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(回答先: 山本太郎の震災瓦礫焼却批判 東大・中川准教授が論拠を一蹴 (SAPIO) 投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 3 月 11 日 09:18:00)
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「東大話法」に関する省察
2013.01.03 Thursday
昨年 読んだ書籍の中で、個人的にとりわけ印象に残った作品のひとつが、安冨 歩氏による『原発危機と「東大話法」――傍観者の論理・欺瞞の言語』というものだ。
この作品は巷でも話題になったようなので、御存知の方も数多くおられると思う。
東日本大震災の発生後、日本の言語空間が非常に歪なものに変質したことを鋭敏に察知して、それをひとつの作品にまとめた安冨氏の業績は非常に大きい。
当然のことながら、作品中には賛同できるところと賛同できないところの両方があるのだが、そのようなことをさしおいても、安冨氏が、同時代に開かれた探求者として、あのような果敢な問題提起したことは、高く評価されるべきことである。
著書は、同時代の混沌に触発されて、次々と脳裏に去来する思念をいそいで書き留めたものであり、それゆえにところどころ荒削りな論理展開があるようにも思う(たとえば、個人的には、「東大話法」を日本独自の立場の論理として説明する その診断には、完全に首肯できないところがある)。
しかし、そのようなことを忘れされてくれるほどに、安冨氏の表現は同時代にたいするタイムリーに責任を果たしていこうとする健全な姿勢に裏付けられている。
そのようなこともあり、
個人的にはいろいろと啓発されるところもあり、可能であれば、時間を見つけて、ひとつ文章をまとめておきたいと思っているのだが、とりあえず、ここでは、過去数日のあいだに、書き付けておいた文章を整理しておきたい。
*
「言語護身術」の薦め
『原発危機と「東大話法」――傍観者の論理・欺瞞の言語』の著者である安冨 歩氏が、Twitter上で、この著作にたいする否定的な批評に触れていた。
正直なところ、この否定的な批評は、果たして安冨氏の著作を良く読んだうえで書かれたものなのかも怪しい代物なので、あまり気にすることはないと思う。
ただ、ひとりの表現者として、たとえそれがいかに無思慮なものであれ、自身のことばにたいしてどのような反応が生まれているのかを気にする気持ちは良く分かる。
いずれにしても、「東大話法」に関する安冨氏の著書は、「忘れられない」という意味では、2012年に読んだ中でも有数のものだった。
何よりも着眼点がいい。共同体というものが、歪な言葉の使い方が蔓延すると、途端に病理化することを指摘する視点は非常に重要なものだと思う。
ただ、東大話法が日本社会にこれほどまでに蔓延していることを考慮すると、単にそれを分析だけでなく、その洞察を実際の現場で活用することのできる「言語護身術」のレベルにまで練り上げる必要があるだろう。
東大話法が用いられている正にその瞬間において、それに効果的に対応(防御・反撃)できないと、たとえどれほど的確にその様相を分析できても、あまり意味はないと思うのである。
しかも、実際の対話はそれなりの速度で進んでいくわけで、話者の歪な論理に俊敏に対応できなければならない。
そのためには、正に護身術的な発想にもとづいた技術体系の構築が求められることになる。
われわれが苦労するのは、東大話法が用いられるとき、そのことを認識できないことではないと思う(もちろん、それを認識することは、必ずしも簡単なことではないと思うが……)。
むしろ、それよりも難しいのは、そうした話法を効果的に制圧・封殺するための術を体得することなのである。
どれほどたくさんの参考書を読んで武術について勉強をしても、実際に襲撃されたときに自身の体を効果的に動かすことができなければ、その知識はまったく意味をなさないが、それと同じことが、安冨氏の東大話法分析にも言えるのである。
そのようなわけで、個人的には、安冨氏には、今後はこうしたノウハウの開発を御願いしたいと思う。
また、そのようにして、安冨氏の洞察の有用性を証明できれば、「東大話法」という概念に抵抗を覚えている人々も、その価値を認めざるをえなくなるだろう。
実際のところ、生活や仕事の現場では、無数の人々が、そうとは気づかずに、東大話法的な論理に随分と悩まされているものである。
