02. 2013年3月11日 15:54:48
: kPOeurwFuo
故郷を追われた人たちの「帰りたい」という思い
仮設住宅での暮らしを体験して感じたこと 2013年3月11日(月) 菊池 由希子 2012年5月から福島第一原発から20.5キロ地点で生活していた私だったが、半年間の滞在を終えて11月に関西へ引っ越すことになった。それから2カ月経った1月末、久々に南相馬を訪問した。 3.11以降、自宅が警戒区域に指定され、県外での避難生活を強いられていた南相馬のご夫婦がいる。知り合ってからずっと交流を続けていたが、ご主人が地元の建設関係の会社での仕事が決まったため、避難先から南相馬に戻ってきた。ご夫婦は市内の仮設住宅で暮らし始めたというので、今回はそこに泊めてもらうことになった。 旧警戒区域で草刈りをする人たち 南相馬に着くと早速、旧警戒区域にあるご自宅まで案内してもらった。大津波が家に達することもなかったし、大地震で家が壊れることもなかった。電気も水道も復旧しているので、生活しようと思えばできなくもない。
しかし、近くにある旧警戒区域の境界には、常時警察がいる。空間放射線量は毎時0.1〜0.3マイクロシーベルト程度である。旧警戒区域の自宅には昼間は自由に出入りすることができるが、今もなお、宿泊することができない。原発から60キロ離れていて。避難区域に指定されていない福島市よりもかなり低い空間放射線量であるにもかかわらず、まだ住民に帰還の許可が下りないのだ。 大きな一軒家で暮らしていた住民が狭い仮設住宅で暮らすのはなかなか大変だが、そこへお客さんを泊めるとなるとさらに気を遣うだろう。旦那さんは奥さんから私が泊まると聞いて、「それなら俺は(旧警戒区域の)家で寝ようかな」と冗談を言っていたそうだ。 仮設住宅に泊めてもらった 2人用の仮設住宅には四畳半の部屋が2つあり、台所と風呂場、トイレがある。木でできているので、コテージのような雰囲気でもあり、短期間の滞在なら楽しそうでもある。しかし、両隣の物音や声が聞こえるので、長期的な生活には向かない。奥さんと私が同じ部屋で一緒に寝て、旦那さんは申し訳なかったが、リビングに寝てもらった。 ちょうど3.11の大震災の時、私はグルジアにあるチェチェン人の難民キャンプに滞在していた。その直前にはイラクのクルド難民キャンプにお邪魔し、震災直後もトルコにあるコーカサス系難民の暮らしていた難民キャンプに寝泊まりした。グルジアの難民キャンプは病院だった2階建てのボロボロの建物だったが、トルコのものは小さな一戸建てがたくさん並んだものだった。 トルコにある北コーカサス系難民が多く暮らしていた難民キャンプ。兵庫県が提供した仮設住宅 「これは日本が建てた家なんだよ!」
と、仮設住宅に住んでいた難民たちはみんな満足げに私に教えに来る。そのトルコの難民キャンプは、1999年のトルコ北西部地震の際に、兵庫県が無償提供した仮設住宅で、阪神淡路大震災の時に使われていたものだった。 当初は地震による被災者が暮らしていたが、彼らがアパートを与えられて出て行った後、ロシアなどからやってきた難民たちが暮らすようになった。雨が降ると、小雨でも大雨のように大きな音がして、とてもうるさく感じられたが、お湯も出たし、洗面所やキッチンもあり、夫婦や家族が暮らすにはちょうどいいくらいだった。 グルジアの首都トビリシにあるアブハジアからのグルジア人難民の暮らすアパート 阪神大震災の時、私は被災地から遠い青森の小学生だったこともあり、学校で被災者のための募金活動をしたことくらいしか記憶に残っていない。多くの日本人が東日本大震災を忘れてしまいつつあるという声も聞こえる。地理的に遠く離れているだけでなく、特に親戚や友達がいるわけでもない場所で起こった悲劇は、いつまでも多くの人の心に強くとどまるわけではないのは仕方がない。
トルコの難民キャンプを訪問するまで、私は「仮設住宅」についてその存在すら知らなかった。また、トルコの仮設住宅に泊めてもらった時は、後に仮設住宅が東北でこんなに身近な存在になるなんて思ってもいなかった。 ゴキブリやネズミだらけの難民キャンプも 私はモスクワ国立大学の学生の頃から、よく各国に離散しているチェチェン難民を訪問した。難民キャンプといえば粗末な小屋やテントをイメージするが、欧州ではホテルやペンションを利用しているところがほとんどだ。 中でも驚かされたのはフランスだった。パリやパリ近郊に暮らす難民たちがホテルで暮らしている。ホテルにも当たり外れがあり、とてもきれいなホテルもあれば、駆除できないほどのゴキブリやネズミが出るホテルもある。 オーストリアでもいろいろな街の難民を訪問したが、オーストリアが提供している難民のためのペンションは、パリのホテルとは違って清潔感にあふれていた。チェチェン人は概して清潔な民族なので、汚いところで生活するのはとても苦痛に違いなかった。 「私たちは家がないと思われているの。戦争でいつ殺されるか分からないから難民になってフランスにやって来たのに。戦争がなければ私たちだって自分の家に帰るのに」 と、フランスに来てからゴキブリだらけのホテルを転々とさせられる難民のチェチェン人女性は言った。 