引用する。林田奈々子さんは当時国民学校6年生だった。彼女は爆心地から1.3キロの天満国民学校で被爆した。奈々子さんは顔にケガをした。彼女の一家みんなも被爆する。
・・・苦労をみかねた奈々子さんは、広島女子商を中退して美容師になった。マシンひとつ、ドライヤひとつ、17平方メートル(5坪)たらずの小さな店。借金ではあったが、ともかく「奈々美容院」は開店した。客も少しずつふえた。昭和28年、奈々子さんは瀬戸彊さん(37歳)=広島西警察署勤務=と結婚。31年2月には長女真美ちゃんが生まれた。原爆で痛めつけられた1家に、やっとバラ色の末来が微笑んだとき、原爆は〔目まい〕というなにげない形で死を予告した。32年6月、奈々子さんは軽い貧血で倒れた。
近所の医者は「過労だ。4、5日でなおる」と言った。〔目まい〕はなおらない。やがて右手首の痛み、吐き気、歯茎からの出血−お歯グロのような黒い血は、原爆が届けた喪章だった。10月末、原爆病院に入院、翌年2月退院。同年5月再入院。そして翌年4月10日午前10時すぎ、死亡。
死の前日、幼稚園の制服を着た真美ちゃんをベッドにすわらせ、奈々子さんは「夕焼け小焼け」を歌った。翌10日「きょうが峠だ」と主治医が言った。家族、知人の輸血がつづく。ハチの巣のようになった堅い腕には、針が立たなかった。「手がダメなら足に、足がダメならここに・・」奈々子さんは訴えつづけた。「マミちゃん、マミちゃん」死ぬまでわが子の名を呼びつづけた若い母は「・・ネ、・・ネ」となにかを言おうと必死に繰り返した。ノドがクククッと鳴った。
マクラ元に大学ノート2冊に書かれた日記があった。
「マミよ、こんな病気の母をうらまないで・・。マミはきっとおとうちゃんのキレイな血をいただいているのよ。だから嘆かないで・・。そしておとうちゃんのような人と結婚するのですよ
死の床にあえぎながら娘と夫によせる一筋の愛。娘の血の中にまで〔原爆〕を見る母の苦悩−日記は『かえらぬ鶴』と題して出版され、原水爆禁止を願う母親の共感を呼んだ。・・・
この記録の中に奈々子さんの詩が1つ載っている。
・・・あまりにも残酷な
取り返しのつかぬ現実に
苦しみながら私は
生きぬかねばならない
近く終るであろうことを
察しながら ・・・
この悲しい記録の引用を続ける。
・・・広島市の西、三滝山の中腹に「かえらぬ鶴の碑」がある。遺族が昭和40年4月、「七回忌」に建てたものだ。碑文には奈々子さんの詩が刻んである。
「マミチャン、テンマヤ(広島市内の百貨店) ヘユコウネ」そう書いた母親は、約束を果たさずに死んだ。碑の前に立てば、近代ビルの立ち並ぶ50万都市が、夏の日をはね返す。今世紀最大の死が襲った当時のヒロシマは、どこへ行ってしまったのだろう。
「奈々子の苦しい戦いは終わった。しかし、私の苦しい戦いはいまもなおつづいている」
『かえらぬ鶴』のあと書きに、ミヤコさん〔奈々子さんの母親〕はこう書いた。ヒロシマが追憶の都市になっても、被爆者のケロイドが癒える日はない。・・・
この「奈々子さん」の記録には前文がある。ここで、その前文を記す。
〔昭和〕34年4月10日、皇太子ご成婚の日、皇居内〔賢所〕では午前10時から「結婚の儀」が 行なわれた。束帯姿の皇太子、十二単、紫の唐衣をまとった美智子妃。テレビは平安朝そのままの華麗な慶事を中継する。アナウンサーの興奮した声、テレビの前のため息・・同じとき広島原爆病院でひとりの被爆者が死んだ。骨髄性白血病、14年目に訪れた〔悪魔に魅入られた死〕だ。広島市福島町、瀬戸奈々子さん(旧姓林田)−妻として、母としてだれよりも生きつづけたいと願った27歳の女の死だ。・・・
この項の終わりに、有末精三中将と大屋角造中佐、そして畑悛六元帥の3人の出会いの場面を『終戦秘史 有末機関長の手記』(1976年)を通してみることにしよう。まずは大屋角造との再会の場面である。
・・・マンジリともしなかった1夜を明かしたわたしは、8日早暁7時過ぎ飛行場に行き、故李公殿下無言の京城ご帰還をお見送りした後、とりあえず自動車で広島北方の双葉山にある第二総軍の司令部へ向った。
途中、完全に焼けた街の道路、遮ぎる何ものもない両側に四ツ脚を虚空にふんばって斃れている数頭の馬の死骸、多分爆風に煽られて斃死したのだろう、いかにも被害が瞬間的だったその猛威を思わせられた。
