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子どものがん、福島の親の不安続く 県や医療へ不信感強く(福井新聞)
http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/644.html
投稿者 播磨 日時 2013 年 3 月 11 日 11:08:31: UcrUjejUJLEik
 

東日本大震災、福島第1原発事故からまもなく2年、被災地の現状に迫る連載企画 「止まった時間」(5)

 福島第1原発事故では、今も古里を汚染する放射性セシウムとともに、放射性ヨウ素も天文学的な量が放出された。半減期が約8日と短いこの放射性物質は、事故の混乱で観測態勢が整わない間に次々と姿を消し、2カ月後にはほぼ、人体への影響はなくなったとされる。だが、その実態のはっきりしない短い間の被ばくが今、福島の親たちを強く揺さぶっている。

 「事故後、部活の遠征で福島県を離れることが多かった次女は『A1』、ほかの3人の子どもは『A2』。この差は何なのか」。先月中旬に二本松市で開かれた、福島県と県立医大の甲状腺検査説明会。父親の声に怒気がこもる。

 記号はともに検査の結果で「A1判定」は所見なし、「A2判定」は小さなしこりや嚢胞(のうほう)(体液のたまった袋)が見つかったとの意味だ。

   ■ □ ■

 県と同大は事故から7カ月後、放射性ヨウ素が蓄積する甲状腺の超音波検査をスタートさせた。当時18歳以下だった全員が対象だ。「チェルノブイリ原発事故では小児の甲状腺がん以外に、被ばくとの因果関係が証明された疾患の増加はない」(同医大)ことから、県民健康管理調査の柱となっている。

 対象約36万人のうち、今年1月までに結果がまとまったのは約13万3千人。「A1」58%、「A2」41%だった、この41%の親が、結果をわが子の異常ととらえた。

 「A2は通常の検査なら『所見なし』とされる程度。2年後の一斉検査までの経過観察で問題ない」。時間を延長して終わった説明会後の講師控室。検査の責任者を務める同医大県民健康管理センター・鈴木眞一教授は、壇上で繰り返した内容を、再度強調した。

 「重要なのはしこりが大きいなどのB、C判定(0・6%)。A2が異常ととらえられてしまったことは、専門医として驚きだった」と言う。

 説明会では参加者の厳しい質問にもさらされた。「われわれは原発とは何の関係もない」と鈴木教授。原発政策や事故処理に向けられているのと同じ不信の目が、医療にも注がれることに戸惑いがにじむ。会津若松市出身で同医大卒業。長年、県内医療に関わってきた。「俺たちが一番の味方なんだよと、ぜひ分かってほしい」と訴える。

   ■ □ ■

 「福島の母親は、もうだまされません」。説明会会場からそう遠くないマンションで、鈴木麻記子さん(39)はやんちゃな長男(6)をあやしながら、きっぱり話す。

 二本松市は県庁のある福島市から高速道路で30分程度。都市部からの距離や人口は、本県の鯖江市のイメージだ。原発からは約60キロ離れており、国の避難区域にはならなかった。

 昨秋、県の検査を受けた長男の結果はA2。「甲状腺の左側に1・6ミリの嚢胞がある」というものだった。ところが、別の小児科医院でみてもらったところ「右側に縦横4×7ミリのしこりがある」と診断された。

 「体質上、できやすい子もいるというけど7ミリって…。今からでも避難しなくちゃと思った」と鈴木さん。長男が生まれたばかりのころから、母乳への影響を考え、食べるものに気を張った。哺乳瓶(ほにゅうびん)も丁寧に消毒して、大事に育ててきた。「それなのにしこりなんて」。事故後、仕事に追われ、自主避難しなかった自分を責めている。

 結果の食い違いは「小児科医は甲状腺の専門ではない」と落ち着いて受け止めている。でも県の検査も全く信用していない。市民センターで受けた検査は2分程度で、おざなりに感じた。

 そもそも県の結果通知書では、嚢胞とされるものの場所や大きさは何も分からなかった。詳しい内容と画像は、自分で県に情報開示請求して手に入れた。「県は県民の方を向いていない。国や東電との関係で政治的に難しいのかな」と考えている。

 「子どもが年をとってがんになっても、そのとき私はもういない。騒いであげられない。だから今、頑張る」と鈴木さん。原発事故の被ばく症例に詳しいベラルーシやウクライナの医師に、診察を受けられないか、と考えている。


2013年3月10日 福井新聞
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquake/40907.html
 

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01. 2013年3月11日 15:47:04 : kPOeurwFuo

ポイズン(放射能)の島で生きる人々
ビキニ水爆実験被曝の島民を写真と文で
2013年03月11日(Mon) 川井 龍介
 南太平洋、マーシャル諸島の人たちは、3.11の原発事故によって被災した福島の住民たちに義援金を募り、被災者へ励ましの言葉を届けた。この事実に、『ふるさとはポイズンの島〜ビキニ被ばくとロンゲラップの人びと』(旬報社)の著者の一人、渡辺幸重氏は胸が熱くなったという。

 故郷を離れ、戻れるかどうかわからない不安のなかでいまだ仮の住まいを余儀なくされている福島の被災は深刻である。同様に、半世紀以上前の1954年に水爆実験によって被曝したマーシャル諸島の人々の被害も甚大だった。

 故郷の島は核実験により汚染され、離島を余儀なくされ健康被害も出た。放射能汚染がなければ平和なのどかな暮らしは一転し、以来翻弄され続けた。生活も決して豊かとは言えない彼らが、同じ放射能汚染で苦しむ福島のことをわが事として受け止め、義援金を送った。

 いまだ自分たちも汚染の問題に向き合っているのに他者を思いやる。このことに渡辺氏は胸を熱くしたのだった。

1974年から現在までを取材


『ふるさとはポイズンの島』
 マーシャル諸島の人びとは、放射能のことを「ポイズン=poison」(毒)という。居住に適さないほど島全体を汚染し、死者を出すほどの健康被害をもたらした元凶である放射能は、彼らにとっては害はあっても益はない「毒」だった。

 昨年12月に出版された『ふるさとはポイズンの島』は、マーシャル諸島のなかのロンゲラップ島で、核実験によって被曝した人々のたどった歴史を、72ページのなかに写真と文章で紹介している。写真は島田興生氏、文が渡辺氏だ。

 島田氏は、1974年から現在に至るまで40年近く、ビキニの水爆実験による被災の現場と人々を取材してきた写真家で、住民の暮らしの変化を丹念に追ってきた。

 渡辺氏も現地に足を運び、島民の交通手段として船を送るプロジェクトなど住民支援の運動に関わってきた。

 マーシャル諸島は、ビキニ環礁をはじめいくつもの珊瑚の環礁からなる。遠くからみればエメラルドグリーン、近くに寄ってみれば透き通るような海とビーチに囲まれ、椰子の木が風になびく。観光パンフにあるこうした“南の楽園”といった長閑な光景も本書はとらえている。しかしそれはほんのわずかだ。

 大半の写真は、リゾート的な海や自然ではなく、被曝に関係した生活の様子や人びとの表情をとらえ、汚染に関わる島の実情を写している。汚染された島から船で脱出する人びとの表情は沈痛だ。

 十分な食糧がない移住先の島での暮らし。甲状腺の検査など、放射線の影響をチェックされる島民。障害を受けた子供たちの姿。椰子の木も登場するが、幹には放射能測定のための帯が印として巻かれている。

村長の息子は白血病で亡くなる


1985年、残留放射能から逃れるため船で島を出る人々
 故郷に戻れるかと期待していたが、長年経っても放射線の汚染は続いていると聞かされ、がっくりする人びと。やがて一度は諦めた帰島が実現することになり、表土を除去するなど除染作業が行われる。放射線の計測は欠かせない。

 そして、ようやく住めるようになり、ここ数年で島には、飛行場やふ頭、発電所や住宅などが建設されてきた。工事が進むとともに島で暮らしはじめる人もできてきた。

 しかし、まだ「ポイズンはこわい」と帰島に反対の人は多い。こうした島の様子や不安げな人びとの表情をカメラはとらえている。

 そして最後に、島の村長として被害に向き合ってきたジョン・アンジャイン氏について紹介している。核実験のとき33歳で村長だった彼は、3人の子どもがいたが被曝し、そのうち当時1歳だった三男のレコジさんが19歳の時に被曝による白血病で亡くなった。

 被曝した島民は同じマーシャル諸島のなかのクワジェリン基地に連れて行かれアメリカ原子力委員会によって、その影響を調べられた。一人ひとりに番号がふられ、写真を撮られる。被爆直後、自分のIDであるプレートをもたされて撮影された写真やレコジさんがアメリカ人医師によって診察されているときの写真が本書にある。

 アンジャイン氏は、放射能汚染による島の窮状を知らせるために、生前日本にも来日してビキニ・デーの集会などで訴えた。彼はまた被曝した島民一人ひとりの記録をノートにとっていた。それは本書の最後に「ロンゲラップ1次被ばく者全リスト」として掲載されている。

 胎児4人を含めた86人の名前、性別、被曝時年齢、そして健康状態が記されている。村長という責任ある立場から島民の実態を記録しておく責務を感じたのだろう。

この実験は平和のために行う?

 彼らがこのように核実験による被害を甘受しなければならない理由は、彼らの側には何一つない。問題の核実験とその島民への被害をたどってみればよくわかる。

 今日のマーシャル諸島は、第一次大戦まではドイツ領太平洋諸島(ミクロネシア)のなかにあったが、1914年に大戦がはじまると連合国の一員である日本がドイツの勢力を一掃して占領した。

 太平洋戦争が終了したのちはアメリカが占領、国連によってアメリカの信託統治領と承認された。戦後まもなくアメリカはソ連との対抗上、核兵器開発を進めビキニ環礁での実験基地建設を計画する。

 ビキニ環礁は30もの小さな島々がネックレスのようにつらなっている。そのうち一番大きいのが三日月型のビキニ島で、長いところで3.6キロほど。実験に先立ち、アメリカ軍はビキニ島の島民166人を約200キロ西に位置する無人のロンゲリック環礁に移住させた。

 ビキニに上陸したアメリカ人将校は島の酋長に「われわれは世界の戦争を終わらせるためにここで新型爆弾の実験をやる。この実験は、人類の福祉と平和のためにやるのだ。終わったらまた戻してやる。だから島を出てほしい」と、告げたという。戦時中日本軍からの命令に慣れていた島民はこれもまた「メイレイ」かと従った。

被曝直後は放置された島民

 アメリカは1946年7月からビキニ環礁で原爆実験を開始し8月には原子力の開発などを行うアメリカ原子力委員会(AEC)を設置した。48年からはエニウェトク環礁でも実験は始まり、52年には最初の水爆実験が行われ小さな島一つが爆発で消えた。

 一方ソ連もこの翌年水爆実験に成功。加熱する開発競争のなかで、アメリカは1954年からキャッスル作戦という名の一連の核実験を開始、その最初が3月1日に行われたブラボー・ショットと呼ばれる水爆実験で、広島原爆の750〜1000倍に相当する強大な威力が試された。

 爆発時たまたま近くで操業していた日本のマグロ漁船第五福龍丸が放射性降下物を浴び乗組員23人が被曝。そのうち最年長の久保山愛吉さんがおよそ半年後に亡くなった。原爆の被害もまだ記憶に新しい日本では放射能の恐れと反発で国中騒然となった。

 第五福龍丸への降下物は、ビキニ環礁東方のロンゲラップ島、ウトリック島の住民も襲った。爆発から34時間後にロンゲリック島で観測にあたっていたアメリカ人は救出された。しかし、両島民は3日間も放射能が満ちた島の中に放置されたのちようやくアメリカ軍によって放射能検査が行われ、基地のあるクワジェリン島へ移送された。

島から出なければ死亡するほどの放射線量


DOE(アメリカエネルギー省)の医師から甲状腺のチェックを受ける
 本書に登場するのは、居ながらにして放射線を浴び離島せざるを得なかったロンゲラップ島の人たちのその後である。著者の渡辺氏は、事実と彼らの様子をたんたんと平易に解説する。以下、これをもとに多少補足を加えて彼らの不安と苦悩の歴史を簡単に追ってみる。