「帰りたい。チェチェンに帰りたい」 チェチェンに住んでいた頃には、早く欧州に行きたいと避難を切望していた彼女だったのに、先の見えない難民生活に疲れ切っていた。自分の家があるのに、戦争のせいで戻れない。避難先でも新しい生活がうまくいかない。原発事故で避難せざるを得なかった人たちの状況に似ている。 パリでは、その前にポーランドの難民キャンプで知り合ったチェチェン人らと再会した。彼らは私をよくホテルに招いては、懐かしいチェチェン料理をごちそうしてくれ、大量に余っている牛乳やマカロニ、缶詰などの支援物資を分けてくれた。 支援物資はパリ市内のペール・ラシェーズ墓地のそばで毎日配られていた。やって来るのは難民だけではない。生粋のフランス人だってやって来る。私も何度か行ったことがあったが、炊き出しが行われたり、物資を配り終えた後に難民同士の集まりが開かれたりする。 日本の被災地の仮設住宅では、場所にもよるが、今でもボランティアによって支援物資が届けられている。しかし、食器などはすでに需要を満たし、また、輸入食品のような地元の人があまり食べないようなものは余ってしまう。そのため、被災者の方々が、私のようによそからやって来た人に余った支援物資を分けてくれることもしばしばある。 グルジアにあるチェチェン人難民キャンプ 「私たちはこういう缶詰は食べないのに」
フランスで大量に配られる支援物資の缶詰は、無農薬の新鮮な食べ物に慣れてきた難民の体には合わないようで、体調を崩す人も多かった。私ももらった缶詰を毎日食べていたのだが、だんだんと食べるのが苦痛になり、そのうち缶詰を見るのも嫌になってしまった。 「ただでもらえるんだからいいでしょう? という考えなのよ。私たちはこういう缶詰は食べないのに」 自尊心を傷つけられた難民が言う。ペール・ラシェーズでは、大人じゃなければパンがもらえなかったため、チェチェン人の子供たちはもらった缶詰を別の民族の大人たちに頼んで、パンと交換してもらっていた。 イラク、クルド自治州にあるイランからのクルド難民が暮らす難民キャンプ 私はチェチェン難民を支援した結果、6年間暮らしたロシアに入国禁止になってしまった。その後はロシアに戻れる日を夢見ながらパリで生活した。
戦争や強制送還によるショックやトラウマ(心的外傷)が治ってくるに従って、周りの人に頼りきりで、ロシアにいた頃のように、活発に行動することができない自分が惨めに思えてきた。悩んだ末、パリを後にし、日本に帰国して再出発することに決めた。 関西にも福島からの避難者は多い。既に移住を決めた人もいれば、福島への帰還を考えている人もいる。同じ日本国内なので、海外の難民のように外国に行って言葉が分からないとか、働く権利がないとかいうわけではない。 しかし、たとえ就職できたとしても、福島で暮らしていた家のローンの残りを払い続け、家族を支えていくためには、給料の条件が厳しいという問題もある。父親だけが福島に残り、母子が避難生活を続けるなど、経済的にも精神的にも避難生活は家庭にとって大きな打撃である。 「原発事故の一番の悲劇は家族がバラバラになってしまったことだ」 とか、 「原発事故は家庭を壊す」 と、南相馬で言われたことが何度かあった。離れ離れの生活をしている人たちに向かって、それなら家族一緒にとどまるか、みんなで一緒に避難すればいいじゃないか、と簡単には言えない。地域に対して社会的責任を担っている職業の人や、家計を支えなければならない立場の人たち、若い自分たちの将来や、子供たちの将来を考えなければならない立場の人々の苦悩は大きく、複雑である。 会津若松市内の仮設住宅。真冬でも雪がほとんど降らない浜通りの人たちにとっては、避難先の豪雪に慣れるのが大変 震災前まで孫と暮らしていたお年寄りは、孫と一緒にいられない寂しさだけではなく、気軽に遊びにおいでと誘えなくなったり、自分で作った野菜や果物を食べさせてあげられなくなったりなど、生きがいを奪われてしまったと言う。
泊まった仮設住宅の横にある畑。住人が震災前まで営んでいた農業に励むことで心身のケアをする目的で設けられた 半年間の生活で多くのことに気づいた
実際に福島原発から20キロ地点に半年間生活してみて、多くのことに気づいた。私は17歳でチェルノブイリに行くくらいなので、放射能を必要以上に気にするほうではないのだが、むやみに体内に取り込まないように気をつけてはいる。 南相馬で生活を始めた当初は水道水を飲まないようにしていたので、飲料水は購入し、自転車のカゴに積めるだけ積んで家まで運んでいた。しかし、夏になると使用量も増えてコストもかかり、炎天下の中を重い水を頻繁に運ぶことを苦痛に感じるようになった。そのため、次第に水道水を飲むようになっていった。 2012年9月に、東京の知人から飲料水を1.5トン提供してもらったので、南相馬市と相馬市で住民に配ったことがあった。市役所の発表でも、水道水は常に放射能不検出という結果にもかかわらず、この時、多くの人が水をもらいにきた。水道水への不安は大きく、飲料水や生活用水を購入している住民が非常に多いことに気づかされた。