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日本サッカーの象徴の一つ、Jヴィレッジスタジアムも作業員宿舎に(楢葉町)
あのJヴィレッジは?福島原発20キロ圏内のいま 一部は立ち入り緩和だが、広野・楢葉・富岡町の苦難続く
http://toyokeizai.net/articles/-/14120
2013年06月02日 岡田 広行 :東洋経済 記者
福島第一原発から20キロメートル圏内の自治体で、立ち入りを厳しく制限する「警戒区域」の指定が相次いで解除され、日中に限られるものの行き来が自由にできる地域が広がっている。
楢葉町もその一つだ。昨年8月10日に町内全域が警戒区域の指定を解かれ、町内全域が新たに「避難指示解除準備区域」(年間積算放射線量20ミリシーベルト以下)に区分された。第一原発が立地する大熊町や双葉町、北西方向で大量の放射性物質が降り注いだ浪江町などと比べて放射線量が低いことや東京電力の福島復興本社が立地することから、「復興の拠点」とみなされることも少なくない。
楢葉町では5月11日に第2次復興計画案がまとまり、24日の臨時議会で正式決定された。復興計画では住民の帰還時期を決定するタイミングを「2014年春」としており、「帰町目標」の時期は早ければ「翌15年春」に設定したいとされている。町は復興のための「中核プロジェクト」として、「放射線医療研究・予防医療福祉総合センター」(仮称)の誘致を掲げた。
しかし、住民の間では、「2〜3年先に自宅に戻って生活できるとは思えない」と疑問視する見方が少なくない。いわき市内の借り上げアパートで避難生活を送る金井直子さん(47)もその一人だ。東洋経済記者は原発被害訴訟の原告でもある金井さんおよび元福島県議会議員でいわき在住の伊東達也さん(71)とともに広野町や楢葉町、そして3月25日に警戒区域が解除された富岡町を訪問。原発被害や復興の見通しについて検証した。
いわき市中心部を抜けて、伊東さんの運転で国道6号線を北上していくと、あちこちに原発の収束作業や除染にたずさわる作業員の宿舎が建っている光景が目に入ってきた。
■公園は事故収束作業の前線基地に
金井さんら2人を驚かせたのは、原発事故前には市民の憩いの場としてにぎわっていた二ツ沼総合公園(広野町)が、事故収束作業の前線基地に変貌していたことだ。かつて金井さんが夫や2人の息子とサイクリングを楽しんだ公園内に家族連れの姿はなく、駐車場は他県ナンバーの自動車が並んでいた。
@二ツ沼総合公園内の作業員宿舎(広野町)
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第一原発から20〜30キロメートルの距離にある広野町は、原発事故直後に「屋内退避」を国から指示され、1カ月後には「緊急時避難準備区域」となった。町役場の判断により、住民のほとんどがいわき市などに避難した。その後、昨年3月には町役場機能が回復したものの、除染の遅れや放射線被曝への心配から、8割以上の住民がいわき市内の仮設住宅などで今も避難生活を続けている。
A「ふれあいドーム」は東芝が専有(広野町)
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そうした中、二ツ沼公園内にも原発の作業員宿舎が建設されていた(写真@)。人工芝の多目的施設としてフットサルやゲートボールを楽しむことができた「ふれあいドーム」は、事故収束作業を手掛けている東芝が柵で囲い、専有していた(写真A)。
二ツ沼公園から車で5分もしない距離には、Jヴィレッジスタジアム(楢葉町)がある。スタジアムのピッチにも、数多くの作業員宿舎(1ページ目冒頭の写真)が建設されていた。
B天神岬スポーツ公園のテニスコート(楢葉町)
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スタジアムを後にして、現在、東電の福島復興本社が置かれている「Jヴィレッジセンターハウス」に近づくと、かつてあったという「英国のような田園風景」(伊東さん)は完全に失われていた。芝生はすべてはがされ、鉄板が敷き詰められていた。震災直後には、自衛隊や消防の特殊車両が所狭しと並べられ、ここを拠点に作業員が命がけで事故直後の第一原発に突入していった。
Jヴィレッジを後にして国道6号線を北上し、鮭の遡上で知られる木戸川を渡って天神岬スポーツ公園(楢葉町)に到着すると、公園内にある4面のテニスコートには除染作業で発生した土砂を入れる黒いフレコンバッグ(土嚢)が山積みになっていた(写真B)。公園を出ると、ここでも道沿いではプレハブ建築の作業員宿舎が建設中だった。
■無人の町で空き巣被害が多発
C荒らされた商店(楢葉町)
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旧警戒区域の楢葉町は現在も、宿泊が禁止されている。その一方で、地元民でなくても日中に限って自由に立ち入ることができることから、空き巣被害などの問題が発生している。JR常磐線竜田駅前の商店ではガラスが割られ、自動販売機はバールでこじあけられて、缶ジュースが抜き取られていた(写真C)。
金井さんの自宅(写真D)は、前出の作業員宿舎や竜田駅からも遠くない新興住宅地にあった。自宅に着くや、金井さんは深くため息をついた。
D金井直子さんには多額の住宅ローンが(楢葉町)
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「こんな殺伐とした状態では、ここに戻って暮らすことはできない。楢葉はこの2年で変わり果ててしまった」
金井さんは、原発事故前に勤務していた町内の工場にも立ち寄ってみた。
勤めていた企業を含め、震災前に「楢葉南工業団地」に立地していたのは24社。そのすべてが避難を強いられ、工業団地はもぬけのからになった。
