http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/167.html
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福助です。先回出した大戦中の日本の原爆開発については多くの御高覧を頂きました。
この中のコメントから転載に値するものを見出しましたので提出させて頂きます。
このブログの立場については異見を持たれる方も多かろうとは存じますが、私は立場については問わないのであって「情報」の質と重要性を重視いたします。
このコンテンツの中で私が最も採り上げたく且つ同意する叙述は次のものです。
…『総体として戦時中とは断絶しない歴史を持つ。』…
「核の平和利用」から「鉄腕アトム」まで戦後日本人の「科学信仰」の馬鹿加減にはうんざりさせられて「ペテン嘘くせー」といつも思ってきていました。
「科学的平和利用」「科学的社会主義」…それらは信仰に過ぎない訳です。
先回に出しました下の投稿と合わせてお読みください。
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/151.html
ソ連が米国を日本の核攻撃から救った (ロシアの声) …昭和20年8月の話
福島第一の爆発は大被害をもたらしましたが、日本人の根拠の無い原子力信仰と科学信仰の仮面を引っ剥がし、飛散霧消せしめたことだけは結構でした。
http://fujisosho.exblog.jp/16417440
第二次不二越強制連行・強制労働訴訟
シリーズ福島原発・大惨事を考えるー不二越闘争と日本の核武装ー
(2)戦時中・植民地朝鮮での核爆弾工場の実態
内容を記した米国公文書が公開され、2005年6月12日、韓国MBC(文化放送)が詳細に報道した。MBC放送は、現政権から現在も弾圧の最中である。日本では共同通信が配信し、朝日新聞は具体的内容を掲載せず。以下の記述は、MBC報道の概略によったものである。
第2次大戦時、日本原爆開発
ミッドウェー海戦での敗北後、情勢が不利になるや、日本軍部は、情勢をいっき逆転させる原爆を開発することを急務とした。これを東大・理研に指示する。核物理学の分野で世界的水準の理化学研究所は、粒子加速器のウラン分離筒を導入し、本格的に原爆開発に乗り出すことになる。
当時、 原爆の開発チームの中心人物だった物理学者である仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎等は戦犯から除外された。更に戦後は、米国の後ろ盾で戦後初のノーベル物理学賞を湯川に受賞させた。彼は戦後「非核」を語る学者である。湯川にあこがれ夢見た青年科学者は物理学者として育った。湯川は、原発建設(核の平和利用)にも重要な人材として参加する。
科学技術庁設立には湯川が正力松太郎と同席した。平和主義者と革新政党も超党派で参加した。日本の核(夢の原子力=平和な原発)が「平和と民主主義」の名で出発した。戦後も核理論・技術においては、主観的良心派を取り込む。中曽根・吉田・岸・正力などは、敗戦は科学技術の遅れと総括する。学術会議は「民主・自主・公開」の名で「平和な原子力は人類の叡智」と自己欺瞞して核武装を担う。総体として戦時中とは断絶しない歴史を持つ。
興南の秘密工場、その中では何が開発されたのか?
1945年3月の東京大空襲で日本国内での開発が難しくなると、日本軍は、朝鮮北部の興南(フンナム)で原爆開発を続けている。 当時、興南は窒素肥料工場、化学工場など大規模な工業団地が入った新興都市だった。しかも、原爆の開発に必要な電気がアジアで最も豊かであり、海軍基地が入っていた。 興南工業団地は、平時には肥料や化学薬品を作るが、戦時には、すぐに軍事用に転用が可能なものだった。 興南での原爆開発は秘密プロジェクト だった。 ウラン濃縮には、「ガス拡散法」と「遠心分離法」も行われた。
ジェットエンジン開発が興南の主目的だったが、長距離ミサイルも開発していた。
日・独の連携したヒトラー政権下での原爆開発は秘密にされた。ナチスが1944年から45年にベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発した点と日本も時期が一致する。 日本はナチス・ドイツと密接な技術連携をしていた。ウランも日本にUボートで輸送された。
1945年8月、興南沖合で原爆実験?