ダムが山際の放射線量の高い飯舘村に近い地域にあるのだ。 放射線量は私の家の外でも毎時0.09〜0.22マイクロシーベルトほどだったので、放射線量自体はあまり心配ではなかった。しかし、実際に暮らしてみると、余震がとても多く、1日に数回強く揺れることは日常茶飯事だった。 地震や台風の時には途端に強い不安に襲われた。原発から20キロ地点では、再び原発に「もしも」のことがあれば、逃げ遅れてしまうに違いないのだから。とにかく、原発が爆発したり崩壊したりしませんようにと、ひたすら祈ることしかできない。こういった不安な気持ちは長く生活する中で分かったことだった。 関西に引っ越す際には名残惜しさもあったが、安堵感もあった。余震におびえることも、放射能を気にすることもないので、震災や原発事故のことを忘れそうになる。それでも、新しく知り合う人々は私が東北出身だと知ると、真っ先に「震災の時、ご実家は大丈夫でしたか?」と気遣ってくれる。街中でも、「頑張ろう、東北」などと書いたステッカーを貼っている車を見かけることもある。遠くにいる他人を思いやってくれる人たちは確実にいる。 南相馬市の旧警戒区域以外の津波被災地域の復旧作業はかなり早く進んでいる 「人が住めなくなる土地」が日本にも生まれてしまった
避難した人も、とどまっている人も、帰還した人も、誰もが安心できる暮らしを求めている。原発事故から2年がたつが、いまだに先の見えない不安を抱えた生活が続いている。13年前、初めてチェルノブイリを訪問した時、放射能汚染によって人が住めなくなる土地をこれ以上増やしてはならないと思った。私が青森で反原発運動にかかわるようになったのはその時の思いからだった。あれから10年、日本でも原発事故による被災地が生まれてしまった。 「チェルノブイリの事故の時、どうして現地の人たちは強制移住区域に住み続けるんだろうと思ったけれど、実際にここで事故が起きたら、離れたくない気持ちが分かるようになった」 と、南相馬にとどまっている人から聞いた。 震災当時、私が落胆していると、日本には危ないから帰らないよう勧めたチェチェン難民が、 「日本人はヒロシマやナガサキの経験があるのに、どうして核の脅威が分からなかったんだ」 と言った。私たちは過去の経験から何を学んだのだろう。そして今も、世界の至るところで、故郷を追われた人たちがいる。私たちはそれを、ただのニュースとして、もしくは過ぎ去ってしまった歴史の1ページとしてしか、考えていなかったのだろうか。 今度、10年ぶりにチェルノブイリを訪問する。どうしたら原発事故の被災者が安心して暮らしていけるのか。次はウクライナから考えていきたい。 (このコラムは今回で終了します) ■変更履歴 本文中で「ミリシーベルト」は「マイクロシーベルト」の誤りです。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2013/3/11 14:32] 菊池 由希子(きくち・ゆきこ) ロシア語通訳、NGO「ダール・アズィーザ」事務局長。1983年青森県弘前市生まれ。2000年チェルノブイリ渡航。2002年〜08年、モスクワ国立大学留学。卒業資格「国際関係専門家」。2008〜10年パリ在住。10年9月より大阪大学大学院国際政策研究科博士後期課程在学。2011年10月、キルギス大統領選挙OSCE/ODIHR国際選挙監視団要員として日本政府より派遣される。ツイッターのアカウントはhttps://twitter.com/azizaroom 南相馬から世界を考える
東京から福島県南相馬市に移り住んだ著者が見る、原発事故後の南相馬の今と、南相馬から見た世界の今。ロシアで学び、チェチェンほかコーカサスの国々に詳しい著者ならではの視点で、「南相馬」を相対化しながら考えるコラム。
消えた震災がれきの謎
2013年3月11日(月) 石渡 正佳 東日本大震災の発生から2年がたった。 筆者は震災直後から6度にわたって東北地方のがれき処理の状況や復興の状況を現地調査し、復興がなかなか進まない現状を見てきた。国や自治体がこれまで明らかにしていた震災がれきの処理状況もはかばかしくない。 まだ現場の混乱が続いていると思いきや、今年2月22日に環境省が発表した震災がれきの処理進捗率は、岩手県38.8%、宮城県51.1%、福島県30.9%、東北3県合計46.3%で、数字の上では急進展している。宮城県はわずか2カ月程度で20ポイントも進んだことになる。 何か数字のマジックがあるのではないかと思い、2月末に再び東北を訪問した。 被災地を回ってみてまず驚いたのは、震災がれきの処理が目に見えて進展していたことだ。岩手県と宮城県の現地を見るかぎり、どの被災地でも震災がれきの撤去はほぼ完了していた。一次仮置き場に十数メートルの高さに積み上げられていた震災がれきもすっかり消えていた。 環境省発表の数字の上では、未処理の震災がれきがまだ半分残っているはずなのだが、一次仮置き場の震災がれきはどこに行っても見当たらず、二次仮置き場(仮設処理施設)で見られる震災がれきの山も小さかった。震災がれきを満載して走るダンプトラックの数も減ったように感じた。現地では環境省発表の数字以上に処理が進展しているという印象を受けた。 震災直後の陸前高田駅周辺(2011年5月)