 爆発によってロンゲラップにはプルトニウム、ストロンチウム、セシウム、ヨウ素など強い放射能を帯びた物資が降り注いだ。島から出なければ全員が死亡するほどの放射線量を被曝。当時島にいた人たちは炎症やかゆみ、吐き気、下痢などに苦しんだ。

 移送されたクワジェリンではさまざまな“検査や治療”が行われたが、この処置の仕方や方法は人びとをモルモット扱いしているようでもあった。およそ1カ月後、島民は今度はマジュロ環礁内のエジット島という島に移された。

 1957年2月、アメリカ原子力委員会はロンゲラップ環礁南部の「安全宣言」を発表。ロンゲラップ村の250人は故郷のロンゲラップ島へ帰った。しかし、そこで見た動植物には異変があり、帰島した彼ら自身の体調にも異変が生じた。がんや白血病や甲状腺障害に苦しむ人が出た。そして72年にはレコジさんが亡くなった。

ポイズンで再び島を出る


荒れ果てた島は再建され、新しい住宅や教会がさんご礁の海に面して並ぶ
 住民たちは、それがポイズン(放射能)によるもので、これ以上島にいては危険と判断し、1985年5月に自ら島を脱出し、今度はクワジェリン環礁のメジャトというロンゲラップよりずっと小さな島に移った。

 そこは食糧とする自然の動植物は少なく、アメリカからの援助食糧に頼らざるを得なかった。また、病院のある島からも遠く簡単に医者に診てもらうこともできなかった。

 メジャト島にいる間、ロンゲラップ出身の国会議員がアメリカ議会へ働きかけたことでロンゲラップ島の汚染の程度などが科学的に調べられることになった。この「ロンゲラップ再評価計画」の調査の結果、島民が最初に帰島した際、尿や島の土からプルトニウムなどが検出されていたことがわかる。これらは秘密にされていたことで住民からは怒りの声が上がった。

 1986年10月に島々はマーシャル諸島共和国として独立。ブラボー・ショットから44年がたった98年からロンゲラップ島では、居住地区の表土を除去する除染作業と、帰島に向けて公的施設や住宅建設の工事が進められた。そして2010年1月にメジャトで開かれた集会でジェームス・マタヨシ村長はロンゲラップ島に帰ることができると説明した。

 一部の人は工事にともなってすでに島で暮らしているようだが、帰島に反対する意見も多く、「本当に安全なら帰りたい」というのが本音のようだ。

不条理な経験をもって他者を気遣う

 マーシャル諸島での核実験はブラボーショット後の1958年まで計67回を数えた。この実験については、島民の被曝、被災があらかじめ予想できたにもかかわらず実行されたという疑いは当初から出ていた。放射線の人体に与える影響を検証することも目的の一つとされていたのではないかという疑念が、被曝後に彼らがどのように扱われたかを詳細に見ると深まる。

 被曝した島の人々は、金銭的な補償や生活における物質的な援助を受けている。しかし、その補償は限定的で、また補償を受けた人たちも本来の生活基盤を崩し、補償に依存するライフスタイルを作り出すという弊害も生んできた。もちろん、補償などで彼らが失ったものと味わった苦悩を購えるものではないのは明らかだ。

 ある日突然、核実験により被曝し故郷を追われる。しばらくして安全だといわれ戻ってみたらさらなる被曝をし、再び島を離れざるを得なくなる。これだけの不条理を経験してなお、マーシャル諸島の人びとは福島の被災者のために義援金を送り励ましの言葉を届けた。著者と同じようにその事実には胸が熱くなる。

注1:写真はすべて本書のなかのもの、島田興生氏撮影
注2:参考:「棄民の群島 ミクロネシア被爆民の記録」(前田哲男著、時事通信社、1979年)、「核よ驕るなかれ」(豊崎博光著、講談社、1982年)

 

世界の果ての現実
篠原 匡  【プロフィール】 バックナンバー2013年3月11日(月)

 勝ち負けで論じる話ではありませんが、写真に負けない文章を書きたいと思って十数年、この仕事をやってきました。優れた写真はそれ一枚ですべてを伝えます。喜びや悲しみだけでなく、背景や意図、時に正邪まで――。一枚の写真に衝撃を受け、思考し、行動につなげていった経験を持つ人は決して少なくないと思います。

 私は文字の世界に生きている人間なので、写真に憧れ、嫉妬してきました。実践できているかどうかはともかく、頭の片隅にはいつも写真では表現できないことを文字で表現したいという思いがありましたし、ファクト集めや構成、言葉選びも現象や本質を視覚的に伝えることを意識してきました。

 ただ、当たり前ですが、百万言を費やしても、到底かなわないと思う写真にもよく出会います。今週号の特集「どうする『核のゴミ』」に出てきた写真もそうでした。

 1986年に起きたチェルノブイリ原発事故。事故後、27年が経ちましたが、後始末はいまだに終わっていません。汚染された「チェルノブイリテリトリー」はウクライナ・ロシア・ベラルーシの3国で14万5000ku。このうち原発周辺の168の市町村が廃墟になりました。数字には諸説あるようですが、約40万人が避難し、700万人が被災しました。将来的な死者は4000人とも、数十万人とも言われています。

 取材班が訪れたウクライナ北部のプリピャチ市も無人の廃墟でした。原発労働者の街として栄えたプリピャチは高層マンションや病院、公園などが整備された恵まれた街でした。ただ、原発事故でプリピャチの時は止まりました。現地には事故の5日後にオープン予定だった遊園地跡があります。風に揺られる無人の観覧車は、事故処理の現実を如実に物語っています。

 福島第一原子力発電所の事故から2年が経ちました。原発自体の収束作業は緒についたばかり。汚染地域の除染や復興も遅々として進んでいません。しかも、「核のゴミ」に伴う問題は今後、深刻化していきます。

 これまで、核のゴミは正常に稼働している原発の放射性廃棄物を指していました。ところが、今後は事故によってまき散らされた放射性物質が積み上がっていきます。除染で出たゴミの仮置き場の確保でさえ難儀している現状をみれば、中間貯蔵施設や最終処分場の合意を得るのは並大抵ではありません。

 特集では廃墟となった幼稚園の写真を使っています。原子炉から30km圏内、強制移住で「死の街」になった村の幼稚園で取材班が撮りました。似たような写真はほかにもあるかもしれません。人形や瓶は後の人が並べ直したものかもしれません。ただ、このカットには思わず考えさせる何かが宿っています。

 核燃サイクルが事実上、破綻した今、増え続ける核のゴミをどうするのか。ぜひ本特集を通して、考えてみて下さい。

日経ビジネス最新号特集
『どうする核のゴミ』
チェルノブイリ・英国に学ぶ現実解
福島原発の事故から2年。復興を妨げる「核のゴミ」が、経済再生へ動き出した日本全体にとっても急所となりかねない。世界が苦悩する放射能廃棄物の処分の現実解を探る。


02. 2013年3月11日 15:54:48 : kPOeurwFuo

 


故郷を追われた人たちの「帰りたい」という思い

仮設住宅での暮らしを体験して感じたこと

2013年3月11日(月)  菊池 由希子

 2012年5月から福島第一原発から20.5キロ地点で生活していた私だったが、半年間の滞在を終えて11月に関西へ引っ越すことになった。それから2カ月経った1月末、久々に南相馬を訪問した。

 3.11以降、自宅が警戒区域に指定され、県外での避難生活を強いられていた南相馬のご夫婦がいる。知り合ってからずっと交流を続けていたが、ご主人が地元の建設関係の会社での仕事が決まったため、避難先から南相馬に戻ってきた。ご夫婦は市内の仮設住宅で暮らし始めたというので、今回はそこに泊めてもらうことになった。


旧警戒区域で草刈りをする人たち
 南相馬に着くと早速、旧警戒区域にあるご自宅まで案内してもらった。大津波が家に達することもなかったし、大地震で家が壊れることもなかった。電気も水道も復旧しているので、生活しようと思えばできなくもない。

 しかし、近くにある旧警戒区域の境界には、常時警察がいる。空間放射線量は毎時0.1〜0.3マイクロシーベルト程度である。旧警戒区域の自宅には昼間は自由に出入りすることができるが、今もなお、宿泊することができない。原発から60キロ離れていて。避難区域に指定されていない福島市よりもかなり低い空間放射線量であるにもかかわらず、まだ住民に帰還の許可が下りないのだ。

 大きな一軒家で暮らしていた住民が狭い仮設住宅で暮らすのはなかなか大変だが、そこへお客さんを泊めるとなるとさらに気を遣うだろう。旦那さんは奥さんから私が泊まると聞いて、「それなら俺は(旧警戒区域の)家で寝ようかな」と冗談を言っていたそうだ。

仮設住宅に泊めてもらった

 2人用の仮設住宅には四畳半の部屋が2つあり、台所と風呂場、トイレがある。木でできているので、コテージのような雰囲気でもあり、短期間の滞在なら楽しそうでもある。しかし、両隣の物音や声が聞こえるので、長期的な生活には向かない。奥さんと私が同じ部屋で一緒に寝て、旦那さんは申し訳なかったが、リビングに寝てもらった。

 ちょうど3.11の大震災の時、私はグルジアにあるチェチェン人の難民キャンプに滞在していた。その直前にはイラクのクルド難民キャンプにお邪魔し、震災直後もトルコにあるコーカサス系難民の暮らしていた難民キャンプに寝泊まりした。グルジアの難民キャンプは病院だった2階建てのボロボロの建物だったが、トルコのものは小さな一戸建てがたくさん並んだものだった。


トルコにある北コーカサス系難民が多く暮らしていた難民キャンプ。兵庫県が提供した仮設住宅
 「これは日本が建てた家なんだよ!」

 と、仮設住宅に住んでいた難民たちはみんな満足げに私に教えに来る。そのトルコの難民キャンプは、1999年のトルコ北西部地震の際に、兵庫県が無償提供した仮設住宅で、阪神淡路大震災の時に使われていたものだった。

 当初は地震による被災者が暮らしていたが、彼らがアパートを与えられて出て行った後、ロシアなどからやってきた難民たちが暮らすようになった。雨が降ると、小雨でも大雨のように大きな音がして、とてもうるさく感じられたが、お湯も出たし、洗面所やキッチンもあり、夫婦や家族が暮らすにはちょうどいいくらいだった。


グルジアの首都トビリシにあるアブハジアからのグルジア人難民の暮らすアパート
 阪神大震災の時、私は被災地から遠い青森の小学生だったこともあり、学校で被災者のための募金活動をしたことくらいしか記憶に残っていない。多くの日本人が東日本大震災を忘れてしまいつつあるという声も聞こえる。地理的に遠く離れているだけでなく、特に親戚や友達がいるわけでもない場所で起こった悲劇は、いつまでも多くの人の心に強くとどまるわけではないのは仕方がない。

 トルコの難民キャンプを訪問するまで、私は「仮設住宅」についてその存在すら知らなかった。また、トルコの仮設住宅に泊めてもらった時は、後に仮設住宅が東北でこんなに身近な存在になるなんて思ってもいなかった。

ゴキブリやネズミだらけの難民キャンプも

 私はモスクワ国立大学の学生の頃から、よく各国に離散しているチェチェン難民を訪問した。難民キャンプといえば粗末な小屋やテントをイメージするが、欧州ではホテルやペンションを利用しているところがほとんどだ。

 中でも驚かされたのはフランスだった。パリやパリ近郊に暮らす難民たちがホテルで暮らしている。ホテルにも当たり外れがあり、とてもきれいなホテルもあれば、駆除できないほどのゴキブリやネズミが出るホテルもある。

 オーストリアでもいろいろな街の難民を訪問したが、オーストリアが提供している難民のためのペンションは、パリのホテルとは違って清潔感にあふれていた。チェチェン人は概して清潔な民族なので、汚いところで生活するのはとても苦痛に違いなかった。

 「私たちは家がないと思われているの。戦争でいつ殺されるか分からないから難民になってフランスにやって来たのに。戦争がなければ私たちだって自分の家に帰るのに」

 と、フランスに来てからゴキブリだらけのホテルを転々とさせられる難民のチェチェン人女性は言った。

 「帰りたい。チェチェンに帰りたい」

 チェチェンに住んでいた頃には、早く欧州に行きたいと避難を切望していた彼女だったのに、先の見えない難民生活に疲れ切っていた。自分の家があるのに、戦争のせいで戻れない。避難先でも新しい生活がうまくいかない。原発事故で避難せざるを得なかった人たちの状況に似ている。