この貴重な概念を、真に効果的な言語護身術として体系化できれば――そして、それが日々の生活や仕事の現場において有効なものであることが実証されれば――そのあとは、それがいい意味でひとり歩きしてくれることだろう。
*
安冨 歩氏は、インテグラル理論でいうところの「相対主義的段階」の認知体系に立脚して議論を展開しているひとだと思う。
この段階においては、いわゆる「地図と領域」――言葉と現実――が異なるものであることにたいする問題意識を強烈に覚えるようになるといわれるが、そうした問題意識とは、本質的には、言葉というものが、半ば不可避的に世界を「歪曲」してしまう可能性を秘めたものであることを認識する鋭敏な洞察力に裏付けられている。
たしかに、われわれは、体験に言葉をあたえることをとおして、はじめてそれを真に把握することができるようになるわけだが、同時に、そのときにわれわれが利用することになる言語体系は、そうした把握の作業をどくじのかたちで「歪曲」することになる。
いうまでもなく、われわれが世界を把握するときに利用することになる言語体系は、自由に選択できるものではなく、生まれてきた時代や社会により強制的にあたえられることになる。
端的な話、われわれにとり、日本語を母国語とする環境に生まれて、その文脈の中で人格形成をすることは、宿命によりあたえられた「所与の条件」である。
異なる言語空間で人格形成をするという選択肢は、少なくとも自己の人生に関して主体的な選択をできるようになる年齢までは、想像をすることすらできなかったのである。
相対主義段階においては、こうしたことを認識したうえで、日常あたりまえのものとしてとらえているこの「自己」というものが、実は時代や社会をはじめとする文脈の影響下で形成された「構築物」であることを自覚する段階であるといえる。
世界という現実は、常にこうした時代的・社会的な制約条件の影響下で形成された「自己」という認識の膜をとおして認識・解釈されることになる。
それゆえに、われわれは、自己を呪縛する諸々の世界観に影響されながら世界を体験することになるのであり、また、それゆえに世界をありのままに経験することはできない限界に囚われていると発想されるのである。
必然的に、相対主義段階の問題意識は、みずからを呪縛する諸々の条件から、自己をどう解放することができるのかという動機にもとづくkとになる。
とりわけ、言葉(言語体系)というものが自己の認識を強烈に規定するものである以上、それを客観的に分析して、それが自己の精神活動をどのように呪縛しているのかということを解明しようとする意志は、相対主義段階においては、非常に鮮明になる。
また、それは、そうした時代的・社会的な呪縛から自由になることをとおして、そうしたものに歪曲・隠蔽されてきた「真の自己」を探求・実現しようとする自己実現志向として顕在化することにもなる(発達心理学者のSusanne Cook-Greuterは、それゆえに、この段階に「相対主義段階・Relativist Stage」と「個人主義段階・Individualist Stage」という両方の名称をあたえている)。
諸々の著書を通じて、安冨氏が企図しているのは、同時代に生きる人々の精神生活を呪縛する病的な言語体系である「東大話法」を暴くことをとおして、人々の精神生活を少しでも健全なものに再生しようということなのだろう。
敢えてと言えば、それは東大話法という暴力にたいする言語的な護身術が必要であるという問題提起といえるだろう。
実際に護身術を練習すると判るのだが、それを習得することの非常に重要な効能は、普段の生活の中で潜在的な危険が存在していそうな状況を察知できるようになるということである。
護身術の練習では、様々な状況を想定して(例:襲撃者の人数や武器の種類、及び、襲撃の状況や環境)、それに対応するための方法を反復練習するのですが、そうした反復練習をしておくことで、潜在的な危険や脅威にたいする感性をとぎすませておくことができるようになる。
つまり、世界と向き合うときに、漫然と観察するのではなく、自身に危険や脅威をもたらすことになりかねない いくつかのパタンを想定して、世界を眺めることができるようになるのである。
「こういう状況になると、こういう危険が生じることになるので、そのときには、こういう回避運動が必要となる、また、回避ができずに衝突することになれば、こういう防御運動が必要となる」ということを具体的な事例研究と反復練習をとおして訓え込まれるので、実際にそうした状況が生まれたときに、そのことを認知して、そこに生まれる諸問題に的確に対峙することができるようになるのだ。
