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2013年4月10日 東京新聞 こちら特報部 :大友涼介です。
東京電力が、福島原発事故で放射性物質に汚染された不動産の賠償をようやく始めた。事故を「事象」と言い張る同社の常識外れは枚挙にいとまがないが、これは被災者への損害賠償でも貫かれている。賠償とは元の生活を復元すること。それが無理なら、せめてそれに近い生活を補償すべきだが、実態はどちらが加害者か、錯覚しそうだ。福島県飯舘村長泥地区での例を追った。 (小坂井文彦、中山洋子)
◇5年は戻れない飯舘村長泥地区から
「東京電力の賠償責任は人を見ていない。原発事故で自宅に帰れない人たちが、避難先で問題なく生活できるように補償することこそ、本来の賠償補償ではないのか」
小林克彦弁護士は東京電力の姿勢をこう批判する。同弁護士は帰宅困難区域の福島県飯館村長泥地区の五十一世帯、百九十九人の原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)への集団申し立てを取りまとめている。しかし、住民たちと東京電力との間の賠償をめぐる隔たりは大きいと話す。
東京電力は先月二十九日、避難指示を受けた十一市町村の宅地、建物、借地権の賠償請求手続きを始めると発表した。対象は計五万件。事故から二年が経つが、東京電力広報部は「賠償対象の物件の三割程度しか正しく登記されていなかったので、請求者の特定に時間が掛かった」と説明する。
「手続きの遅れもさることながら、問題はその内容にある」。小林弁護士は長泥地区の区長、鴫原良友さん(62)の家屋のケースで説明した。
東京電力側は帰宅困難区域の家屋は全損扱いで、賠償額の算定評価は請求者が三つの方式から選べると主張している。
まず、固定資産税評価額に係数を掛ける「定型評価」方式。これで試算すると、延べ床面積約百二十八平方メートルの家屋は約五百七十万円だった。
次に「個別評価」方式がある。国土交通省が地域と建てた年によって当時、新築するのに単位面積当たりいくら掛かったかの基準額を示した「住宅着工統計」を基に床面積を掛けるもので、これでは鴫原さんの場合、約千三百万円になった。
三つ目が「現地評価」方式だ。これは原発事故前に売却したケースを想定した時価を指す。
だが、いずれも仮に移転せずに新築することを想定しても、実際の必要額には及ばない。小林弁護士は鴫原さんのケースで、東京都内のコンサルタント会社に書類上で見積もりを依頼した。結果は、同じ家屋を建てるには約三千五百万円掛かると試算された。
さらに土地の問題がこれに重なる。鴫原さんの宅地は約千九平方メートル。東京電力が示す固定資産税評価額に係数を掛ける評価では約二百五十四万円しかならなかった。
小林弁護士は「損害賠償とは生活の回復で、鴫原さんが避難中の福島市吉倉地区で、一戸建てを購入できる金額を出すべきだ。被災者たちに瑕疵はない。原発事故によって、強制的に移住させられたのだから」と語気を強める。
◇
長泥地区は山間部で、事故がなくても、その不動産価格は都市部と比べて安い。いま、少なくとも五年間は戻れない。にもかかわらず、東京電力が提示する賠償では移転費用が賄えない。結局、住民たちには今後、ADRで争うしか道がない。
小林弁護士は「そもそも東京電力は賠償の考え方を誤っている」と語る。「あたかも交通事故で自ら車を全損させたケースに見立てている。だが、放射能で無理矢理住めなくしたのだから、ダム建設や道路拡張などの立ち退き補償の考え方に沿って考えるべきだ」
家屋や宅地以外でも、鴫原さんたちは多くを失った。長泥地区の住民は井戸水で暮らしてきた。避難先の福島市で、家族五人の水道代は毎月約五千六百円。強制避難に伴う金額だ。この水道代を東京電力に請求したが、認められなかった。
自給していたコメや野菜もそうだ。東北地方の食事統計に基づき、村での生活から増加した食費六年分、約九十五万円を請求しているが、認められるかわからない。
農機具の賠償も納得がいかない。鴫原さんが所有する主な農機具は三十点で、購入には約千四百五十万円掛かっている。使用年数に合わせて賠償金額は査定されるが、農機具には車のような中古市場がなく金銭補償では買い直せないという。
鴫原さんは「『暮らせないから』とカネのない人から賠償額が安くても印鑑を押していく。それでも、最後はカネがなくなる。なんでそうなってしまうのか」と憤る。
長泥地区の隣の蕨平地区でもADRに集団申し立てをしている。線量はほぼ変わらないが、蕨平地区は居住制限区域のため、賠償額が低くなる可能性が高く、それが新たな火種になっている。
◇憤る元区長
長泥地区で石材加工業を営んできた元区長の杉下初男さん(63)は「地区の住民がバラバラになった。賠償でも、東京電力と直接交渉するか、ADRを通すかでぎくしゃくしている。住民同士が最近では賠償の話を避けるようになった」と嘆く。
杉下さんは震災があった三月十一日夜、福島第一原発で働く娘婿から「原発が危ない」という電話を受け取っていた。「六十人の社員を残して、作業員七〇〇人が避難したと言っていた。不安だったが、原発から三十キロも離れているので大丈夫だと思っていた」
杉下さん夫婦と母(83)、次男(33)の四人暮らしだった自宅に、翌日には南相馬市から長男や三女らの一家が避難。園児から中学生の孫五人を含めて二十人が寝起きした。「大量の放射能が降り注いでいる土地と知らずに何日も生活していた」
その後、いったん千葉県成田市の取引先を頼って避難したが、三月二十七日には帰村した。テレビで安全になったという報道を聞いたからだ。
だが、長泥地区の放射線量は文部科学省の測定で「毎時三〇マイクロシーベルトだの四〇だの。あまりの高さに驚いた」。避難指示が出ないまま五月末まで、汚染がひどい地区に止まらざるを得なかった。
原子力規制委員会の田中俊一委員長も当時、自主的に長泥地区入り。除染実験を行った。「田中さんは井戸水を一つ測って『飲んでも影響ない』と言った。一つの井戸の結果で、地域全部の安全を保証できるのかと尋ねたが、相手にされなかった」と振り返る。
先の見通しのないままの避難生活で、村民の疲労も色濃い。「若い者はもう戻らないだろう。地域から引き離された高齢者は心身ともに弱っている。二年経ってもまったく何も進んでいない」
※デスクメモ 「二年の辛抱」と役場から聞いて、仮設住宅で耐えていた。ある日、それが五年になった。「被曝しても村に残っていた方がましだった」。福島でお年寄りが話した。生活の張りを失って、認知症がぐんと進んだ友人もいると続けた。アベノミクスに踊る日本の裏面。いや、こちらが本当の姿である。(牧デスク)
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