 パリでは、その前にポーランドの難民キャンプで知り合ったチェチェン人らと再会した。彼らは私をよくホテルに招いては、懐かしいチェチェン料理をごちそうしてくれ、大量に余っている牛乳やマカロニ、缶詰などの支援物資を分けてくれた。

 支援物資はパリ市内のペール・ラシェーズ墓地のそばで毎日配られていた。やって来るのは難民だけではない。生粋のフランス人だってやって来る。私も何度か行ったことがあったが、炊き出しが行われたり、物資を配り終えた後に難民同士の集まりが開かれたりする。

 日本の被災地の仮設住宅では、場所にもよるが、今でもボランティアによって支援物資が届けられている。しかし、食器などはすでに需要を満たし、また、輸入食品のような地元の人があまり食べないようなものは余ってしまう。そのため、被災者の方々が、私のようによそからやって来た人に余った支援物資を分けてくれることもしばしばある。


グルジアにあるチェチェン人難民キャンプ
「私たちはこういう缶詰は食べないのに」

 フランスで大量に配られる支援物資の缶詰は、無農薬の新鮮な食べ物に慣れてきた難民の体には合わないようで、体調を崩す人も多かった。私ももらった缶詰を毎日食べていたのだが、だんだんと食べるのが苦痛になり、そのうち缶詰を見るのも嫌になってしまった。

 「ただでもらえるんだからいいでしょう? という考えなのよ。私たちはこういう缶詰は食べないのに」

 自尊心を傷つけられた難民が言う。ペール・ラシェーズでは、大人じゃなければパンがもらえなかったため、チェチェン人の子供たちはもらった缶詰を別の民族の大人たちに頼んで、パンと交換してもらっていた。


イラク、クルド自治州にあるイランからのクルド難民が暮らす難民キャンプ
 私はチェチェン難民を支援した結果、6年間暮らしたロシアに入国禁止になってしまった。その後はロシアに戻れる日を夢見ながらパリで生活した。

 戦争や強制送還によるショックやトラウマ(心的外傷)が治ってくるに従って、周りの人に頼りきりで、ロシアにいた頃のように、活発に行動することができない自分が惨めに思えてきた。悩んだ末、パリを後にし、日本に帰国して再出発することに決めた。

 関西にも福島からの避難者は多い。既に移住を決めた人もいれば、福島への帰還を考えている人もいる。同じ日本国内なので、海外の難民のように外国に行って言葉が分からないとか、働く権利がないとかいうわけではない。

 しかし、たとえ就職できたとしても、福島で暮らしていた家のローンの残りを払い続け、家族を支えていくためには、給料の条件が厳しいという問題もある。父親だけが福島に残り、母子が避難生活を続けるなど、経済的にも精神的にも避難生活は家庭にとって大きな打撃である。

 「原発事故の一番の悲劇は家族がバラバラになってしまったことだ」

 とか、

 「原発事故は家庭を壊す」

 と、南相馬で言われたことが何度かあった。離れ離れの生活をしている人たちに向かって、それなら家族一緒にとどまるか、みんなで一緒に避難すればいいじゃないか、と簡単には言えない。地域に対して社会的責任を担っている職業の人や、家計を支えなければならない立場の人たち、若い自分たちの将来や、子供たちの将来を考えなければならない立場の人々の苦悩は大きく、複雑である。


会津若松市内の仮設住宅。真冬でも雪がほとんど降らない浜通りの人たちにとっては、避難先の豪雪に慣れるのが大変
 震災前まで孫と暮らしていたお年寄りは、孫と一緒にいられない寂しさだけではなく、気軽に遊びにおいでと誘えなくなったり、自分で作った野菜や果物を食べさせてあげられなくなったりなど、生きがいを奪われてしまったと言う。


泊まった仮設住宅の横にある畑。住人が震災前まで営んでいた農業に励むことで心身のケアをする目的で設けられた
半年間の生活で多くのことに気づいた

 実際に福島原発から20キロ地点に半年間生活してみて、多くのことに気づいた。私は17歳でチェルノブイリに行くくらいなので、放射能を必要以上に気にするほうではないのだが、むやみに体内に取り込まないように気をつけてはいる。

 南相馬で生活を始めた当初は水道水を飲まないようにしていたので、飲料水は購入し、自転車のカゴに積めるだけ積んで家まで運んでいた。しかし、夏になると使用量も増えてコストもかかり、炎天下の中を重い水を頻繁に運ぶことを苦痛に感じるようになった。そのため、次第に水道水を飲むようになっていった。

 2012年9月に、東京の知人から飲料水を1.5トン提供してもらったので、南相馬市と相馬市で住民に配ったことがあった。市役所の発表でも、水道水は常に放射能不検出という結果にもかかわらず、この時、多くの人が水をもらいにきた。水道水への不安は大きく、飲料水や生活用水を購入している住民が非常に多いことに気づかされた。ダムが山際の放射線量の高い飯舘村に近い地域にあるのだ。

 放射線量は私の家の外でも毎時0.09〜0.22マイクロシーベルトほどだったので、放射線量自体はあまり心配ではなかった。しかし、実際に暮らしてみると、余震がとても多く、1日に数回強く揺れることは日常茶飯事だった。

 地震や台風の時には途端に強い不安に襲われた。原発から20キロ地点では、再び原発に「もしも」のことがあれば、逃げ遅れてしまうに違いないのだから。とにかく、原発が爆発したり崩壊したりしませんようにと、ひたすら祈ることしかできない。こういった不安な気持ちは長く生活する中で分かったことだった。

 関西に引っ越す際には名残惜しさもあったが、安堵感もあった。余震におびえることも、放射能を気にすることもないので、震災や原発事故のことを忘れそうになる。それでも、新しく知り合う人々は私が東北出身だと知ると、真っ先に「震災の時、ご実家は大丈夫でしたか?」と気遣ってくれる。街中でも、「頑張ろう、東北」などと書いたステッカーを貼っている車を見かけることもある。遠くにいる他人を思いやってくれる人たちは確実にいる。


南相馬市の旧警戒区域以外の津波被災地域の復旧作業はかなり早く進んでいる
「人が住めなくなる土地」が日本にも生まれてしまった

 避難した人も、とどまっている人も、帰還した人も、誰もが安心できる暮らしを求めている。原発事故から2年がたつが、いまだに先の見えない不安を抱えた生活が続いている。13年前、初めてチェルノブイリを訪問した時、放射能汚染によって人が住めなくなる土地をこれ以上増やしてはならないと思った。私が青森で反原発運動にかかわるようになったのはその時の思いからだった。あれから10年、日本でも原発事故による被災地が生まれてしまった。

 「チェルノブイリの事故の時、どうして現地の人たちは強制移住区域に住み続けるんだろうと思ったけれど、実際にここで事故が起きたら、離れたくない気持ちが分かるようになった」

 と、南相馬にとどまっている人から聞いた。

 震災当時、私が落胆していると、日本には危ないから帰らないよう勧めたチェチェン難民が、
 「日本人はヒロシマやナガサキの経験があるのに、どうして核の脅威が分からなかったんだ」
 と言った。私たちは過去の経験から何を学んだのだろう。そして今も、世界の至るところで、故郷を追われた人たちがいる。私たちはそれを、ただのニュースとして、もしくは過ぎ去ってしまった歴史の1ページとしてしか、考えていなかったのだろうか。

 今度、10年ぶりにチェルノブイリを訪問する。どうしたら原発事故の被災者が安心して暮らしていけるのか。次はウクライナから考えていきたい。

(このコラムは今回で終了します)

■変更履歴
本文中で「ミリシーベルト」は「マイクロシーベルト」の誤りです。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2013/3/11 14:32]

菊池 由希子(きくち・ゆきこ)

ロシア語通訳、NGO「ダール・アズィーザ」事務局長。1983年青森県弘前市生まれ。2000年チェルノブイリ渡航。2002年〜08年、モスクワ国立大学留学。卒業資格「国際関係専門家」。2008〜10年パリ在住。10年9月より大阪大学大学院国際政策研究科博士後期課程在学。2011年10月、キルギス大統領選挙OSCE/ODIHR国際選挙監視団要員として日本政府より派遣される。ツイッターのアカウントはhttps://twitter.com/azizaroom


南相馬から世界を考える

東京から福島県南相馬市に移り住んだ著者が見る、原発事故後の南相馬の今と、南相馬から見た世界の今。ロシアで学び、チェチェンほかコーカサスの国々に詳しい著者ならではの視点で、「南相馬」を相対化しながら考えるコラム。


 

 


消えた震災がれきの謎

2013年3月11日(月)  石渡 正佳

 東日本大震災の発生から2年がたった。

 筆者は震災直後から6度にわたって東北地方のがれき処理の状況や復興の状況を現地調査し、復興がなかなか進まない現状を見てきた。国や自治体がこれまで明らかにしていた震災がれきの処理状況もはかばかしくない。

 まだ現場の混乱が続いていると思いきや、今年2月22日に環境省が発表した震災がれきの処理進捗率は、岩手県38.8%、宮城県51.1%、福島県30.9%、東北3県合計46.3%で、数字の上では急進展している。宮城県はわずか2カ月程度で20ポイントも進んだことになる。

 何か数字のマジックがあるのではないかと思い、2月末に再び東北を訪問した。

 被災地を回ってみてまず驚いたのは、震災がれきの処理が目に見えて進展していたことだ。岩手県と宮城県の現地を見るかぎり、どの被災地でも震災がれきの撤去はほぼ完了していた。一次仮置き場に十数メートルの高さに積み上げられていた震災がれきもすっかり消えていた。

 環境省発表の数字の上では、未処理の震災がれきがまだ半分残っているはずなのだが、一次仮置き場の震災がれきはどこに行っても見当たらず、二次仮置き場(仮設処理施設)で見られる震災がれきの山も小さかった。震災がれきを満載して走るダンプトラックの数も減ったように感じた。現地では環境省発表の数字以上に処理が進展しているという印象を受けた。


震災直後の陸前高田駅周辺(2011年5月)

がれきは片付いたがまだ復興は始まらない陸前高田市(今年2月)
 震災がれきは、どこに行ってしまったのか。それを考える前に、これまでのがれき処理の状況を振り返ってみよう。

進んでいなかったはずのがれき処理

 震災発生直後、阪神淡路大震災を超える莫大な量の震災がれきの発生に、国も地方自治体も途方に暮れた。その量は東北地方の中核都市の通常年の一般廃棄物発生量の30年分とも100年分とも報じられた。震災がれきの処理責任がある市町村の対応能力を超えていることは明らかだったため、国直轄処理、県委託処理、広域処理協力など、さまざまな支援措置が講じられた。

 しかし国直轄処理は民主党政権の方針が二転三転して迷走したあげく、鳴り物入りで「がれき処理特別措置法」が成立したものの、国に期待を表明していた宮城県は既に時機を逸していて見送りとなり、福島県の2市町村で3基の焼却炉が建設されるにとどまっている。県委託処理は宮城県の12市町、岩手県の7市町村が参加したものの、用地買収の遅れなどから本格的に立ち上がったのは震災後1年以上過ぎてからだった。広域処理協力は環境省の依頼に応えて東京都をはじめ多数の自治体が受け入れ表明し、当初は義勇軍の様相を呈したものの、放射能拡散懸念から住民に拒絶されて頓挫する例が相次ぎ、被災地での域内処理の体制が整ったため、現在はほぼ手じまいとなっている。

 筆者も震災直後の現地を訪れたとき、莫大な量の震災がれきや津波堆積物を目の当たりにしてあ然とし、広域協力による早期処理(2年間で処理終了)の必要性を訴えた。

 震災1年後の昨年3月の時点では、処理が順調に進捗していたのは仙台市だけだった。宮城県が計画した29基の仮設焼却炉はようやく一部が試験運転を始めた程度で、岩手県では頼みとした太平洋セメント大船渡工場の2基のキルン炉が2011年末に完全復旧したばかりだった。また、両県に対する広域処理協力も限定的なものにとどまっていた。福島県にいたってはほとんど処理は手付かずで、放射能問題から広域処理も頼めなかった。この結果、3県合計の処理進捗率は震災1年後の時点ではまだせいぜい10%だった。環境省は震災がれきの処理終了目標を震災発生から3年後の2014年3月とし、各自治体も同時期を処理終了目標としていたが、目標達成を危ぶむ声が多く聞かれた。