がれきは片付いたがまだ復興は始まらない陸前高田市(今年2月) 震災がれきは、どこに行ってしまったのか。それを考える前に、これまでのがれき処理の状況を振り返ってみよう。 進んでいなかったはずのがれき処理 震災発生直後、阪神淡路大震災を超える莫大な量の震災がれきの発生に、国も地方自治体も途方に暮れた。その量は東北地方の中核都市の通常年の一般廃棄物発生量の30年分とも100年分とも報じられた。震災がれきの処理責任がある市町村の対応能力を超えていることは明らかだったため、国直轄処理、県委託処理、広域処理協力など、さまざまな支援措置が講じられた。 しかし国直轄処理は民主党政権の方針が二転三転して迷走したあげく、鳴り物入りで「がれき処理特別措置法」が成立したものの、国に期待を表明していた宮城県は既に時機を逸していて見送りとなり、福島県の2市町村で3基の焼却炉が建設されるにとどまっている。県委託処理は宮城県の12市町、岩手県の7市町村が参加したものの、用地買収の遅れなどから本格的に立ち上がったのは震災後1年以上過ぎてからだった。広域処理協力は環境省の依頼に応えて東京都をはじめ多数の自治体が受け入れ表明し、当初は義勇軍の様相を呈したものの、放射能拡散懸念から住民に拒絶されて頓挫する例が相次ぎ、被災地での域内処理の体制が整ったため、現在はほぼ手じまいとなっている。 筆者も震災直後の現地を訪れたとき、莫大な量の震災がれきや津波堆積物を目の当たりにしてあ然とし、広域協力による早期処理(2年間で処理終了)の必要性を訴えた。 震災1年後の昨年3月の時点では、処理が順調に進捗していたのは仙台市だけだった。宮城県が計画した29基の仮設焼却炉はようやく一部が試験運転を始めた程度で、岩手県では頼みとした太平洋セメント大船渡工場の2基のキルン炉が2011年末に完全復旧したばかりだった。また、両県に対する広域処理協力も限定的なものにとどまっていた。福島県にいたってはほとんど処理は手付かずで、放射能問題から広域処理も頼めなかった。この結果、3県合計の処理進捗率は震災1年後の時点ではまだせいぜい10%だった。環境省は震災がれきの処理終了目標を震災発生から3年後の2014年3月とし、各自治体も同時期を処理終了目標としていたが、目標達成を危ぶむ声が多く聞かれた。 その後、岩手県では完全稼動した太平洋セメント大船渡工場をセンターとして、二次仮置き場での破砕選別処理(セメント原料化)が本格化した。しかし昨年12月、火災によって処理が休止するというハプニングがあった。 撤去した廃棄物に埋もれていた南三陸町(2012年8月) 宮城県でも昨年4月以降、仮設焼却炉や破砕選別処理施設が順次稼動を開始し、8月ごろには大半の施設が本格稼働した。しかし、二次廃棄物(処理残渣)を出さない完全リサイクルのセメント工場と違って、宮城県の仮設処理施設は不燃がれきや焼却灰の最終処分先が確保できないという問題を抱えていた。こうしたボトルネックのため、宮城県は昨年12月の県議会で、12市町から受託した震災がれき処理進捗率が30%にとどまっていると報告していた。
それなのになぜ、震災がれきの処理は年明けから急進展したのか。 震災がれき処理急進展の真相 実は処理が進展したのではなく、震災がれき発生推計量が下方修正されたのである。 東北3県37市町村の災害廃棄物発生推計量を、震災直後の2011年6月時点と今年2月時点で比較すると、東北3県合計では2183万tから1628万t(−555万t)、岩手県では446万tから366万t(−80万t)、宮城県では1509万tから1102万t(−407万t)、福島県では228万tから160万t(−68万t)と、3県平均25%も減少している。 なぜ、このような大幅な下方修正となったのか。第一の理由は、当初の発生推計量は航空写真による被災面積に、これまでの災害の経験を踏まえた係数をかけて割り出したものだったが、その後、撤去実績数値に徐々に置き換えられたのである。昨年中から何度か下方修正されてきたが、年明けの修正は特に大きかった。 第二の理由は、当初の発生推計量は被災建物の基礎まで除却することを想定していたが、全滅市街地では基礎を除却してしまうと宅地の境界が不明になることや、撤去工期を短縮する観点から、基礎を除却しない現場が増えたからである。戸建て住宅の場合、基礎は住宅全体の3割程度の重さにもなるので、基礎を撤去するかしないかでは震災がれき量は大きく違ってくるのである。 最後まで残っていた高田松原のホテル解体 震災がれき発生推計量はかなり下方修正されたが、現地の未処理がれきがもっと少なく見えたということは、これからさらに分母が下方修正される可能性を示唆している。撤去に同意しない被災建物もかなりあること、処理施設ができる前から道路や仮設施設の造成などに有効利用されたコンクリートがれきなどの量が処理量にカウントされていないことなども、震災がれき発生推計量や処理進捗率の誤差となっている。
