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福島県飯舘村。2年前の3月15日、福島原発事故で大量に放出された放射性物質が、折からの雨と雪でこの村に降り注いだ。同村南端の長泥地区は、居住が5年以上は制限される帰還困難区域に指定された。京都大原子炉実験所の今中哲二助教らの「飯舘村放射能エコロジー研究会」は今月中旬、長泥(ながどろ)地区など同村各所を測定調査した。同行取材した。(文・田原牧)
◆手に余る汚染土「意味あるのか」
「花の里 長泥へ」
帰還困難区域の指定とともに設けられた鉄のゲートを潜ると、すぐに碑があった。つづら折りの坂の脇にサクラが広がる。芽が膨らんでいた。
長泥地区には事故前、76世帯、276人が暮らしていた。いまは日中、住民らは入れるが、宿泊はできない。
地区内の国道399号の中央は車の通行や雨のため、放射線量は毎時4マイクロシーベルトほど。だが道の脇では、9マイクロシーベルトを超えた。病院などの放射線管理区域は毎時に換算して、0.6マイクロシーベルト超で設けられる。
事故前に塗装したのだろうか、住宅の白い壁が陽光に映える。タラの芽がそこかしこに顔を出している。ただ、採る人はいない。静かすぎる。
農林水産省が除染実験した田があった。表土を15センチ削った。結果は毎時1.6マイクロシーベルト。近くに表土を詰めた化学繊維製の黒いフレコンバッグ(フレキシブル・コンテナ)が野積みされている。
「昨年はこの田で5マイクロシーベルトくらいあった。確かに減ったが、この程度。削った土は始末に負えない。この除染に一体どんな意味があるのか」。今中助教が苦笑いした。
長泥地区の平均線量は毎時7マイクロシーベルト台。前日、東京で0.03マイクロシーベルト、JR福島駅前で0.4マイクロシーベルトになり、飯舘村に入ると、たちまち2〜3マイクロシーベルトに上がった。緊張した。
長泥の畑で測定器は8マイクロシーベルトを示した。だが、その数値に驚かない自分に気づいた。日差しは柔らかで、何もなかったような風景。1日で慣れたのだ。感覚の変化に放射能汚染の怖さを感じた。
◆半減期分しか減ってない 放射性物質「山から戻る」
居住制限区域の小宮地区には一般ゴミの最終処分場がある。敷地は除染ゴミのフレコンバッグで埋め尽くされていた。
間近には昨秋、国が施工した仮置き場ができていた。飯舘村は森林面積が75%で、半分が国有林だ。その一角を造成し、舗装した搬入路を敷き、その先にフレコンバッグの山が築かれている。
大規模な工事だが、仮の置き場にすぎず、いずれ中間貯蔵施設に移さねばならない。穴を掘り、埋めることを繰り返す拷問が脳裏に浮かぶ。
傍らで福島市に避難中の農業菅野哲さんが「いくら除染しても、山から放射性物質が下りてきて戻ってしまう。どうにもならない」と話した。
原発は「トイレのないマンション」に例えられる。除染もゴミや効果を思えば、同じなのだ。
国と二人三脚の村役場は「年間被ばく線量5ミリシーベルト以下を目指す除染と早期帰還」を掲げ続けている。確かに事故直後には、高齢者を中心に帰還を望む声が強かった。
「けれど、その声も変わってきた」と、同県伊達市に避難した住民、渡辺計さんは指摘した。
「ここでは車抜きに暮らせない。お年寄りもそのうち、運転できなくなる。そうなってから、移転した子どもに面倒を見てとは言いにくい。そう考える人が増えている」
渡辺さんらの調査では「帰還しない」 「年間1ミリシーベルト以下が条件」という住民は7割を超えた。
移転した飲食店の張り紙には「いつ帰村できるかわかりません」と、理由が記されていた。住民の一人は「外観は同じでも家屋の中はひどくカビ臭い」と嘆いた。民家の庭先にはニホンザルが群れ、田畑のあちこちにはイノシシの掘った穴があった。その田畑も枯れススキで覆われていた。
今中助教は「線量はほぼ予想通り」と語った。
「セシウム134の半減期は2年。その分だけ下がっており、除染に効果がないのは明らか。ただ、セシウム137の半減期は30年。あと少しは下がるが、その後は高い値で推移するだろう」
村の住民の3分の1は敗戦直後、引き揚げてきた開拓民だ。老人の一人は「食うや食わずの半世紀が、事故で一瞬のうちに消えた」と言った。
夜空には無数の星がまばたいていた。視線を下すと、人のいない村は深い闇に沈んでいた。
[飯舘村]
福島第一原発の北西にあり、原発から最も近い地点の距離は約28キロ。平均標高450メートルの高原で「日本で最も美しい村」連合に加盟。事故前には1700世帯、6200人が居住した。一昨年4月に計画的避難区域に指定され、一部企業と特別養護老人ホームを除く全村民が村外に避難。昨年7月、避難指示解除準備(年間放射線量20ミリシーベルト以下)、居住制限(同20ミリシーベルト超〜50ミリシーベルト以下)、帰還困難(同50ミリシーベルト超)の3区域に編成された。
[デスクメモ]
福島には「までい」という方言がある。古語の「真手」が語源で「丁寧」とか「心を込めて」という意味。両手で包み込むような。そんなニュアンスらしい。「までいライフ」。飯舘村が掲げる村の理念だという。生活、家族、自然との関係を「までい」に対応する。村の今後を「までい」に考えたい。(栗)
2013年3月22日 東京新聞 朝刊 [こちら特報部]
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013032202000177.html
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