 その後、岩手県では完全稼動した太平洋セメント大船渡工場をセンターとして、二次仮置き場での破砕選別処理(セメント原料化)が本格化した。しかし昨年12月、火災によって処理が休止するというハプニングがあった。


撤去した廃棄物に埋もれていた南三陸町(2012年8月)
 宮城県でも昨年4月以降、仮設焼却炉や破砕選別処理施設が順次稼動を開始し、8月ごろには大半の施設が本格稼働した。しかし、二次廃棄物(処理残渣)を出さない完全リサイクルのセメント工場と違って、宮城県の仮設処理施設は不燃がれきや焼却灰の最終処分先が確保できないという問題を抱えていた。こうしたボトルネックのため、宮城県は昨年12月の県議会で、12市町から受託した震災がれき処理進捗率が30%にとどまっていると報告していた。

 それなのになぜ、震災がれきの処理は年明けから急進展したのか。

震災がれき処理急進展の真相

 実は処理が進展したのではなく、震災がれき発生推計量が下方修正されたのである。

 東北3県37市町村の災害廃棄物発生推計量を、震災直後の2011年6月時点と今年2月時点で比較すると、東北3県合計では2183万tから1628万t(−555万t)、岩手県では446万tから366万t(−80万t)、宮城県では1509万tから1102万t(−407万t)、福島県では228万tから160万t(−68万t)と、3県平均25%も減少している。

 なぜ、このような大幅な下方修正となったのか。第一の理由は、当初の発生推計量は航空写真による被災面積に、これまでの災害の経験を踏まえた係数をかけて割り出したものだったが、その後、撤去実績数値に徐々に置き換えられたのである。昨年中から何度か下方修正されてきたが、年明けの修正は特に大きかった。

 第二の理由は、当初の発生推計量は被災建物の基礎まで除却することを想定していたが、全滅市街地では基礎を除却してしまうと宅地の境界が不明になることや、撤去工期を短縮する観点から、基礎を除却しない現場が増えたからである。戸建て住宅の場合、基礎は住宅全体の3割程度の重さにもなるので、基礎を撤去するかしないかでは震災がれき量は大きく違ってくるのである。


最後まで残っていた高田松原のホテル解体
 震災がれき発生推計量はかなり下方修正されたが、現地の未処理がれきがもっと少なく見えたということは、これからさらに分母が下方修正される可能性を示唆している。撤去に同意しない被災建物もかなりあること、処理施設ができる前から道路や仮設施設の造成などに有効利用されたコンクリートがれきなどの量が処理量にカウントされていないことなども、震災がれき発生推計量や処理進捗率の誤差となっている。

 震災がれき発生推計量が下方修正された結果、広域処理協力を中止する動きや、処理終了目標(2014年3月)を前倒しする動きが出ている。環境省発表の広域処理協力状況は、2月22日現在、実施済み、実施中、実施決定済みの自治体が1都1府13県65件、受け入れ見込み量約62万t(岩手県分約29万t、宮城県分約33t)、受け入れ済量約25万tとなっている。このほか協力表明済みが1都1県4件、試験処理実施済みが2県2件ある。環境省は広域処理協力を震災がれき処理の切り札として推進していたが、結果的にはいまひとつ広がりを見せず、協力表明済みなどを含めても全国で71件にとどまっている。

 岩手・宮城両県とも、広域処理協力量を含めて処理終了目標を達成する計画なので、広域処理協力はまだ必要だとしている。しかし、これはお願いしておいていまさら要らないとも言えないから、表向き必要と言っているにすぎない。岩手、宮城両県で487万tも発生推計量が下方修正されたのに、数十万t程度の広域処理協力がまだ必要だというのは意味がない。高い運搬費がかかる広域処理は、本音を言えば全面的に休止し、県内処理に切り替えたいのである。すでに両県とも新規の協力要請は見合わせており、宮城県は4月から可燃物の広域処理を中止すると発表している。

がれき処理施設が余ってしまった

 震災がれき発生量が当初推計されたほど多くなく、処理が予定より早く終わる見込みとなったのは良いことだと思うかもしれない。だが、過大な推計に基づいて過大な施設を建設し、過剰な人員を雇用したことは税金のムダ遣いである。


宮城県が石巻市に建設した全国最大規模の破砕選別施設
 最大の震災がれきが発生した宮城県は、県下の12市町からの震災がれき処理受託量を1107万tと見積もって、県下を4ブロック8処理区に分け、処理をゼネコンなどで構成されるジョイントベンチャーにプロポーザル(企画提案型入札)で発注し、仮設焼却炉29基(焼却能力1日4495t)、破砕・選別施設12カ所を建設した。言葉は悪いが、いわゆる丸投げである。ところが、今年1月の見直しでは受託処理量が582万tに下方修正され、減少率は47%にもなってしまった。つまり、単純計算で仮設処理施設の能力は半分でよく、予算も半分で足りたことになるのである。

 国はこれまでに1兆821億円の震災廃棄物処理事業費を計上している。震災がれき発生量が下方修正されても、予算は減額されない。すでに過大推計に基づいて施設を建設してしまったからである。筆者も震災直後に、災害廃棄物処理事業費は最大1兆円と予測したことがあるので呵責を感じる。


宮城県が石巻市に建設した仮設焼却炉
 現場では過大施設の別の問題が生じている。焼却炉は一定以上の廃棄物がないと定常運転ができず、休止する可能性があるのだ。実際、宮城県では焼却する廃棄物が不足する処理区が出ており、他地区から廃棄物を融通したり、震災がれき以外も処理しようという案も出ている。また早く処理が終わってしまうと、雇用の問題が出るので、予定通りの処理期間にするため処理をペースダウンせよという指示が出たとも聞く。声高には言えないことであるが、これが消えた震災がれきの真相である。

 その一方、道路や宅地の嵩上げ工事のため、震災がれきや津波堆積物から再生したグリ(砕石)や土砂は引く手あまたの人気商品となっている。再生資材の品薄は、今後の復興のスケジュールにも影響を与える問題であり、国土交通省は全国の公共事業から発生する再生資材や残土を東北地方へと海上運搬する検討に入っている。莫大な震災がれきを前にして茫然自失していた状況から一転して、廃棄物が足らない事態となっているのである。

 それにしても仮設処理施設を着工する前に震災がれきの発生量を見直すチャンスはなかったのだろうか。需要の変化を検証せず、オーバースペックの無用な施設を既定方針どおりに建設して税金をムダ遣いしたというのは、どこかで聞いた話である。一度計上した予算は減額せず、ムダとわかっても予算を使い切るのが仕事だと勘違いしている職員は国にも自治体にも少なくない。予算をチェックすべき財務官僚も、一度付けた予算は減額しようとしない。それどころか、予算を余らせることを厳しくとがめる。予算を減額補正したり、不用額や事故繰越を発生させたりすることは、予算査定が甘かったことになり、財務省の無謬(むびゅう)主義に傷がつくからだ。この無謬主義という幻想を守るために、どれほどの予算がムダになったことだろう。

 災害廃棄物処理事業と同じような過大見積もりによる復興予算の暴走は、今後の復興工事でも起こるに違いない。それを事前にチェックする機能は行政にはないのである。


石渡 正佳(いしわた・まさよし)

千葉県河川海岸管理室長(元産廃Gメン)。1958年千葉県生まれ。産廃Gメン時代に出版した『産廃コネクション』(2002年)が2003年「日経BP・BizTech図書賞」を受賞。ほか多数の著書あり。日経BP環境経営フォーラムアドバイザー。


東日本大震災から2年、疑問符だらけの東北の復興

今年2月22日、環境省が発表した震災がれきの処理進捗率は、岩手県38.8%、宮城県51.1%、福島県30.9%、東北3県合計46.3%だ。数字の上では急進展した。宮城県はわずか2カ月程度で20ポイントも進捗したことになる。何か数字のマジックがあるのではないかと思い、2月末に東北地方を現地調査した。筆者7度目の訪問である。

 


震災復興、絆の復活は至難のわざ

阪神大震災被災地になお残る「ソーシャル・キャピタル」崩壊の傷跡

2013年3月11日(月)  佐々木 勝

 「いつになったら元の生活に戻れるのだろうか・・・。」 

 東日本大震災が東日本に甚大な被害を及ぼしてから2年が経ったが、まだまだ多くの被災者が仮設住宅に住んだり、故郷から離れた土地で慣れない生活を送ったりしている。雇用の面でも被災地では建築関連の求人が増加しているが、雇用のミスマッチのせいなのかなかなか雇用関係の成立までにつながらない。震災で職を失った多くの被災者はまだ求職中だ。

 これだけ大きな災害に見舞われたのだから、被災地が完全に復旧・復興するのに長い年月を必要とすることは誰もが承知している。しかし、いつになれば震災以前の普段の生活の戻るのか。それがわかる何かタイム・ラインみたいなものが欲しい。そろそろ東日本大震災の長期的な影響を議論する時期にきている。

 その議論のガイドラインとして、私を含む研究グループ(大竹文雄大阪大学教授、奥山尚子大阪大学助教、安井健悟立命館大学准教授)は、18年前に発生した阪神・淡路大震災のその後に注目した。発生から長い年月を経た今、被災者は震災以前の生活に戻れたのかどうかを、独自のオンライン・アンケート調査から探った。アンケート調査は2012年3月に実施した。震災発生してから17年後の状況と震災直前の状況を比較したのである。

 もちろん、阪神・淡路大震災と東日本大震災では、災害の規模、二次災害の種類、被災地の産業構造や人口分布、時代背景など相違点は多い。したがって、阪神・淡路大震災からの復興過程がそのまま東日本大震災の復興過程に当てはまるとは我々も考えていない。しかし、時代背景があまり変わらない程度のタイミングに発生し、かつある程度の長期的な影響を検証するのに耐えうる年月が経った大震災となると、阪神・淡路大震災しか考えられない。

 被災地における阪神・淡路大震災からの復興過程をたどることで、東日本大震災の復興にかかる時間をできるだけ短縮できるような長期的ビジョンを描くのに、少しでも役に立てればと思う。

東日本大震災復興を実現するためのビジョンを探る

 我々は公式に被災地域と認定された10市10町(神戸市、明石市、三木市、洲本市、芦屋市、西宮市、尼崎市、宝塚市、伊丹市、川西市、津名町、淡路町、北淡町、一宮町、五色町、東浦町、緑町、西淡町、三原町、南淡町)に震災当時住んでいた人だけを調査の対象者とした。そして、被災したグループと被災しなかったグループの生活水準の推移を比較することで、震災の長期的な影響を分析した。

 注目した変数は、年間所得と個人が有する「ソーシャル・キャピタル」(社会関連資本)である。ここで言うソーシャル・キャピタルとは、近所や友人との付き合いを意味し、時間的コストと金銭的なコストを費やしてコミュニケーション能力を養った結果、その投資のリターンとして人々の交流から得られる幸福度と解釈する。

 東日本大震災の発生以降、盛んに「絆」という言葉が叫ばれた。人々の助け合いや思いやりがどれほど重要であるかを、震災により実感したからであろう。阪神・淡路大震災の時には、仮設住宅での孤独死が大きな社会問題となった。震災によって地域社会が崩壊し、被災者はこれまで蓄積してきたソーシャル・キャピタルを失ってしまったからだ。被災者は地元から離れて仮設住宅に住むと新たな人間関係を築かなければいけない。すなわち、新たなソーシャル・キャピタルを蓄積しなければいけないのである。

 阪神・淡路大震災による地域社会や友人関係の崩壊は、17年経って震災以前の水準に回復し、再び深い絆で結びついているのだろうか。そして絆の回復が被災者の幸福度にどのように影響を及ばしているのだろうか。

震災直前と調査時点の回答を基に数値化

 分析対象者のソーシャル・キャピタルのデータを収集するために、我々はアンケート調査から震災直前と調査時点のそれぞれで「近所の人と世間話をするか」、「近所にお裾分けをしたり、お土産をあげたりもらったりするか」、「友人と買い物、食事、旅行に行くか」、「町のイベントに参加するか」、「スポーツや趣味のサークル活動に参加するか」、「自治会や町内会の活動に参加しているか」、「地域でボランティア活動しているか」を尋ね、「よくあった」から「全くなかった」の5段階評価で回答してもらった。