「震災直後の揺れは本当にすごかった」と金井さんは当時を振り返った。事務室の本棚やロッカーはばたんばたんと揺れ、机の下にもぐって難を逃れた。そして、揺れが収まると館内放送で社員の避難を誘導した。
工業団地は高台にあったため、大津波がはるか太平洋の沖合から襲来してくるのが見えた。地元に住む従業員から悲鳴が漏れた。
「会社にいても仕方ない。暗くなる前に自宅に戻って家族の安否を確認してほしい」。工場長の指示で70人近い従業員は自宅へと戻っていき、再び顔を合わせる機会はなかった。翌12日朝、福島第一原発から20キロ圏内の自治体に政府の避難指示が出されたためだ。金井さんもミネラルウオーターやトイレットペーパーなどわずかな荷物を自家用車に積んで、町が指示したいわき市内の避難所に4時間かけてたどり着いた。
05年の操業開始当時、金井さんはパートタイマーとして入社。その後、準社員、そして正社員へと昇進し、震災前には事務部門に所属していた。職場では、バーベキューパーティーや忘年会など、楽しい思い出も多かった。その仕事を原発事故をきっかけに失った。06年3月に新築した自宅のローンが1700万円も残っており、完済までに20年もかかるというが、5月末に送られてきた東電からの土地建物に対する賠償額は、720万円に過ぎなかった。
■反原発活動40年、僧侶の無念
いわき市在住の伊東さん(写真E)も、楢葉町はなじみ深いという。町内にある「宝鏡寺」の住職である早川篤雄さん(73)とは反原発の活動で40年にわたって親交があり、寺の宿坊でしばしば勉強会を開いた間柄だ。
E宝鏡寺(楢葉町)を訪れた伊東達也さん
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阿武隈高地の山麓に建つ600年の歴史を持つ古刹は緑の木々に囲まれており、放射能を意識しなければ何ごともないかのように見えた。しかし、境内には雑草が生い茂っていた。「庭先の鳥小屋で飼われていたホトトギスもいなくなり、池のコイも盗まれたようだ」と伊東さんは語った。早川さんは原発事故直後、妻および自らが運営していた福祉施設の14人の障害者や職員らとともにいわき市内に避難した。その時、自宅や自らが運営する福祉施設に招き入れたのが、旧知の伊東さんだった。
「早川和尚は本当に無念の思いでしょう」と伊東さんはつぶやいた。寺に向かう道路脇の田んぼは除染作業で発生した土を入れた黒い土嚢で埋め尽くされていた。その田を国に提供した人物は誰あろう早川さんだったからだ。
「人生を懸けて原発に反対してきた人が、率先して汚染された土砂を引き受けざるを得ない。これが原発事故が突き付けた現実だったということです」。伊東さんは早川さんの思いを代弁した。
自動車は再び国道6号線に戻り、さらに北上し続けると福島第二原発入り口を過ぎて富岡町に入った。そこで見た光景は原発事故から2年が過ぎた現在、想像しがたいものだった。
富岡町小浜の交差点を右折するとJR常磐線富岡駅前に通じる道が延びている。道路の左側に位置する富岡第一中学校の前では除染作業が始まっていた(写真F)。
F富岡第一中学校前での除染作業(富岡町)
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放射線量を示すモニタリングポストの数値は毎時3.4マイクロシーベルトと高い値を示していた。それでもこの地区は、年間の推定放射線量が20ミリシーベルトを下回ることを理由に、最も早期に帰還が可能と見込まれる避難指示解除準備区域に線引きされていた。
■震災直後の街並みが今も
G津波で被害を受けた美容院(富岡町)
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富岡町は津波被害の大きさでも際立っていた。駅に向かう道の脇には津波に飲まれてひっくり返ったままの自動車が放置され、美容院の看板は大地震が起きた2時46分のままになっていた(写真G)。
富岡駅にも津波が押し寄せ、構内の鉄柱はひしゃげて無惨な姿をさらしていた(写真H)。
富岡町は福島第一原発に近いこともあり、汚染レベルは楢葉町よりはるかに高い。中でも、町北東部の夜ノ森地区は最も放射線量が高い「帰還困難区域」(年間積算線量50ミリシーベルト超)に区分され、許可無しでの立ち入りが禁止されている。
同区域に通じる道には至るところに「開閉式バリケード」)や「H鋼バリケード」が設置されており(写真I)、桜で名高い夜ノ森公園にたどりつくことはできなかった。
H富岡駅も津波で流された(富岡町)
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原発事故直後に着の身着のままで避難したことを物語るように、住宅の2階には洗濯物が干したままになっていた。
この時、伊東さんが持参したガイガーカウンターは警報音が鳴り続け、数値は毎時6.3マイクロシーベルトを示していた。放射線量が高いことを理由に、4月20日の「富岡町桜の集い」はバスの中からの鑑賞になった。
I道を塞ぐ開閉式バリケード(富岡町)
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政府は避難指示解除をすべきか否かを判断する時期を、帰還困難区域については2017年、居住制限区域(年間20ミリシーベルト超50ミリシーベルト未満)および避難指示解除準備区域について16年と見込んでいる。
だが、富岡町は除染やインフラ復旧に時間がかかることを理由に、「市内全域で5年間は帰ることができない」と遠藤勝也町長自ら宣言している。
推定の放射線量に基づき、避難指示解除を急ぐ国に対して、帰還は容易ではないと受け止める住民。そして小さな町が推定放射線量で分断される悲劇……。旧警戒区域の光景は原発事故の理不尽さを無言のうちに物語っている。
(撮影:梅谷 秀司)
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