59. 2013年6月04日 01:06:20
: esmsVHFkrM
なんだ、多摩散人がまた出てきてまじめな議論の邪魔をしているじゃないか。懲らしめてやるか。まじめな論争とは双方自ら信ずるところを主張しあった上でそれぞれの主張の当否を争うことだ。ところが、一方が自ら信じてもいないくせにある主張を行なうとすればそれは論争における主張の当否以前の問題だ。これは、論争者自身が信じていないような主張がまじめな論争において許されるのかという問題だ。論争依然にそのような主張を行う人間に人としての誠実さがあるのかという問題だ。 「安全なら飲んでみろ」とはまさにそれを問いただす言葉だ。「安全だ」と主張する人間たちの人としての誠実さを問う言葉だ。「そういうお前は当然自分の主張を信じているのだろうな」という問いだ。 自分で自分の主張を信じているのなら当然飲めるはずだ。「生活用水としても使えるレベル」の安全性だと主張しているのだろう。だったら飲めるはずだ。飲めないのなら信じてもいないくせに「生活用水としても使えるレベル」の安全性だと主張していることになる。自分は魚を取って生計を立てる漁民やその魚を食う一般国民とは隔絶していて自分の安全は確保できる権力がある官僚だから、それで「安全」でないから自分じゃ飲めないものを「安全」だと主張して恥じないと言うことか。 「原発が安全だなんて、原発の中に住んで言ってみろ」 「原発は必要だなんて、15万人の避難民の前で言ってみろ」 「安保は必要だなんて、米兵に強姦された高校生の母親の前で言ってみろ」 「原発の代替としてガス発電が必要だなんて、アルジェリアでガスを掘っていてゲリラに殺された人たちの遺族の前で言ってみろ」 「戦争するっていうなら、それを決めた総理大臣がまず兵士になって、最前線の戦場へ行け」 これらはみなそのような主張の誠実さを問う言葉だ。ある主張を行うものが本当に自らその主張を信じていることの証明を求める問いだ。問われてそれを拒否するならば、それは自ら信じてもいないことを平気で主張する無責任で不誠実な人間だと言うことだ。 だから、人間としての誠実さのかけらもない多摩散人は、これを「脅迫」だと主張する。なるほど、このような問いは、自ら信じてもいないことを平気で主張する自分のインチキさを白日の下に晒すもので多摩散人にとってはとんでもない脅威だろう。まさに「脅迫」だというのはそんな卑怯者にとっての「実感」なのだろう。痛いところを突かれているわけだ。 そもそもこの多摩散人という人間は、原発は必要だと主張しながらその事故収束に必要となる現場作業には自分は行かないと平気で言ってのけるような人間だ。 かつて、「多摩散人は、当然福島で事故収束のための現場作業に志願すると言う覚悟をもって原発賛成を唱えているのだろうな」と問われて、「私は、私が必要とされた時は原発作業員になってもよいとは思うが、志願、徴用の問題はもっとよく考える必要があると考えている。順序として、消防、自衛隊、警察などの順になりそうな気がする。それは志願、徴用というより「職務」ということだと思う」などとぬけぬけとうそぶいている(http://www.asyura2.com/12/genpatu22/msg/484.html#c80)。 なにが「もっとよく考える必要がある」だ。そんな「なりそうな気がする」で原発現場作業に行かされる「消防、自衛隊、警察」はいい面の皮だ。事故の後始末なんて他人事だと思っているから原発賛成なんて主張できるんだろう。 原発に賛成するような類の人間はみんなそうだ。自分では信じてもいないことを平気で主張する。その主張の後始末は他人事だ。「安全なら飲んでみろ」は「脅迫だ」し、事故収束のための現場作業は「志願、徴用の問題はもっとよく考える必要があると考えている。順序として、消防、自衛隊、警察などの順になりそうな気がする」だ。 というわけで、原発論争はまったく論争にもならない。原発賛成派は自分の主張を信じてもいないんだから議論は不毛だ。賛成派がその主張を自ら信じていることを証明して始めて双方がその「信ずるところ」を争う論争の土俵に登ることができるのに、拒否したりはぐらかしたりとぼけたり「脅迫だ」と非難したりで、そんな証明はまったく行われたことがない。 だから、「「安全なら飲んでみろ」と言われて、そこにいた東電の説明員だかスポークスマンだかが、その水をコップ一杯ゴクンと飲んだら、問題は解決するのか、そこにいる漁民全員が、「安全だと言うことはわかりました。東電の方針に賛成します」と言うのか。言わないだろう」というのは、多摩散人に言われるまでもなく、ただし多摩散人とはまったく違う理由で、当然のことだ。 「安全なら飲んでみろ」と言われて「そこにいた東電の説明員だかスポークスマンだかが、その水をコップ一杯ゴクンと飲んだら」初めてそいつらが言っていることが責任あるまじめな主張だと言うことが証明される。それが証明されて初めて双方信ずるところを主張しあってその是非を問う論争が意味を持つようになるんだ。排水が安全だと主張する人間は飲んで初めて土俵入りだ。飲めなきゃ論争の土俵に上がれないんだ。 だから、自分で信じているとの証明がなされない限り原発賛成派の主張はインチキだ。自分じゃ怖くて飲めないくせに主張する「「生活用水としても使えるレベル」の安全性だとの主張とか、自己収束作業への参加は「志願、徴用の問題はもっとよく考える必要があると考えている。順序として、消防、自衛隊、警察などの順になりそうな気がする」と自分じゃ行かないで主張する「原発は必要だ」というような主張のどこに道理がある。どこに正義があるんだ。みんな薄汚い無責任なペテンだ。 どうだ、これでよくわかったか、多摩散人。 少しは恥を知れ。 |