 図1は震災直前におけるこれらの質問に対する回答の割合を示す。その回答をもとに成分分析から各個人の「近所とのソーシャル・キャピタル」と「友人とのソーシャル・キャピタル」を震災直前と調査時点それぞれで数値化した。

図1

阪神・淡路大震災発生当時(直前)の習慣や組織・活動への参加(10市10町)
(震災発生当時、10市10町に居住していた回答者)
 今回、「被災」は「居住地の被災」だけに限定して定義した。そして、居住地が「全壊・全焼」した場合、「半壊・半焼」した場合、そして軽微な被災である「一部損害」した場合の3つに分けた。

 図2は居住地の被災状況を示す。全壊・全焼は9.3%、半壊・半焼は17.6%、一部損壊は42.8%であった。そして、残りの30.4%は震災により居住地に被害はなかったと回答した。

 もちろん、被災の形は様々である。たとえ居住地が被災していなくても、家族や友人との死別は大きな心の傷となるし、職場や職場までの道のりが破壊されていた場合でも被災したことは間違いない。今後の研究としてこれらの被災変数も取り込んでいきたいと考えている。

図2

損壊状況(10市10町)
(震災発生当時、10市10町に居住していた回答者)
 これまでの研究結果をまとめた結果、以下のことが分かった。阪神・淡路大震災は、地域社会で培われてきたソーシャル・キャピタルを破壊した。17年の歳月をかけて徐々に回復してきたが、震災直前の水準までにはまだ戻っていない。それは友人関係のソーシャル・キャピタルに関しても同じ事が言えるものの、統計学的にその結果は強く支持されなかった――。

 阪神・淡路大震災によって多くの地域社会は崩壊した。その後、被災者は元の地域に戻り、地域のネットワークを再生しようとしたかもしれない。または、元の地域には戻らず新しい地域で新しい繋がりを築き始めたかもしれない。しかし、震災から17年経った時点でも、震災以前ほどの地域の繋がりを取り戻すことはできていないのである。つまり、「地域との繋がり」の観点からすると、震災による負の影響はまだ続いていると考えられる。

ソーシャル・キャピタルの減少は、幸福度を下げる

 また、ソーシャル・キャピタルと調査当時の幸福度の関係を検証した結果、地域と友人関係のどちらともソーシャル・キャピタルの減少は幸福度を引き下げることがわかった。前の結果も踏まえると、阪神・淡路大震災によって地域のソーシャル・キャピタルが崩壊し、それは17年経た時点でも完全に回復していなかった。それは震災がなければ享受できたはずの幸福度は今の幸福度に比べてもっと高かったことを意味する。

 阪神・淡路大震災の復旧・復興のペースは速かったという意見がある。震災によって横倒しとなった阪神高速道路や液状化したメリケン波止場は早急に復旧した記憶がある。しかし、近所や友人との繋がりという側面からすると、被災者に対する阪神・淡路大震災の負の影響は今でも残っていると言えるだろう。この教訓を踏まえ、東日本大震災の復興計画では、インフラなどの「ハード」の部分だけでなく、ソーシャル・キャピタルのような「ソフト」の部分にも十分配慮する必要がある。


佐々木 勝(ささき・まさる)

大阪大学大学院経済学研究科教授。ジョージタウン大学でPh.D(経済学)取得。世界銀行、アジア開発銀行、関西大学、大阪大学社会経済研究所を経て2011年4月から現職。専門は労働経済学。


「気鋭の論点」

経済学の最新知識を分かりやすく解説するコラムです。執筆者は、研究の一線で活躍する気鋭の若手経済学者たち。それぞれのテーマの中には一見難しい理論に見えるものもありますが、私たちの仕事や暮らしを考える上で役立つ身近なテーマもたくさんあります。意外なところに経済学が生かされていることも分かるはずです。


 

 

製造業、福島回帰のワケ

2013年3月11日(月)  張 勇祥 、 山根 小雪

東日本大震災から丸2年。福島県に企業が少しずつ戻り始めた。手厚い補助金だけが目的ではない。産業集積や物流網を評価し、投資している。ただ、海外からの風評被害など依然障害も。復興へ向けた課題は多い。

 福島県郡山市中心部からクルマで20〜30分の郡山西部第2工業団地。この地で計測器大手、アンリツの新工場建設が急ピッチで進んでいる。現在は建屋の鉄骨が組み上がったところで、今夏の操業開始を目指している。

 新工場は、7万平方メートルの敷地に30億円強を投資して建設する。これからも需要の伸びが期待されるスマートフォンの生産検査に使う装置部品を生産する計画だ。郡山市中心部にほど近い既存工場と合わせ、国内外の製造拠点におけるマザー工場と位置づける。


アンリツは郡山市に新工場を建設中。今夏の操業開始を目指す
 経営企画室の佐野道彦部長は、福島県内での工場立地について「会社にとって、とても重要な決断だった」と振り返る。2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴って東京電力・福島第1原子力発電所の事故が起き、多くの企業が福島県内での投資をやめたり、撤退したりした。それにもかかわらず、なぜ今、福島なのか。

 1つの理由は、福島県内に工場を新増設する企業に対して、最大で初期投資の4分の3を補助する制度の存在だ。県は経済産業省の補助制度を活用し「ふくしま産業復興企業立地補助金」を創設した。アンリツはこの制度を使い、新工場への30億円強の初期投資額のうち、14億〜15億円を補助金として受け取る予定だ。

 この制度は、工場立地時の補助金としては、かつてないほど手厚いものだ。それでも、今後長期にわたって生産を続けていくことを考えると、「補助金の存在だけが投資に踏み切った理由ではない」(佐野部長)という。

産業集積、物流網は東北一

 アンリツは新工場の立地を選ぶに当たり、関東地方の県も含め、多くの地域を検討した。それでも、最終的に福島県に決めたのは、「納期の短縮が実現しやすい場所」だと考えたためだ。

 福島県は地の利の良さから、製造業が集積してきた歴史がある。アンリツも、部品を調達しやすく、顧客の企業へのアクセスも良い立地条件が、ほかの場所では替え難いと判断した。

 物流網を見ると、ほかの東北の県に比べ、関東はもちろんのこと、関西の大市場へも行き来がしやすい。東京から福島県へは東北自動車道が通じ、磐越自動車道で新潟を経由すれば、渋滞などのリスクがある東名高速道路を利用せずに関西圏へも通じる。人の移動でも、東京から福島まで新幹線で約1時間半と便が良い。

 福島県内での投資を決めた製造業はアンリツだけではない。震災で被害を受けた生産設備、工場の再建を含めると、京セラケミカルやコマツ、昭和電工、クレハなどが福島県内に新増設することを決めている。


 中小企業も動く。福島第1原発に近い飯舘村に主力工場を持ち、震災後の2011年10月に株式を上場したことで知られる菊池製作所は、同県川内村に工場を新設。国内外で特許を持つアルミ精密鋳造技術「アルミ・ホットチャンバー・ダイカスト」加工を手がける。昨年11月末に開所式を実施し、30人を雇用している。

 福島県は既に300件近い補助金の申請を採択した。原則、補助金1億円当たり1人以上の正規雇用を交付の条件としており、4000人超の正規雇用が生まれる見通しだ。雇用の創出は、被災し仕事を失った人々にとって、何物にも替え難い復興策だろう。

 福島県企業立地課の永山幾男主幹は、「企業誘致によって製造業が再生すれば、サービス業などへの波及効果も見込める」と期待を寄せる。雇用創出効果も広がる可能性が高い。

 日本政策投資銀行東北支店がまとめた2012年度の設備投資計画調査によると、新潟を含む東北7県への投資額は全産業ベースで前年度比3%増。この中で、福島県は2962億円と前年度比21%増えた。

 ただし、福島経済が本当に立ち直るためには課題が山積している。

 県は企業立地への補助金を2013年度も存続する予定だが、交付要件は徐々に厳しくする見通しだ。企業の投資を後押しする効果も乏しくなりかねない。

 また、震災によって一時的に3万〜4万の雇用が失われたとされ、今もその回復は途上だ。2012年の鉱工業生産指数は2011年を上回ったが、震災前の水準は回復できていない。

 企業の投資先が内陸部に偏る問題も浮上している。原発事故と津波の被害を直接受けた浜通り地方への経済的恩恵は限られ、県内の経済格差が広がる恐れも出ている。

地元貢献通じ、企業活力も高める

 風評被害も依然として大きな問題だ。福島県内に拠点を置くある製造業は、納入先の海外企業に「原発から80km以上離れたところで製造したものでないと受け入れない」と言われた。

 風評被害にとりわけ敏感な食品や医薬品メーカーが福島県内に新規投資をするのは簡単ではない。そこを乗り越えられるか。企業の姿勢も問われる。

 アンリツには福島県への投資を決めたもう1つの理由がある。多くの社員から「福島のために頑張りたい、頑張らなければならない」という声が寄せられたことだ。もともと郡山市に工場があり、地元に縁のある社員も少なくない。風評リスクがあっても、復興への思いが社員のやる気を高め、生産性向上につながる可能性に賭けた。

 こうした企業が福島で投資に動き出せば、復興への後押しになる。企業にとっても、大きな被害を受けた福島へ貢献するやりがいが、活力を引き出す契機になる。福島で投資する理由は、いくつもある。

大橋 徹二[コマツ次期社長(専務執行役員)]に聞く
復興需要、ピークは2〜3年続く
 東日本大震災の復興需要が発生しており、建設機械の国内需要は上がっていくだろう。

 昨年は基本的に瓦礫処理のために建機が使われていた。ここにきて、岩手県陸前高田市のように高台移転という苦渋の決断を下す自治体が出てきた。


 現在、家庭や市町村などで様々な議論が交わされ、そのプロセスがまだ進んでいる最中というところもあるだろう。今後は自治体のそうした決断が増えていくと見ている。

 高台移転が決まると、今度は宅地などを造成することになる。そのため、工事の内容が瓦礫処理とは変わってくる。油圧ショベルは既にレンタルを通じて東日本に集まっているが、高台移転では、新たにブルドーザーなどの需要が増える。

 実際の需要がどれほどかはまだ分からないが、ピークは2〜3年ぐらい続くのではないだろうか。土地の取得から測量、設計、造成といった手順を進めるだけで、1〜2年は軽くかかる。移転を決めていない自治体もまだ多い。

 安倍晋三首相の下で補正予算が成立し、今後は新年度予算案を決めていくことになる。アベノミクスでは、公共投資の中身を見直すが、必要なものはやっていく方針と聞く。ゼネコンなどを中心に、需要が盛り上がるとの期待感は強い。

(聞き手は 広岡 延隆)

山根 小雪(やまね・さゆき)

日経ビジネス記者。

張 勇祥(ちょう・ゆうしょう)

日経ビジネス記者


時事深層

“ここさえ読めば毎週のニュースの本質がわかる”―ニュース連動の解説記事。日経ビジネス編集部が、景気、業界再編の動きから最新マーケティング動向やヒット商品まで幅広くウォッチ。


03. 2013年3月11日 16:22:00 : kPOeurwFuo
【第1回】 2013年3月11日 開沼 博,初沢亜利
「被災者」という名前の人間はどこにもいない
“お涙頂戴”で切り捨てられた真実に迫る写真家
原発立地地域をはじめ、売春島、偽装結婚、ホームレスギャル、シェアハウスと貧困ビジネスといった、好奇の眼差しにさらされる、あるいは、「見て見ぬふり」をされている存在に迫り続ける社会学者・開沼博。同じく、イラク戦争、北朝鮮、被災地のように、決まりきったストーリーでしか語られない事象の真実を切り取る写真家・初沢亜利。目の前の対象と真摯に向きあう2人が、美しい“お涙頂戴”の震災報道で切り捨てられたものの本質を語る。

大学のサークルがきっかけで写真家の道へ

開沼 亜利さんは何歳から写真を始めたんですか?

初沢 23歳位です。大学4年生の終わりに上智大学の写真サークルに入ったのが最初でした。自分の住んでいる街をちょろちょろと撮り始めて。

開沼 大学3年生までは?