市内北端に近い学校だった第二総軍司令部に立寄ったところ、ワイシャツ姿の大屋角造中佐参謀(第44期、さきに第二部米英課の課員、わたしの旧部下)が、かいがいしく焼け跡の見えるガラス窓のこわれた中で課内の残務整理(?)に任じていたのに会った。被爆当時の模様の実相を聞きながら、双葉山の中腹防空壕側の司令部に案内された。・・・
では、今度は畑俊六元帥に会う場面を引用する。
・・・10日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、元帥は当然至急帰京をすすめられ、独語のように、
「君‥ なるようにしかならんねエ」
と短い言葉を洩らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習練で勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「5千メートルしか届かない砲弾を、7千メートルも先きの目標に向って 発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった。その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。・・・
私は有末中将のこの2つの文章を原稿用紙にペンを走らせつつ思ったことがあるので記すことにする。それは「備えあれば憂いなし」という格言であった。ワイシャツ姿の大屋角造中佐参謀は原爆投下時間を予知するという「備え」をしていたから無傷であった。畑悛六元帥も、窓のない部屋の中央に座り、「備え」をしていたから無事であった。
私は読者に伝えたい。国家の奸計に備えをもって、日夜生きよ、と。そうすれば〔憂い〕は多少は消えるであろうと。そのために、国家の奸計に対し、〔あかんべえ〕の心を常時持つがいいと。
それにしても有末は妙なことを書いている。「5千メートルしか届かない砲弾を、7千メートルも先きの目標に向って発射するような計画には絶対不賛成」と。まさに、その通りであった。あの日、「エノラ・ゲイ」は、照準点の相生橋から50マイルのところを、高度3万8000フィートで飛びつづけており、2、3マイル後方を2機の観測機が追っていたのだ。広島の高射砲がたとえ、その3機を発見し空中に飛んだとしても「とんで火に入る夏の虫」で、届かないのであった。
「君! なるようにしかならんねエ」
もう1つ、有末は謎めいたことを書いている。「その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった」と。
有末は「第二総軍の使命が原爆投下で終わり、これから和平交渉に日本は入ることになった」と書いているのである。
「君! なるようにしかならんねエ」
この言葉こそが第二総軍が設立されたときに間違いなく畑悛六が発し、原爆投下後にも彼が発した言葉である。
私は瀬戸奈々千さんの詩と畑悛六の独語の中に、人生の悲哀を感じた。瀬戸奈々子さんの記録を原稿用紙に写しながら、私は溢れる涙を止めることができなかった。有末精三の文章を原稿用紙に写しながら私は、憤怒の情に心をわなわなと震わせていた。
ここで、どのくらいの人が広島原爆で死んだのかを記すことにする。正確な数は現在でも判明していない。
1946年8月10日付の広島市調査課がまとめた資料によると、死者数は11万6661人。被爆1年後の死者数である。被爆1年以内は10万7346人となっている。しかし、軍人の死者はこの中に入っていない。1945年12月10日提出の第二総軍参謀の報告によれば、6028人。ここでも第二総軍は死者数を隠している。軍人・軍属は被爆当時9万人を超えていた。少なくとも2万人以上の軍人たちが死んでいるはずである。それに、莫大な生ける屍と化した(表現は悪いと思うが)被爆生存者がいる。この数も正式に判明していない。
瀬戸奈々子さんも原爆で死んだ人なのである。平成の今日でも、原爆死は続いている。
「君! なるようにしかならんねエ」ですまされる問題ではないのである。
「マミチャン、テンマヤヘユコウネ」の母の約束を破った奴の正体をあぶり出さねば、私の気はおさまらないのだ。
★元帥の述懐は「君!なるようにしかならんねェ」 <了>
続く。
- 参考投稿→ 「戦時中・植民地朝鮮での核爆弾工場の実態」など3点。 福助 2013/6/29 00:53:40
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