震災がれき発生推計量が下方修正された結果、広域処理協力を中止する動きや、処理終了目標(2014年3月)を前倒しする動きが出ている。環境省発表の広域処理協力状況は、2月22日現在、実施済み、実施中、実施決定済みの自治体が1都1府13県65件、受け入れ見込み量約62万t(岩手県分約29万t、宮城県分約33t)、受け入れ済量約25万tとなっている。このほか協力表明済みが1都1県4件、試験処理実施済みが2県2件ある。環境省は広域処理協力を震災がれき処理の切り札として推進していたが、結果的にはいまひとつ広がりを見せず、協力表明済みなどを含めても全国で71件にとどまっている。 岩手・宮城両県とも、広域処理協力量を含めて処理終了目標を達成する計画なので、広域処理協力はまだ必要だとしている。しかし、これはお願いしておいていまさら要らないとも言えないから、表向き必要と言っているにすぎない。岩手、宮城両県で487万tも発生推計量が下方修正されたのに、数十万t程度の広域処理協力がまだ必要だというのは意味がない。高い運搬費がかかる広域処理は、本音を言えば全面的に休止し、県内処理に切り替えたいのである。すでに両県とも新規の協力要請は見合わせており、宮城県は4月から可燃物の広域処理を中止すると発表している。 がれき処理施設が余ってしまった 震災がれき発生量が当初推計されたほど多くなく、処理が予定より早く終わる見込みとなったのは良いことだと思うかもしれない。だが、過大な推計に基づいて過大な施設を建設し、過剰な人員を雇用したことは税金のムダ遣いである。 宮城県が石巻市に建設した全国最大規模の破砕選別施設 最大の震災がれきが発生した宮城県は、県下の12市町からの震災がれき処理受託量を1107万tと見積もって、県下を4ブロック8処理区に分け、処理をゼネコンなどで構成されるジョイントベンチャーにプロポーザル(企画提案型入札)で発注し、仮設焼却炉29基(焼却能力1日4495t)、破砕・選別施設12カ所を建設した。言葉は悪いが、いわゆる丸投げである。ところが、今年1月の見直しでは受託処理量が582万tに下方修正され、減少率は47%にもなってしまった。つまり、単純計算で仮設処理施設の能力は半分でよく、予算も半分で足りたことになるのである。
国はこれまでに1兆821億円の震災廃棄物処理事業費を計上している。震災がれき発生量が下方修正されても、予算は減額されない。すでに過大推計に基づいて施設を建設してしまったからである。筆者も震災直後に、災害廃棄物処理事業費は最大1兆円と予測したことがあるので呵責を感じる。 宮城県が石巻市に建設した仮設焼却炉 現場では過大施設の別の問題が生じている。焼却炉は一定以上の廃棄物がないと定常運転ができず、休止する可能性があるのだ。実際、宮城県では焼却する廃棄物が不足する処理区が出ており、他地区から廃棄物を融通したり、震災がれき以外も処理しようという案も出ている。また早く処理が終わってしまうと、雇用の問題が出るので、予定通りの処理期間にするため処理をペースダウンせよという指示が出たとも聞く。声高には言えないことであるが、これが消えた震災がれきの真相である。
その一方、道路や宅地の嵩上げ工事のため、震災がれきや津波堆積物から再生したグリ(砕石)や土砂は引く手あまたの人気商品となっている。再生資材の品薄は、今後の復興のスケジュールにも影響を与える問題であり、国土交通省は全国の公共事業から発生する再生資材や残土を東北地方へと海上運搬する検討に入っている。莫大な震災がれきを前にして茫然自失していた状況から一転して、廃棄物が足らない事態となっているのである。 それにしても仮設処理施設を着工する前に震災がれきの発生量を見直すチャンスはなかったのだろうか。需要の変化を検証せず、オーバースペックの無用な施設を既定方針どおりに建設して税金をムダ遣いしたというのは、どこかで聞いた話である。一度計上した予算は減額せず、ムダとわかっても予算を使い切るのが仕事だと勘違いしている職員は国にも自治体にも少なくない。予算をチェックすべき財務官僚も、一度付けた予算は減額しようとしない。それどころか、予算を余らせることを厳しくとがめる。予算を減額補正したり、不用額や事故繰越を発生させたりすることは、予算査定が甘かったことになり、財務省の無謬(むびゅう)主義に傷がつくからだ。この無謬主義という幻想を守るために、どれほどの予算がムダになったことだろう。 災害廃棄物処理事業と同じような過大見積もりによる復興予算の暴走は、今後の復興工事でも起こるに違いない。それを事前にチェックする機能は行政にはないのである。 石渡 正佳(いしわた・まさよし) 千葉県河川海岸管理室長(元産廃Gメン)。1958年千葉県生まれ。産廃Gメン時代に出版した『産廃コネクション』(2002年)が2003年「日経BP・BizTech図書賞」を受賞。ほか多数の著書あり。日経BP環境経営フォーラムアドバイザー。 東日本大震災から2年、疑問符だらけの東北の復興
今年2月22日、環境省が発表した震災がれきの処理進捗率は、岩手県38.8%、宮城県51.1%、福島県30.9%、東北3県合計46.3%だ。数字の上では急進展した。宮城県はわずか2カ月程度で20ポイントも進捗したことになる。何か数字のマジックがあるのではないかと思い、2月末に東北地方を現地調査した。筆者7度目の訪問である。 震災復興、絆の復活は至難のわざ