初沢 比較的真面目に勉強していたのと、グリークラブで男声合唱を。

開沼 歌ってたんですか?初耳です(笑)。


初沢氏が写真家を志すきっかけとなった1枚
(作品「Tokyo Poesie」より)
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初沢 初耳?(笑)。一体どうして写真をやり始めたのかなぁ。そう、写真を始めて2ヵ月位で、上智大学の前の横断歩道を渡っていたら、下校時間に楽しそうに話していた3人の小学生の女の子がいて、ガードレールに上ってパッと写真を撮ったんです。でも、数日後にフィルムを現像して、液体の中で浮き上がってくる写真を見て「あれ?」っと思いました。3人が3人とも別の方向を向いているんですよ。自分が撮ったのに、自分が撮ろうとしたものとはズレたものが映っている。一見仲が良さそうに見える子どもたちだけど、実は人生はそれぞれの道に向かっている、と解釈もできる一枚。でもそれだけではない、何ともざわついた感情が自分の中から沸き上がってきました。写真とは、対象にカメラを向けるなかで、結局は自分の内側を探っていく行為なんです。

開沼 頭の中で想像していた像と、実際に現場で写してしまった像とのギャップへの面白さ。これは学問やノンフィクションの面白さにも通じそうですね。就職活動は?


初沢亜利(はつざわ・あり)
1973年フランス・パリ生まれ。上智大学文学部社会学科卒。第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て写真家としての活動を開始する。
写真集・書籍に『隣人。38度線の北』(徳間書店)、イラク戦争の開戦前・戦中のバグダッドを撮影した『Baghdad2003』(碧天舎)、衆議院議員・福田衣里子氏の選挙戦から当選までを追った同氏との共著『覚悟。』(徳間書店)、東日本大震災の発生翌日から被災地に滞在し撮影した『True Feelings』(三栄書房)。
初沢 まったくやってませんでした。

開沼 どうするつもりだったんですか?

初沢 とにかくサラリーマンにはなりたくなかったんですよね。自分で表現できることはないかと4年間模索はしてましたけど、結局5年目、6年目で写真をやったんですよ。留年したわけです。そこで必死に2年間やって、『太陽』という雑誌の賞にノミネートされて、審査員の荒木経惟さんが絶賛してくれたんです。偉大な評価とは人の人生を狂わせるもので、これはちょっとやってみたほうがいいんじゃないかと急に自信過剰になりました。そういった評価を受けるといけるかもと思ってしまうんです。

開沼 意図しないものが写るという面白さと、それが評価されたことへの面白さがあったと。そもそもは、なぜ写真に興味を持ったんですか?

初沢 写真を見るのが好きでした。そこから、「撮ってみたらどうなるかなぁ」という感じです。卒業してもしばらくは作品を作り続けていて、3年後にカラー作品で「ユマニテ」という写真展をやりましたが、あまり評価されることもなく。結局、評価されない限りは商業カメラマンをするしかないので、しばらくは雑誌などでグラビアや好きな車を撮っていました。

新宿・ゴールデン街で誘われてイラク訪問

初沢 でも、そのサイクルに入ってしまうと、クライアントの要求に忠実になっていきます。最初にあった自意識過剰な脳の働きが徐々に失われて、数年が経っていました。そんな時、僕が30歳も手前のころ、新宿・ゴールデン街の行きつけの飲み屋で、新右翼団体「一水会」代表の木村三浩さんから「反戦運動をイラクでやるからカメラマンを一人連れて行きたいが、報道の人は連れて行きたくない」と言われました。2002年の終わりです。

開沼 その方とは初対面だったんですか?


初沢 いえ、店で何度もお会いしていました。その人から「行くか?」と言われて、何となく今の日常から抜け出したいという想いもあり、行くことを決めました。すると、イラクから帰ってから3週間後に戦争が始まり、誘われたので写真展を開きました。その写真展にはいくつかのテレビ局が取材に来てくれましたけど、「どうですか?こんな楽しそうに暮らしていた所に、こんなものが降ってくるんですよ」と“お涙頂戴”に持ってかれて、気がついたら「反戦カメラマン」になっていましたね。

 その時にイラクに行ったメンバーは右も左もごった混ぜで、僕は特に思想的なベースがあったわけでもないけど、彼らは「反米」という点だけが一致していました。そのメンバーの中で、開戦後もイラクに行ったのは僕だけです。

開沼 どれくらいの期間で2回目に行ったんですか?

初沢 開戦から2ヵ月後です。

開沼 2ヵ月も経ってから?3週間前に行ってるから、もう一回頑張ろうという気持ちですか?

初沢 戦争が終わったらすぐに行こうと思っていました。テレビの報道なんて信用していませんでしたけど、とにかく自分の目で見てみようと。開戦の直前に行ってカメラを向けていた責任感、愛着もありました。

開沼 1回目に行ったところと同じ場所に行ったんですか?

初沢 そうそう、バグダッド。1回目に行った時に、「もうすぐ戦争だけど、あなたたちは逃げなくていいの?怖くないの?」といろんな人に質問しましたけど、「我々は血と魂を捧げてサダムを守る」とみんな言うわけです。「実際どうなんだろう」とその時は思っていて、もしかすると、アメリカが戦争をしてくれることを彼らは待ち望んでいるのではという想いもありました。戦後に行った時、彼らの発言がどれくらい変わっているのか知りたかったんです。

「被災地に略奪はない」報道が切り捨てた事実

開沼 実際に行ってみてどうでしたか?

初沢 それは、解放されてワーと喜んでましたよ。そこから数ヵ月後ですね、「アメリカ出てけー」ってなるのは。

開沼 解放のカタルシスの熱狂が冷めてみたら、米国がこれまでと違うものを築きあげようとし始めていたわけですね。しかし、その時のイラクには報道カメラマンも結構行ってたんじゃないですか?

初沢 僕が帰って来たのは開戦の3週間前で、その後ですね。「人間の盾」が入っていったのと同じ位です。この日がXデーだと決まってから報道の人たちも入っていったと思います。パレスチナホテルで、川の向こうの宮殿が爆撃された映像もありましたね。


開沼 博 (かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年〜)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
開沼 なるほど。そういう映像と、写真家としての亜利さんの仕事は何が違うんですか。自分の中でどう位置付けてます?

初沢 カメラマンである前に、いち市民として、その国を旅行した時の感覚なんかを大事に写真を撮ったほうがいいんじゃないかと。「この国はこういう国だから、こういう風に撮らなければいけない」。そういう気持ちにどうしてなるのかわかりません。

開沼 まったく同感、わからないですね。わからないけど、どうしても「これはこう撮るべき」という事前に決まったお約束に従って撮られてしまう。世に出回っている被災地の写真だって、途中から「これは完全にお約束の絵を作りにいってるな」というものも増えてきた記憶があります。そうしないと商品価値を持たないという単純な話なんでしょうけど、それはどうすれば乗り越えられるんですかね?

初沢 重要なのは撮影行為が自発的であるかどうかです。そこに表現者かどうかの根本的な違いがあります。撮ってしっくりこなければ出さなきゃいい。新聞社のカメラマンが抱えている、いわゆる社内的な責任みたいなものが一切ないわけです。どこまで感じたままに撮れるか、だけが自分としての勝負になる。

 でもこれって案外簡単じゃないんですよね。僕が被災地に入ったのは震災翌日でした。最初に入ったのは宮城県の名取です。新聞社のカメラマンも同じタイミングで入っていて、みんな翌日の朝刊の一面を争っているんですね。「何を撮りたいか」ではなく、「何が使われるか」を考えながらシャッターを切っている。僕の場合は、誰かに行けとも言われていないので、目の前の現実と自分との間に折り合いがつくかどうかでカメラを構えればいい。

 でも、実際は何を撮っていいのかわからなかった。あそこまで悲惨だと、悲しみというのが湧いてこない。感情が反応しようがないというか。何を感じて、どこでシャッターを押せばいいのかもわからないんです。瓦礫で埋め尽くされた荒野を何時間も歩きながら、静けさだけを噛み締めていました。風の音しか聞こえてこない。ある意味で穏やかな時間でしたが、あちらこちらに遺体が横たわっている。不思議な感覚でした。

 当時の写真を見ると、ある種の美意識や世界観が無意識のなかで映し込まれています。結構きれいな写真を撮っちゃっているんですよ。写真を確認するたびに、戸惑いが深まっていきました。同時に、カップラーメンの倉庫から、みんながうわぁーとカップラーメンを盗んでいく写真も撮ったりしました。震災直後で「略奪はなかった」という話になっているので、この辺は切り捨てられるんですよ。報道に切り捨てられるものも含めて、1つひとつ押さえていきました。


開沼 みんなが示し合わせたように、略奪の事実を外に出さないようにした。これは必ずしも、トップダウンの情報統制のようなものだけでは説明できないと思うんですね。つまり、自主規制的なところで動いた。その意思決定の背景にはどんな構造があると思いますか?

初沢 う〜ん、最初の頃は、被害状況が先だというのがありました。それを見た人たちが、「これは大変だ、何か物資を持っていかなければ」という気持ちにさせるような報道に終始したと思います。それはそれで全然間違ったことではないんですけど、それがだんだん、2ヵ月、3ヵ月で「希望」の発信に変わっていきました。

メディアへの疑問から1年間の滞在を決意

初沢 あぜんとしたことがあります。震災4日目くらいで、仙台駅前の東横インがやっとオープンしたころです。テレビ局のスタッフがロビーで打ち合わせをしていて、ちょっと年配のディレクターが、「阪神大震災の経験からすると、何日目がこんな感じで、1ヵ月目がこんな感じ。だからこういう情報を集めてこい」と大きな声で指示していました。非常に腹立たしかったね。マスメディアはストーリーを最初に作ってそこに当てはめていくと聞いてはいたけど、打ち合わせ現場を目の当たりにすると、ずいぶんと問題が多いなと。

 だからこそ、1年位はどういう風に人間の心理が変わったのかを見たほうがいいかなと思いました。でもそうすると、単に対象としての被災地にシャッターを向けていくことから、だんだん知人が増えていって、片足くらいは向こうに入ってくる。同化することはできないし、同化するわけにもいかない。外から見ているのと、内から見ているのと、ちょうど曖昧な境界を漂っているような感じです。

開沼 どういう接触をして、どういう位置付けで関わっていったんですか?

初沢 スナックで出会った居酒屋を経営しているおっちゃんと仲良くなったり、写真をFacebookに時々公開していたら、写真の専門学校を卒業した気仙沼の人から、「いつも写真を見ています。ぜひお会いしましょう」とメッセージを送ってくれて、「案内してくれませんか?」と言ったら「ぜひ」となったり。でも、5月、6月、7月位は何も変わらないんです。雑草が生えて、瓦礫が撤去されてはいるけど、相当骨が折れる作業でした。ちょうどその時に開沼さんとお会いしました。

開沼 それから福島にも来るようになったんですよね。

初沢 そう。20キロ圏内の検問近くにあるホテルは今も行っていますか?

開沼 最近は行ってないですね。近くにある火力発電所などの復旧工事関係者が、2012年春から1年ぐらい借りきっているから泊まれないと聞きました。警戒区域のラインにある赤いランプが見えたんですよね、入り口から。

初沢 福島には結局2回。あとは宮城県、気仙沼を中心に見ていました。

「被災者」という人間はどこにもいない

開沼 亜利さんは、北朝鮮を撮る仕事を震災前からやっていたわけじゃないですか。そこに突然震災が起きて被災地に向かった。そこで何を撮ろうとしたんですかね?

初沢 基本的な心構えとして決めたことは、あえて「被災地」「被災者」だと思って撮らないということ。「被災者」なんて人間はどこにもいないので。

開沼 その通りだと思います。でも、通常であれば「被災地」と「被災者」を撮りに行く人ばかりなわけですよね。やっぱり「お約束の絵」を撮りに行く。


初沢 実際に通ってみると、確かに彼らは被災者であるが、「畠山さん」であったり、「小野寺さん」であったり、「村上さん」であったり。写真を撮るということは、「私」が「あなた」を撮るに過ぎないんですよ。「あなた」が北朝鮮人だったとしても、被災者だったとしても、あなたはあなたで、いち個人として眼差しを向けています。つまり、「我々」が「あなた方」をではないんです。これが大事なことなんですけど。

開沼 なるほど。

初沢 「被災者たち」と言ってしまった時、「こちらは何者なんだ?」ということになれば「東京人」ということになるでしょ?でも、私とあなたの場合、どこまでも「私」と「あなた」になります。

開沼 でもそうなると、被災地に行かなくてもいいじゃんという話もあり得ますよね?

