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2013年5月26日 東京新聞 こちら特報部 :大友涼介です。
かつて、反原発運動に携わっていた人たちに対して数々の嫌がらせが繰り広げられた。犯人は分かっていないが、弁護士や市民団体のメンバーが、中傷文書などの証拠品を集め、真相究明に向けた作業を続けている。安倍政権が原発再稼働に向けて旋回する中、「陰湿な嫌がらせが、再び横行しかねない」との危惧があるからだ。 (上田千秋記者)
◇真相究明へ証拠集め 〜 隠し撮り、1日150通の郵便
「昔はこんなものが、あちこちに送りつけられていたんですよ」。机の上に山積みになった手紙はハガキなどを前に、海渡雄一弁護士は声を落とした。海渡氏は、高速増殖炉もんじゅや浜岡原発など数多くの原発訴訟に関わってきた。
手紙やハガキ類は、反原発運動を誹謗中傷したり、事実無根の内容を記したりしているものだ。
「組織的犯行と考えられているのに、いまだに誰がやったのかまったくわかっていない。あらためて証拠品を集めることで、真相究明につながるきっかけを見つけられればと考えた」と話す。
嫌がらせは反原発運動が始まった当初から少なからずあったとみられる。顕在化したのは、一九八〇年代後半だ。一九九〇年代にかけて数が増え、だんだんと手口も悪質化していった。
事務所やメンバーの自宅に、活動を中傷するハガキ、手紙が届くのはまだマシな方。英会話の教材や金の延べ棒、ベッドなどの通信販売に代金着払いで勝手に申し込まれたこともある。中には一日百五十通もの郵便が届いたメンバーもいた。
卑劣なやり口も少なくなかった。自宅の様子やメンバーの姿を隠し撮りした写真や昆虫の死骸などが送られたり、メンバーの名前に加えて、子どもの名前と年齢を一緒に記した名簿が出回ったことまであった。海渡氏は「『リストアップして何でもわかってるんだぞ』という脅しの意味だったんだろう。非常に嫌な感じだった」と振り返る。
一九七五年に発足し、反原発運動の草分け的存在として知られる原子力資料情報室(東京)も多くの被害を受けた。
一九九二年三月に事務所で、男性メンバー一人が死亡する火災があった。その後、カンパを求める偽の文書が関係先に送られた。そこには、「損害賠償で一千万円必要」「場合によっては資料室の一時閉鎖も」などとありもしないことが書かれていた。
同室の設立者で、日本の反原発運動を引っ張ってきた高木仁三郎代表が二〇〇〇年に亡くなった際には、故人を冒涜するような文書が出回ったことすらあった。西尾漠共同代表は「事務所に届いた郵便物は一時、段ボール何箱分にもなった。いずれも許し難い行為だった」と憤る。
嫌がらせが運動に与えた影響は少なくない。西尾氏は「確信を持って活動していた人はともかく、こんなおかしなものが送られてきたら気軽な気持ちで参加していた人は嫌になっただろう。仮に本人は気にしなくても家族は堪らない。何も言わずに黙って運動から離れてしまった人も大勢いたのではないか」とみる。
◇陰湿化し再び横行を懸念 〜 安倍政権 再稼働へ旋回
郵便物の消印は全国各地にわたり、なかにはロンドンやドイツ・フランクフルトから送られたものもあった。大量の文書を何年にもわたって送り続けていたことなどから、資金力を持った一定規模の組織が背後にあったとの見方がある。
「運動を混乱させ、内部の対立を煽るような内容の文書が多かったので、原発を推進したと考える勢力が関わっていたと考えられる」(海渡氏)との推測もあった。だが、民間の立場では、それ以上調べる術はなく、犯人は最後までわからずじまい。
一九九五年七月、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てたが、日弁連も「人権侵害は明らかでも、勧告を出すべき相手がわからないので不処分とする」との見解を出して終わった。
一度だけ、嫌がらせに関与していると思われる男をあと一歩のところまで追い詰めたことがあった。
東京都千代田区の日比谷野外音楽堂で一九九三年四月に、チェルノブイリ事故から七年を機に開かれた集会。プロの写真家が使うような大きなカメラを、ステージではなく客席に向けている三十代ぐらいの不審な男がいた。
メンバーが男を問い詰め、フィルムを出させた。男は隙をみて逃げたが、現像してみると、参加者一人一人の顔がはっきりわかるような写真が写っていたという。
嫌がらせが頻発した一九九〇年前後は、反原発運動が盛り上がった時期だった。一九八六年四月のチェルノブイリ事故をきっかけに、関心を持つ人が一気に増加。一九九二年三月に青森県六ヶ所村で核燃料サイクル施設が操業を始め、一九九三年一月には、プルトニウムを積んだ輸送船「あかつき丸」が、使用済み核燃料の再処理を委託したフランスから日本に帰港。連日、激しい抗議行動が全国各地で行われていた。
西尾市は「反原発運動が、草の根にまで広がっては困るという意識が、嫌がらせをしていた側にはあったんだろう」とみる。
その後、運動は少しずつ下火になり、嫌がらせもほとんどなくなっていった。そんなときに起きたのが、二〇一一年の東京電力福島第一原発事故だった。多くの国民が原発に関心を持つようになり、脱原発のデモや集会が毎週のように開かれるようになった。
安倍政権は、民主党政権が掲げた「二〇三〇年代に原発ゼロ」の方針を転換し、原発再稼働に向けて強行しようとしている。原発推進勢力が息を吹き返そうとしている。
かつてのような露骨で組織的な嫌がらせはなくなったように見える。だが、経済産業省前の脱原発テントや福島県からの避難者に対する嫌がらせは、今でもある。ネットなどを通じた嫌がらせは、陰湿化する。
海渡氏は「原発を推進するためには、常識では考えられないようなことまでしないと実現できない、という思考があるのかもしれない。今の時代の雰囲気はチェルノブイリ事故の後と似ており、また同じことが起きないとも限らない」と話し、こう強調する。
「福島事故以降、一九九〇年前後とは比べようもないほど原発に反対する人が増えた。彼らに余計な不安感を与えないためにも、真相を解明しておく必要がある」
デスクメモ さまざまな市民運動の中でも、反原発運動に対する嫌がらせは、陰湿さを極めた。政官財学に一部マスコミも加担した強大な権力が相手だった。権力の側は運動の広がりを懸念し、恐れていた。運動する側の言い分に理があった。それが、卑怯な嫌がらせをするしかなかった本当の理由だと思う。(国デスク)
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