阪神大震災被災地になお残る「ソーシャル・キャピタル」崩壊の傷跡 2013年3月11日(月) 佐々木 勝 「いつになったら元の生活に戻れるのだろうか・・・。」 東日本大震災が東日本に甚大な被害を及ぼしてから2年が経ったが、まだまだ多くの被災者が仮設住宅に住んだり、故郷から離れた土地で慣れない生活を送ったりしている。雇用の面でも被災地では建築関連の求人が増加しているが、雇用のミスマッチのせいなのかなかなか雇用関係の成立までにつながらない。震災で職を失った多くの被災者はまだ求職中だ。 これだけ大きな災害に見舞われたのだから、被災地が完全に復旧・復興するのに長い年月を必要とすることは誰もが承知している。しかし、いつになれば震災以前の普段の生活の戻るのか。それがわかる何かタイム・ラインみたいなものが欲しい。そろそろ東日本大震災の長期的な影響を議論する時期にきている。 その議論のガイドラインとして、私を含む研究グループ(大竹文雄大阪大学教授、奥山尚子大阪大学助教、安井健悟立命館大学准教授)は、18年前に発生した阪神・淡路大震災のその後に注目した。発生から長い年月を経た今、被災者は震災以前の生活に戻れたのかどうかを、独自のオンライン・アンケート調査から探った。アンケート調査は2012年3月に実施した。震災発生してから17年後の状況と震災直前の状況を比較したのである。 もちろん、阪神・淡路大震災と東日本大震災では、災害の規模、二次災害の種類、被災地の産業構造や人口分布、時代背景など相違点は多い。したがって、阪神・淡路大震災からの復興過程がそのまま東日本大震災の復興過程に当てはまるとは我々も考えていない。しかし、時代背景があまり変わらない程度のタイミングに発生し、かつある程度の長期的な影響を検証するのに耐えうる年月が経った大震災となると、阪神・淡路大震災しか考えられない。 被災地における阪神・淡路大震災からの復興過程をたどることで、東日本大震災の復興にかかる時間をできるだけ短縮できるような長期的ビジョンを描くのに、少しでも役に立てればと思う。 東日本大震災復興を実現するためのビジョンを探る 我々は公式に被災地域と認定された10市10町(神戸市、明石市、三木市、洲本市、芦屋市、西宮市、尼崎市、宝塚市、伊丹市、川西市、津名町、淡路町、北淡町、一宮町、五色町、東浦町、緑町、西淡町、三原町、南淡町)に震災当時住んでいた人だけを調査の対象者とした。そして、被災したグループと被災しなかったグループの生活水準の推移を比較することで、震災の長期的な影響を分析した。 注目した変数は、年間所得と個人が有する「ソーシャル・キャピタル」(社会関連資本)である。ここで言うソーシャル・キャピタルとは、近所や友人との付き合いを意味し、時間的コストと金銭的なコストを費やしてコミュニケーション能力を養った結果、その投資のリターンとして人々の交流から得られる幸福度と解釈する。 東日本大震災の発生以降、盛んに「絆」という言葉が叫ばれた。人々の助け合いや思いやりがどれほど重要であるかを、震災により実感したからであろう。阪神・淡路大震災の時には、仮設住宅での孤独死が大きな社会問題となった。震災によって地域社会が崩壊し、被災者はこれまで蓄積してきたソーシャル・キャピタルを失ってしまったからだ。被災者は地元から離れて仮設住宅に住むと新たな人間関係を築かなければいけない。すなわち、新たなソーシャル・キャピタルを蓄積しなければいけないのである。 阪神・淡路大震災による地域社会や友人関係の崩壊は、17年経って震災以前の水準に回復し、再び深い絆で結びついているのだろうか。そして絆の回復が被災者の幸福度にどのように影響を及ばしているのだろうか。 震災直前と調査時点の回答を基に数値化 分析対象者のソーシャル・キャピタルのデータを収集するために、我々はアンケート調査から震災直前と調査時点のそれぞれで「近所の人と世間話をするか」、「近所にお裾分けをしたり、お土産をあげたりもらったりするか」、「友人と買い物、食事、旅行に行くか」、「町のイベントに参加するか」、「スポーツや趣味のサークル活動に参加するか」、「自治会や町内会の活動に参加しているか」、「地域でボランティア活動しているか」を尋ね、「よくあった」から「全くなかった」の5段階評価で回答してもらった。 図1は震災直前におけるこれらの質問に対する回答の割合を示す。その回答をもとに成分分析から各個人の「近所とのソーシャル・キャピタル」と「友人とのソーシャル・キャピタル」を震災直前と調査時点それぞれで数値化した。 図1 阪神・淡路大震災発生当時(直前)の習慣や組織・活動への参加(10市10町) (震災発生当時、10市10町に居住していた回答者) 今回、「被災」は「居住地の被災」だけに限定して定義した。そして、居住地が「全壊・全焼」した場合、「半壊・半焼」した場合、そして軽微な被災である「一部損害」した場合の3つに分けた。 図2は居住地の被災状況を示す。