1947年の連合軍司令部の情報レポートによると「 1945年8月12日興南沖で閃光とキノコ雲を伴った爆発があり千ヤードほどの直径の火の玉が空に湧いた。 通常爆弾は、これだけ大きなキノコ雲が不可能だった。敗戦後に米国からは日本が興南原爆実験のため降伏を遅らせたとの疑惑を生んだ。軍は人間魚雷、潜水艦などに原爆を搭載し、神風式に攻撃する計画を立てた」「日本の核兵器開発に参加した科学技術者は開発の真相を米国に詳細に報告する代わりに戦犯免除を受けた」以上の記述は、当時の研究者、興南勤務の技術者から米軍が証言を集約した文書である。米の公文書で公表されたが、日本のマスコミは無視した。
関東軍731部隊の医師も全く同様である。ワシントンの指示で戦犯免責と引き換えに人体実験の全資料をアメリカに引き渡した。それを基に米国が朝鮮戦争やべトナムで化学兵器を実戦使用した事は良く知られている。また、731部隊の医学者は戦後薬害のミドリ十字による血友病患者のエイズ感染や、加害企業の立場から患者の切捨てに加担した。
陸軍と海軍の核兵器開発
(日本で公表された事は限られている)
陸軍は仁科理研(ニ号研究)、海軍は荒勝京大研究室(F研究)の二つの流れがあった。湯川はF研究班である。
彼らは戦後一貫して真実を語らなかった。戦後、核廃絶・平和運動を語る以上は、
戦時中に自己が担った真実を反省して語るべきとの声があった。しかし、マスコミは「湯川は日本の誇り」として真相を発表しなかった。興南原爆実験は爆発事故説、化学爆発説も現在あるので真相は不明である。この記述はMBC発表の米公文書に従った。
日本と米国の両側からの原爆の意味
米国はマンハッタン計画で核爆弾を約22億ドルの巨費で造った。完成しても実戦投下しないなら、大きな無駄として政権の問題になる。勝利を原爆投下で飾り、戦後冷戦の主導権を取り、米が世界を圧倒する意味があった。原爆を投下し米国勝利で大戦を終わらせる為に、米軍は原爆投下目標都市には大空爆を避けていた。世界初の原爆投下とは、世界政治と更に被爆者への人体実験であった。
日本の敗戦は、国体護持・天皇延命
財界と官僚機構の基本骨格が維持された
敗戦は天皇制護持を絶対条件としていた。1944年2月、天皇に近衛文麿が上奏文を読み上げ「敗戦は避けがたい。直ちに終結を」と述べた。しかし、天皇は「もう一度戦果を挙げて」と戦局挽回を述べる。天皇を平和主義者に偽装する者は「植物学者の天皇は、軍に原爆の開発禁止を命じた」と今も虚偽を述べているが、天皇は逆に核兵器開発に戦局挽回の希望を持っていたのである。
だが、興南の原爆も実戦配備するには更に半年は必要だった。B29の本土爆撃で最早日本は焦土であった。沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキ、更に戦争が長引けば朝鮮の核工場も爆撃される。最早、原爆が有ろうが無かろうが敗戦は必至。事態は決していた。
天皇制延命を担保に、玉音放送では「敵は残虐なる爆弾を使用して無辜(むこ)を殺傷し…民族の滅亡を招来する」と敗戦の理由に述べた。ニ号研究で核兵器の開発を担った仁科博士は「核爆弾は戦争終結に役立った」と無責任にも述べている。
天皇は核爆弾から日本民族を守ることを口実にして、国体護持と天皇延命に利用した。
占領下で米国は被爆者を人体実験の調査対象(ABCC委員会)として扱った。日本政府も被爆者認定を爆心地からの距離で極少数だけとし膨大な内部被曝者を完全無視した。その結果、圧倒的多数は「原爆棄民」にされ、更に韓国・朝鮮人に露骨な民族差別をして放置し、現在に至るのである。(つづく)
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韓国MBC放送とは?
公営放送局である。形式的には民間放送局だが70%株を政府機関(放送文化振興会)が支配する。MBCは韓国民主化運動における進歩的報道で知られた。だが現政権になり次第に人事介入をはかり、MBC社長を解任し大統領系社長に代える攻撃を行った。MBC労組は2010年2月、圧倒的スト権を確立して、4月5日AM6時から全面スト突入。MBC門前でピケを張り新社長就任を阻止した。しかし、大統領府・公安権力は過去の軍事政権と同じく「集会・放送・公務員の表現自由全面禁止」を行い弾圧包囲網をひき、放送予定番組禁止・出演者規制を行っている。日本核兵器開発の特別番組(2005年6月)の詳細はネットから削除された。
MBC放送局からは、富山・不二越に2010年10月、取材に来た。その際には、年末か年頭に特別番組として放送を行うとの話だった。だがその後、MBC社長交代の攻撃への労組全面スト・新社長就任阻止闘争への弾圧で「不二越訴訟支援日本現地取材放送」は取りやめになったまま。韓国政府は不二越と合弁企業を行う国策であり、国策と違うとして放送禁止番組になったと思われる。
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