初沢 あり得ますね。そこが、カメラマンとしての自分の軽率なところでしょうね。その場にいないことには何も写せません。「行った」というところからすべてが始まったんです。そこには飛躍がありますよね。そこに確かに被災者がいる。どこまでいっても被災者だし、被災地だけれども、そこに眼差しを向けてそれをフィルターにしながら、最終的に「人間とは何ぞや」に到達できるような写真を撮れたらいいなと。

開沼 「人間とは何ぞや」を撮りたい。それはこれまで出版されてきたすべての写真集に通じるテーマでしょうね。もう少し言語化すると、どのように他のテーマにも共通するんですかね。

初沢 人間というのは、なんだかよくわからないわけです。1枚の写真が、30年後位に地球の裏側のある国に飾ってあったとしますよね。そうすると、中学生・高校生が、「この写真いいね。いつの時代に撮られたの?」と先生に聞いたら説明がされるわけですけど、その写真が人の目にとまるためには、その写真が良い写真でなければならない。

開沼 どんな写真が良い写真ですか?

初沢 写された時の条件が全部取り去られても、その写真が何らかの人間の心をくすぐる場合です。その写真が、どの時代、どの国で見られたとしても、心を震わせる普遍的なものがその中に存在していないと、やっぱり広い意味で写真が伝わっていることにはならない。そういうことを目指しながら撮っていたので、「被災地はこうだから、今すぐ誰かに伝える」という写真よりは、震災直後から抱えてきた傷を超えた先にまで震災の記憶が伝わるために、何年経っても力強く残り続ける写真でなければなりません。

震災に溢れる“お涙頂戴”への抵抗

開沼 力強く残る写真でなければならない。そのためには人の心に刺さらなければならない。そう考えると、例えば、暴力や性っていうのは普遍的に人の心に刺さったりするわけですよね。だからこそ、小説でもドラマでもテーマにしやすい。にもかかわらず、イラクとか被災地とか北朝鮮とか、そうではない表現形態で普遍的に刺していこうとする。

 それでは、暴力とか性といったわかりやすいものではなくて、「普遍的に人の心に刺さるもの」って亜利さんにとって何なんですか。それが何か言語化できていますか?暴力でも性でもない「何か」が普遍的だとした場合、普遍性のポイントになるものとは何ですか?

初沢 1つは狂気のようなもの。誰しも、心の奥底には狂気を持っているはずであり、どの時代のどんな人にもきっとあるでしょう。そういったある種の狂気と、写真に写っている人の狂気や危うさが連動した時、心に響くことがあるんじゃないかなと。


歩道橋の柵の外に座る男性を写した一枚
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  4月の終わりに気仙沼で撮った一枚の写真があります。津波のあとで焼き尽くされた鹿折地区の歩道橋に1人の男性が外を向いて座っている。隣には日本の国旗が結えつけられています。彼は一体何をしようとしてたのか?飛び降りようとしていたのか?その後を考えるととても怖い一枚です。写真集を今でも時々めくりますが、このページを開くたびに撮影者である私も立ち止まってしまうんです。

 震災1ヵ月後の被災地は、誰もがギリギリの精神状態で、狂気を抱えて生きていました。他者を攻撃するような狂気ではなく、内に向かうような狂気。そういう緊張感がじわじわとこの一枚からは伝わってくる気がするんです。

開沼 震災には「美しい話」が溢れるわけですよね、とても単線的で、単純化された。亜利さんには、“お涙頂戴”や単純化されたものへの抗いが常にあるんですかね?

初沢 ありますね。

開沼 それは写真家にとって普遍的な価値観ですか?それとも、亜利さん固有のものですか?

初沢 僕に固有のものじゃないですか?大学時代に撮った麦わら帽子の写真にしても、決して単一のメッセージを発していません。目の前にうごめく社会の中から、ある部分を切り取って数百分の一秒に閉じ込めた時、人間や社会の縮図が見える瞬間がある。その中には、異なる真実、異なる正義がいくつも詰め込まれていたりします。多様なものを多様なまま提示することに意義があるのではと、写真を始めた頃から感じていたように思います。

 被災地に通ってしばらく経った時に、広告代理店の友人が「これを写真集にしても売れない。犬だけを撮ったほうがいいんじゃないの?犬・猫なら売れるよ」って言うんですよ。北朝鮮撮るなら美女だけ撮って写真集にしたほうがいいんじゃない、という発想もあります。そうしたら、今より3倍、5倍売れるかも知れません。でも、そんなことやるなら死んだほうがいい。そうじゃないだろう、というとこに抗いがあるんじゃないですかね。

開沼 犬・猫であれば、都内の道端を歩いている犬・猫を普通に撮影してもいいことになっちゃうわけですよね。でも、被災地の犬・猫や北朝鮮の美女というパッケージングがおいしいと。ただ、「北朝鮮に美女もいるんだ」っていうのもまた期待を裏切っているのかなとも思うわけです。「東大生・美女」がウケるのと同じ話ですよね。

 僕はいつも「周縁的な存在」と言っていますが、亜利さんが「周縁的な存在」にあえて向かうなかで、美女や犬・猫という、ある種わかりやすく安直なところではない部分になぜ向かうのか、何が違うのか聞きたいです。周縁的な存在への魅力を感じて、それを追っかけたいと感じているわけですよね?

初沢 追っかけたいというより、必然的にそうなっちゃうんですよね。「多様性」にしても「周縁的な存在」にしても、僕にとってはある種の身体感覚みたいなもので、自分が欲しているところに眼差しが向かってしまう。世界ってきっとこういうもんなんだろうな、と。

開沼 こういうもんなんだろうっていうのは、そんな単純じゃないし、きれいなものばかりじゃないし、でもきれいに見えることもあるということですか?


『True Feelings 爪痕の真情。2011.3.12〜2012.3.11』の表紙に使われた写真
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初沢 きれいに見えることもありますね。というより、多義性を「美」という表層で覆うことで見る側が接近しやすくなる。被災地写真集の表紙になった桜の写真も、「きれいですねぇ」がまずは入口になるわけです。でも、しばらく見ていると、「きれいであるが故に恐ろしい」ということになる。

 写真を始めたばかりのころは、ずっと東京で作品を作っていました。東京人が何事もない東京を撮るなかで世界観を突き詰めても良かったのかもしれない。本当はそれのほうが正解なんですよ。なぜ被災地か?なぜ北朝鮮か?と問われると確かに弱いんです。1つには、発表した作品が全然見向きもされなかったっていう部分はありますね。

 いつかは東京に戻ろうとは思っているんです。北朝鮮や被災地で東京と同じことをすることで、人が関心を向ける対象だからこそ自分の世界観を見せていくことができる。そのほうが取っ付きやすいのかなと。ところが、取っ付きやすいものに取っ付く人は、さらにわかりやすいものでないと困ると言いますね。一元的でないとわからない、という意味で。

開沼 そうですよね。

初沢 それがジレンマみたいなところがあるんですよ。

最も近くにありながら、最も“遠い”国でもある北朝鮮。メディアの報道では切り捨てられる彼らの日常に迫るため、初沢亜利氏はあらゆる手段を尽くして現地へと乗り込んだ。私たちの知らない北朝鮮の真実とは何か。次回更新は3月18日(月)を予定。

※対談を記録した動画を下記↓よりご覧いただくことができます(特別全編無料公開)。

【ボクタク外伝】開沼博(社会学者)×初沢亜利(写真家)【対談放送】

2013年3月15日(金)22:00〜ニコニコ【ボクタク】chにてOA(「タイムシフト予約」でお好きな時間にご視聴いただけます[放送後7日以内])

■【ボクタク】とは
社会学者・開沼博×ジャーナリスト・烏賀陽弘道の対談番組【ボクタク】は、ニコニコチャンネルにてレギュラー配信中。月1回の対談生放送(無料)では、社会・科学・文化などから毎回テーマを絞込み、深く掘り下げ展開。対談終了後のスペシャルコーナーでは、貴重な対談裏話も公開。最新の撮影技法を用いたモノクローム映像の世界から対談をお楽しみください。
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三省堂書店神保町本店『漂白される社会』刊行記念
著者・開沼博さんトークイベント開催のお知らせ

【イベント概要】
日 時:2013年3月29日(金)
    開演:18:30〜(開場:18:00〜)
会 場:三省堂書店神保町本店 8階特設会場 ※正面入口(靖国通り)側エレベーターにてご来場ください。
参 加:三省堂書店神保町本店で『漂白される社会』をご予約・お買い上げいただいたお客様に、4階レジカウンターにて整理券を配布いたします。
定 員:100名(先着順)

イベントに関するお問い合わせ:
三省堂書店神保町本店4階 03-3233-3312(代)(10:00〜20:00)

【ゲンロンスクール】
開沼博 「『漂白される社会』〜闇の中の社会学入門」第2回(全3回)

日 時:2013年03月20日 (水)
    開演:19:00〜20:30(開場:18:00〜)
会 場:ゲンロンカフェ(東京都品川区西五反田1-11-9 司ビル6F)
参 加:チケットのご購入・詳細はこちらから
※当日サインをご希望の方は書籍をご持参ください。

イベントに関するお問い合わせ:ゲンロンカフェまで


04. 2013年3月11日 16:29:32 : kPOeurwFuo

【第4回】 2013年3月11日 
福島第1原発事故=戦後最大の危機の真実。
「最悪のシナリオ」から危機の全体像に迫った
――日本再建イニシアティブ理事長 船橋洋一

ふなばし・よういち
1944年北京生まれ。東京大学教養学部卒。一般財団法人日本再建イニシアティブ理事長。元朝日新聞社主筆(2007〜10年)・慶應大学特別招聘教授。1968年、朝日新聞社入社。朝日新聞社北京支局員、ワシントン支局員、アメリカ総局長などを経て、朝日新聞社主筆。ハーバード大学ニーメンフェロー、米国際経済研究所客員研究員、米ブルッキングズ研究所特別招聘スカラー。外交・国際報道でボーン上田記念賞(1986年)、石橋湛山賞(1992年)、日本記者クラブ賞(1994年)受賞。主な著書に、『通貨烈烈』(88年、朝日新聞社、吉野作造賞)、『同盟漂流』(98年、岩波書店、新潮学芸賞)、『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン−朝鮮半島第二次核危機』(06年、朝日新聞社)、『新世界 国々の興亡』(10年、朝日新聞出版社)など。
大震災から丸2年が経つ。地震、津波、原発事故という複合災害が日本を襲った。中でも福島第一原発事故は、日本の戦後における最大の危機だった。日本再建イニシアティブ船橋洋一理事長(慶応大学特別招聘教授)は、膨大な関係者の証言を基に、上下合わせて1000ページ近くにもぶ大著『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)を著した。そこには我々の知らない事実が詳細に語られている。同理事長に、なぜ福島第1原発事故は危機に陥ったのか、そしてその教訓は生かされているのかを聞く。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 原 英次郎)

最悪のシナリオでは
首都圏住民の避難も想定していた

――まず最初に、なぜ、福島第一原発をテーマとした本を世に問うべきとお考えになったかを、聞かせてください。

「最悪のシナリオ」物語というのが、書けるかもしれないと思ってからですね。

 東京電力福島第1原発事故は、戦後最大の危機でした。それは日本という国家が成り立つかどうかの瀬戸際の危機だったのです。

 そのことを痛感したのは、私たちのシンクタンク一般財団法人「日本再建イニシアティブ」が設立した福島原発事故独立調査・検証委員会(民間事故調)で調査を進めるうちに、当時の菅直人内閣が極秘につくっていた「最悪のシナリオ」のペーパーを入手してからです。

 入手したのは2011年12月末でした。

 1月末には民間事故調の報告書の締め切りですから、その背景を調べるにはあまり時間がありません。それでも、最低限の背景説明を入れて、報告書を発表できました。

 ただ、私自身は、その過程で、これは民間事故調の報告書とは別に「最悪のシナリオ」物語が書けるな、と思うようになりました。ここが最初のとっかかりとなったという気がします。