全壊・全焼は9.3%、半壊・半焼は17.6%、一部損壊は42.8%であった。そして、残りの30.4%は震災により居住地に被害はなかったと回答した。 もちろん、被災の形は様々である。たとえ居住地が被災していなくても、家族や友人との死別は大きな心の傷となるし、職場や職場までの道のりが破壊されていた場合でも被災したことは間違いない。今後の研究としてこれらの被災変数も取り込んでいきたいと考えている。 図2 損壊状況(10市10町) (震災発生当時、10市10町に居住していた回答者) これまでの研究結果をまとめた結果、以下のことが分かった。阪神・淡路大震災は、地域社会で培われてきたソーシャル・キャピタルを破壊した。17年の歳月をかけて徐々に回復してきたが、震災直前の水準までにはまだ戻っていない。それは友人関係のソーシャル・キャピタルに関しても同じ事が言えるものの、統計学的にその結果は強く支持されなかった――。 阪神・淡路大震災によって多くの地域社会は崩壊した。その後、被災者は元の地域に戻り、地域のネットワークを再生しようとしたかもしれない。または、元の地域には戻らず新しい地域で新しい繋がりを築き始めたかもしれない。しかし、震災から17年経った時点でも、震災以前ほどの地域の繋がりを取り戻すことはできていないのである。つまり、「地域との繋がり」の観点からすると、震災による負の影響はまだ続いていると考えられる。 ソーシャル・キャピタルの減少は、幸福度を下げる また、ソーシャル・キャピタルと調査当時の幸福度の関係を検証した結果、地域と友人関係のどちらともソーシャル・キャピタルの減少は幸福度を引き下げることがわかった。前の結果も踏まえると、阪神・淡路大震災によって地域のソーシャル・キャピタルが崩壊し、それは17年経た時点でも完全に回復していなかった。それは震災がなければ享受できたはずの幸福度は今の幸福度に比べてもっと高かったことを意味する。 阪神・淡路大震災の復旧・復興のペースは速かったという意見がある。震災によって横倒しとなった阪神高速道路や液状化したメリケン波止場は早急に復旧した記憶がある。しかし、近所や友人との繋がりという側面からすると、被災者に対する阪神・淡路大震災の負の影響は今でも残っていると言えるだろう。この教訓を踏まえ、東日本大震災の復興計画では、インフラなどの「ハード」の部分だけでなく、ソーシャル・キャピタルのような「ソフト」の部分にも十分配慮する必要がある。 佐々木 勝(ささき・まさる) 大阪大学大学院経済学研究科教授。ジョージタウン大学でPh.D(経済学)取得。世界銀行、アジア開発銀行、関西大学、大阪大学社会経済研究所を経て2011年4月から現職。専門は労働経済学。 「気鋭の論点」
経済学の最新知識を分かりやすく解説するコラムです。執筆者は、研究の一線で活躍する気鋭の若手経済学者たち。それぞれのテーマの中には一見難しい理論に見えるものもありますが、私たちの仕事や暮らしを考える上で役立つ身近なテーマもたくさんあります。意外なところに経済学が生かされていることも分かるはずです。
製造業、福島回帰のワケ 2013年3月11日(月) 張 勇祥 、 山根 小雪 東日本大震災から丸2年。福島県に企業が少しずつ戻り始めた。手厚い補助金だけが目的ではない。産業集積や物流網を評価し、投資している。ただ、海外からの風評被害など依然障害も。復興へ向けた課題は多い。 福島県郡山市中心部からクルマで20〜30分の郡山西部第2工業団地。この地で計測器大手、アンリツの新工場建設が急ピッチで進んでいる。現在は建屋の鉄骨が組み上がったところで、今夏の操業開始を目指している。 新工場は、7万平方メートルの敷地に30億円強を投資して建設する。これからも需要の伸びが期待されるスマートフォンの生産検査に使う装置部品を生産する計画だ。郡山市中心部にほど近い既存工場と合わせ、国内外の製造拠点におけるマザー工場と位置づける。 アンリツは郡山市に新工場を建設中。今夏の操業開始を目指す 経営企画室の佐野道彦部長は、福島県内での工場立地について「会社にとって、とても重要な決断だった」と振り返る。2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴って東京電力・福島第1原子力発電所の事故が起き、多くの企業が福島県内での投資をやめたり、撤退したりした。それにもかかわらず、なぜ今、福島なのか。