暴力的な行為による被害というのは、往々にして、今この瞬間に何が起きているのかを理解できず、こちらが呆然としているときに被るものだが、暴力的な衝突が生まれそうな状況をいちはやく察知して、それにたいして必要な準備を整えることで、そのように呆然とした状態に陥るのを回避することができる。
東大話法というのは、本質的には、言語的な暴力と形容されるべきものだと思う。
それは、相手の思考を混乱・麻痺させることで、相手の自律的な精神活動を阻害しようとする攻撃的な意図にもとづいた思考体系であり、また、攻撃方法であるといえる。
その意味では、東大話法に対処するためには、そうした攻撃に対処するための確固とした術理が必要となるのである。
そして、正にそれゆえに、安冨氏の研究を実践的な言語護身術に発展させることが必要となるのである。
*
いずれにしても、われわれの世界には巧妙な言語的暴力が満ち溢れている。
東大話法はその代表的なものだが、今日の思想空間を見渡すと、本質的には、意味を構築しようとする人間の本質的な志向性を麻痺させようとする(思想家のケン・ウィルバーが言うところの)「フラットランド」的な破壊衝動に支配されてしまっているように思えるのだ。
そして、そうした破壊的な言説に日常的に曝されて、意味というものを志向する自己の本来的な性向そのものが麻痺させられていることを当然の状態として暮らすのがあたりまえになっているように思う。
「高み」や「深み」ということばに代表される垂直的な価値を志向して生きることは――換言すれば、それは畏怖の念に支えられて精神生活を送るということである――人間の本来的な姿であるはずだが、そうした本質的な領域が侵害されているのである。そして、それが問題として認識されないほどに、感覚が混乱させられているのである。
東大話法の最高の遣い手のひとりである斑目氏 (元・原子力安全委員会委員長)は、「お金ですよ。最後はお金です。ダメといわれたら二倍にすればよい。それでもダメなら、結局はお金ですから、五倍にして、否という人はひとりもいません」(p. 58 西尾 幹二『平和主義でない「脱原発」――現代リスク文明論』文藝春秋社)という発言をしたが、正にあらゆる「綺麗言」を排して、全てを金銭の力で強引に解決しようとするその発想は、あらゆる問題を数値の問題に還元して――金はその端的なものである――さばこうとするフラットランドの思想を最も先鋭に体現したものと言えるだろう。
日本の問題とは、そのような思想の人物が長きにわたり国家の命運を握る委員会を治めていたということである。
健全であるとはどのような状態であるのかを忘却してしまうと、深刻な病に陥っても、そのことに気づけなくなるものだ。
もしわれわれの社会そのものが、こうしたフラットランド的な発想に深く支配されているとすれば、東大話法という言語体系は、そうした価値空間の中で涵養される頽廃的な精神性を正当化し、そして、補強・増幅する装置として働くものなのだろう。
あらためて指摘するまでもなく、高度の情報処理能力を有することは、必ずしも知性の優れていることの証ではない。
そればかりか、たとえば日本の受験勉強という文脈において観察されるように、人格形成期において、畏怖の念にもとづく本来的な探求心が涵養されることなく、記号化された情報の処理作業に没頭させられるときには、それは往々にして何等かの障害を内包した歪な能力として結実することになるのではないかとさえ思う。
たとえば、東大話法というのは、そうした空虚化した情報処理能力の獲得を誰よりも上手に達成した人間が、その鈍感さと要領のよさの証として体得する技法ということができるのかもしれない。
原発震災をとおして露見した原子力村の御用学者たちの見事なまでの悪辣さというのは――そして、そうした悪辣さにたいして些かの自覚も持てない心理というのは――東大話法の習得を柱として人生を生きてきたその人格と不可分のものなのだと思う。
もしかしたら、人間は、幼少期に畏怖の念を涵養する機会を奪われると、記号の膜をとおして世界を無機的なものとしてしか経験できなくなるのかもしれない。
そして、そのようにして根源的な喜びを奪われた人間は、そのようにしか世界を経験できない人間として育てられたことの怨念を世界と同胞にたいする攻撃心として表現しようとするようになるのかもしれない。
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