1つの理由は、福島県内に工場を新増設する企業に対して、最大で初期投資の4分の3を補助する制度の存在だ。県は経済産業省の補助制度を活用し「ふくしま産業復興企業立地補助金」を創設した。アンリツはこの制度を使い、新工場への30億円強の初期投資額のうち、14億〜15億円を補助金として受け取る予定だ。 この制度は、工場立地時の補助金としては、かつてないほど手厚いものだ。それでも、今後長期にわたって生産を続けていくことを考えると、「補助金の存在だけが投資に踏み切った理由ではない」(佐野部長)という。 産業集積、物流網は東北一 アンリツは新工場の立地を選ぶに当たり、関東地方の県も含め、多くの地域を検討した。それでも、最終的に福島県に決めたのは、「納期の短縮が実現しやすい場所」だと考えたためだ。 福島県は地の利の良さから、製造業が集積してきた歴史がある。アンリツも、部品を調達しやすく、顧客の企業へのアクセスも良い立地条件が、ほかの場所では替え難いと判断した。 物流網を見ると、ほかの東北の県に比べ、関東はもちろんのこと、関西の大市場へも行き来がしやすい。東京から福島県へは東北自動車道が通じ、磐越自動車道で新潟を経由すれば、渋滞などのリスクがある東名高速道路を利用せずに関西圏へも通じる。人の移動でも、東京から福島まで新幹線で約1時間半と便が良い。 福島県内での投資を決めた製造業はアンリツだけではない。震災で被害を受けた生産設備、工場の再建を含めると、京セラケミカルやコマツ、昭和電工、クレハなどが福島県内に新増設することを決めている。 中小企業も動く。福島第1原発に近い飯舘村に主力工場を持ち、震災後の2011年10月に株式を上場したことで知られる菊池製作所は、同県川内村に工場を新設。国内外で特許を持つアルミ精密鋳造技術「アルミ・ホットチャンバー・ダイカスト」加工を手がける。昨年11月末に開所式を実施し、30人を雇用している。
福島県は既に300件近い補助金の申請を採択した。原則、補助金1億円当たり1人以上の正規雇用を交付の条件としており、4000人超の正規雇用が生まれる見通しだ。雇用の創出は、被災し仕事を失った人々にとって、何物にも替え難い復興策だろう。 福島県企業立地課の永山幾男主幹は、「企業誘致によって製造業が再生すれば、サービス業などへの波及効果も見込める」と期待を寄せる。雇用創出効果も広がる可能性が高い。 日本政策投資銀行東北支店がまとめた2012年度の設備投資計画調査によると、新潟を含む東北7県への投資額は全産業ベースで前年度比3%増。この中で、福島県は2962億円と前年度比21%増えた。 ただし、福島経済が本当に立ち直るためには課題が山積している。 県は企業立地への補助金を2013年度も存続する予定だが、交付要件は徐々に厳しくする見通しだ。企業の投資を後押しする効果も乏しくなりかねない。 また、震災によって一時的に3万〜4万の雇用が失われたとされ、今もその回復は途上だ。2012年の鉱工業生産指数は2011年を上回ったが、震災前の水準は回復できていない。 企業の投資先が内陸部に偏る問題も浮上している。原発事故と津波の被害を直接受けた浜通り地方への経済的恩恵は限られ、県内の経済格差が広がる恐れも出ている。 地元貢献通じ、企業活力も高める 風評被害も依然として大きな問題だ。福島県内に拠点を置くある製造業は、納入先の海外企業に「原発から80km以上離れたところで製造したものでないと受け入れない」と言われた。 風評被害にとりわけ敏感な食品や医薬品メーカーが福島県内に新規投資をするのは簡単ではない。そこを乗り越えられるか。企業の姿勢も問われる。 アンリツには福島県への投資を決めたもう1つの理由がある。多くの社員から「福島のために頑張りたい、頑張らなければならない」という声が寄せられたことだ。もともと郡山市に工場があり、地元に縁のある社員も少なくない。風評リスクがあっても、復興への思いが社員のやる気を高め、生産性向上につながる可能性に賭けた。 こうした企業が福島で投資に動き出せば、復興への後押しになる。企業にとっても、大きな被害を受けた福島へ貢献するやりがいが、活力を引き出す契機になる。福島で投資する理由は、いくつもある。 大橋 徹二[コマツ次期社長(専務執行役員)]に聞く 復興需要、ピークは2〜3年続く 東日本大震災の復興需要が発生しており、建設機械の国内需要は上がっていくだろう。 昨年は基本的に瓦礫処理のために建機が使われていた。ここにきて、岩手県陸前高田市のように高台移転という苦渋の決断を下す自治体が出てきた。 現在、家庭や市町村などで様々な議論が交わされ、そのプロセスがまだ進んでいる最中というところもあるだろう。今後は自治体のそうした決断が増えていくと見ている。
高台移転が決まると、今度は宅地などを造成することになる。そのため、工事の内容が瓦礫処理とは変わってくる。油圧ショベルは既にレンタルを通じて東日本に集まっているが、高台移転では、新たにブルドーザーなどの需要が増える。 実際の需要がどれほどかはまだ分からないが、ピークは2〜3年ぐらい続くのではないだろうか。土地の取得から測量、設計、造成といった手順を進めるだけで、1〜2年は軽くかかる。移転を決めていない自治体もまだ多い。 安倍晋三首相の下で補正予算が成立し、今後は新年度予算案を決めていくことになる。アベノミクスでは、公共投資の中身を見直すが、必要なものはやっていく方針と聞く。ゼネコンなどを中心に、需要が盛り上がるとの期待感は強い。 (聞き手は 広岡 延隆) 山根 小雪(やまね・さゆき) 日経ビジネス記者。 張 勇祥(ちょう・ゆうしょう) 日経ビジネス記者 時事深層
“ここさえ読めば毎週のニュースの本質がわかる”―ニュース連動の解説記事。日経ビジネス編集部が、景気、業界再編の動きから最新マーケティング動向やヒット商品まで幅広くウォッチ。 |