 それだけにここの取材には力を入れました。菅首相が近藤駿介原子力委員長に要請した「最悪のシナリオ」づくりだけではなく、北澤俊美防衛相もこれとは別に「最悪のシナリオ」を自衛隊に作成させていました。米政府もつくっていました。いずれも、当時は極秘に伏せられていたのです。

「最悪のシナリオ」が誰によってどのようにつくられたのかは、『カウントダウン・メルトダウン』で詳しく紹介しましたから、ここでは触れませんが、「最悪のシナリオ」は、首都圏住民の避難も想定していました。

 もしそうなったときに、「内閣総理大臣談話」を出すことも密かに検討していました。劇作家の平田オリザ氏がその草案を書きました。

 この取材はなかなか骨でした。

「最悪のシナリオ」を調べる過程で、何か、最悪となったときの「総理大臣談話」のようなものを用意したらしい、という情報が耳に入ってきましたが、なかなか確認が取れませんでした。その起草者が平田さんと分かって、平田さんに確認が取れたのは2012年9月でした。

 戦後、日本政府は「最悪のシナリオ」をつくったことはありません。幸せな国であり幸せな時代だったのだと思います。

 原発について言えば、日本の原子力産業と原子力行政に染みこんできた「絶対安全神話」がリスクと危機を「想定外」として封じ込め、日本でしか通用しないガラパゴス的な安全・安心体制をつくってきたのです。福島第1原発事故は、そうした”一国安全・安心主義”のガラスの城を粉みじんに吹き飛ばしたと言えます。

 そうした丸腰の安全・安心体制ですから、いったん危機が起こった時、なすすべがなかったわけです。事故後、原子力安全・保安院の保安検査官たちは、福島第1のオンサイトからあたふたと逃げ出します。あのシーンにガラスの城の崩壊が映し出されています。この本の最初(第一章)にあの話を持ってきたのは、原発のメルトダウンとともに、そうした「国の形」のメルトダウンも、同時に始まったことを伝えたいと思ったからです。

敵は軍隊ではなく放射能
米軍横須賀基地も大騒ぎになった

 もう一つ、この本を何としでも書きたいと思うようになったきっかけは、知り合いの米海軍将校と食事をしたときの会話です。

 彼は、トモダチ作戦遂行のため三陸沖にやってきた米空母、ロナルド・レーガンで勤務についていましたが、「あのときは、ヨコスカ・ショックで大変だったんだ」と一言、漏らしたのです。

 ヨコスカ・ショック?

 何のことかわかりませんでした。危機のさなか、米海軍横須賀基地が放射能汚染の恐怖で大騒ぎになったことをその時初めて知りました。

 日本には米国という同盟国があります。

 地震・津波のあと、米国はいち早く日本支援に駆けつけた。しかし、福島第1原発事故の対応支援の場合、敵は放射能です。米軍もまったく勝手が違ったんですね。2012年6月末、ワシントンに行き、米政府高官にインタビューして、米政府部内でも海軍と国務省との間で、実は大変なバトルが繰り広げられていたことを知ったのです。

「トモダチ作戦」、「海軍vs国務省」、「ヨコスカ・ショック」、「ホソノ・プロセス」と『カウントダウン・メルトダウン』全21章のうち4章分を日米同盟関連に当てたのは、あの危機の実相を米国と日米同盟のレンズからえぐり出したいと思ったからです。

 結局のところ、同盟を同盟たらしめるには、自らを自らで守る国でないと相手は助けられないということを痛感しました。

 「同盟は相手を助けるが、運命を共にしない」

 危機対応の最前線で働いた統合幕僚監部の幹部と食事をした時、彼はそう言ったんです。

 「ああ、これでこの絵に目玉が入った」

 その発言を聞いて、そう思いましたね。

 欲張ってもう一つつけ加えると、書き進めるうちに、危機の全体像を描けないか、と思うようになったこともあります。

 この本を書くに当たって、政府、国会、民間のそれぞれの事故調報告書をそれこそ熟読玩味しましたが、そこここに散らばるデータの原石を直接、危機の最前線で取り組んだ人々のストーリーとして取り出して、磨いて、誰か一人に光を当てると言うより、群像たちのナラティブを重ねて、危機の全体像に迫ってみたい、そして、後世の人々に、福島原発危機の真実はこうだったんだ、と言うようなノンフィクションを書きたいと思うようになりました。

 ジャーナリズムは、個々のストーリーの強さが命ですし、細部に真実が宿る表現形態だと思っています。細部が彩なすモザイクを少し離れて見ると、全体の輪郭が浮かんでくるようになればしめたものです。

国家のため、社会のために
誰が命をかけるのか

――この『カウントダウン・メルトダウン』で、もっとも問題提起したかったことは何ですか?

 いざというときに、国家のため、そして社会のために、誰が命をかけるのかというテーマです。

 15日午前5時35分、菅首相が東電に乗り込みますね。

 そこで東電社員を前に「君たちは当事者なんだぞ。いのちをかけてくれ」と演説した。 政府として「いのちをかけろ」と命令はできない。そんな権限はない。あくまで「お願いベース」です。

 しかし、それでも菅さんはそれを言った。

 おそらく吉田昌郎所長や当直長たちは「命を賭けてやる」覚悟だったと思います。菅さんに言われたから彼らは踏みとどまったのではないでしょう。ただ、吉田所長たちの覚悟とは、最終的には「玉砕」につながったかもしれない。

 米国の日本に対する不信感の中には、「日本は玉砕するのではないか」との不安感も含まれていたかも知れません。

 カート・キャンベル国務次官補は藤崎一郎大使に、「英雄的犠牲」で臨んでほしいと日本側の覚悟を迫っています。

 要するに「決死隊」ということですね。日本側も、自衛隊はその覚悟を持っていたと思います。しかし、米国に言われたこの言葉はとても重かった。

 地震が起こったとき、福島第1原発の現場にいた原子力安全・保安院の保安検査官たちは本来なら、事故の際はプラント内にとどまって、独自に本院にプラント情報を伝達しなければならないところです。それができなかった。

 だから、政府は東電の本店から情報をもらうだけとなってしまいました。

『カウントダウン・メルトダウン』でも触れましたが、実は、彼らを含むオフサイトセンターからの職員たちの避難問題は、東電福島原発の撤退問題と微妙に絡んだのです。菅政権のやったことは、一方で、政府の職員を避難させながら、東電の社員には死ぬ覚悟で踏みとどまれと要請するのですから、矛盾しているのですね。

 この問題をめぐって保安院と経産省の内部でどんなやりとりがあったのか、私はそこを突き止めたかった。この点はかなりの程度、つかみ出すことができました。

 保安検査官の”敵前逃亡”について、「役人だけの判断だけなら、撤退しかありえない。役人は別の役人に死ねとは言えませんから」と経産省の幹部は後に、そう言っていました。これは「国の形」そのものが問われていた危機だったんだ、と改めて思い知った次第です。

 全体を救うため犠牲を求める。

 このテーマを、戦後、日本は、正面から見据えてこなかった。

 もはやそれを避けて通るわけにはいかない、日本、前へ、と背中を押されたような感じがします。

教訓は3つの視点から
導き出される必要がある

――我々は戦後最大の危機を経験したわけですが、その危機の教訓はいま、生かされつつあると思われますか?

 私は、この事故と事故対応の教訓は、リスク、ガバナンス、リーダーシップの3つの点から導き出す必要があると思っています。

 まず、リスクです。

 リスクのタブー視、つまり「絶対安全神話」を克服できるようになったかどうかがカギですね。リスクをタブー視することで生まれる「絶対安全神話」は、さすがに消滅しつつあると思いたいところですが、住民の「小さな安心」を買うために、国家の「大きな安全」を犠牲にする「安心のバラマキ行政」はなお根強いように感じます。

 次にガバナンスです。

 究極のところ原発危機は、ガバナンス危機だったという気がします。巨大技術化、都市化、グローバル化が進み、絡み合い、巨大リスク社会と巨大リスク世界が生まれてきています。軍事紛争や戦争ではないが、それに劣らないものすごい致死性を持つリスクです。

 このような巨大かつ多面性のあるリスクと危機に対応するには、全体を見て、全体を把握し、全体を動かす危機対応力が決定的に重要です。

 日本の場合、ここがもっとも弱い環だという気がします。

 米政府は、福島原発事故の際、日本政府に「政府一丸となって」(whole government approach)取り組むよう強く求めました。日本政府の取り組みがいかにもバラバラで東電任せに映ったのでしょう。原子力ムラは、「ムラと空気のガバナンス」のなれ合い、もたれ合いでした。そして「絶対安全神話」の呪縛に囚われていました。だから、真剣勝負の安全規制が生まれませんでした。

 危機が起こった後も、やはりガバナンス危機でした。バラバラ、たこつぼ、縄張り、消極的権限争い、リスク回避。

 原子力安全規制のプロや危機管理のプロを育てるには、長年の経験と研鑚が必要になります。しかし、そこには役所が立ちはだかるでしょう。年々歳々、夏の人事異動を繰り返すのが霞が関官僚機構です。太平洋戦争のときも、わが陸軍は毎年夏の一斉定期人事異動を繰り返していたのです。

 官僚を一つのところに長く置かないのは、官僚機構の組織防衛のためです。ガバナンス面の教訓を生かすのはなかなか大変です。

 最後は、リーダーシップです。

 危機の際、日常モードを緊急時モードに、そしてグッド・ガバナンスへと切り替えるのは、リーダーシップです。危機が起こったとき、どの政府も全知全能の政府は存在しない。未知との遭遇です。政府だろうが、自治体だろうが、企業だろうが、指導者は、そうした状況の中で、判断、決断しなければなりません。

 福島第1原発事故もそうでした。

 事故が起こってしまった後、それぞれに必死になって事故対応をやった。

危機管理の最大の敵は
悲観主義と敗北主義

 危機の時のリーダーシップで私が今回感じたのは、それを持っている人は、危機の時こそ、人を褒めて、みんなを元気づけることを心掛けています。吉田昌郎所長はとても褒め上手です。毎日夕方に開かれる免震重要棟2階の全体会議で、何か一つでもいい知らせがあると、率先して拍手をしてみんなを激励していました。

 米政府が原子力安全規制のプロ中のプロの切り札として日本に送りこんできたNRC(米原子力規制委員会)のチャールズ・カストー日本サイト支援部長も、日米合同調整会議で、ちょっとでも進展があるとLet me congratulate.とまず相手を褒めてから、発言していました。

 危機管理の最大の敵は、悲観主義と敗北主義なのです。

 危機の際に「最悪のシナリオ」をつくったのは次の展望を持つためです。菅首相にそれをつくるように要請された近藤駿介原子力委員長は、その時「いまが最悪です」と答えています。

 つまり、「いまを最悪にしましょう」ということでもあるんですね。首相に展望を持ちましょう、と元気づけているのです。

 人間社会が展望を持つには、リーダーの側の能動的な楽観主義が必要なんですね。


05. 【タヌキ腹組“ぽんぽこ”】 2013年3月11日 18:30:47 : SM2DPWDDuBDzg : bfwGRX3FdY
>(福島県立医大県民健康管理センター・鈴木眞一教授)
「俺たちが一番の味方なんだよと、ぜひ分かってほしい」と訴える

・・・・“味方”ならここにもいるよ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●震災から2年 福島の子どもの甲状腺異常なし 「反原発」はデマ攻撃をやめないと「自称報道教会(自由報道協会)」みたいにオワリだにゃ

福島 信夫山ネコの憂うつ
http://shinobuyamaneko.blog81.fc2.com/blog-entry-131.html

・・・・・
デマ戦争は続くものの、福島を苦しめる「反原発正義軍」のデマは暴かれ、敗退は益々はっきりしてきた。特に3/8初の公式な「デマ対策」として行われた、「福島以外での甲状腺調査」の成果があがったことは大きい。福島の子どもの甲状腺状態は、他の地域と変わらなかった。これは「速報値」ということで、更に詳報が発表されるはずだが、既にボランティアで「ろっこう医療生協」と伊藤病院(東京)が同様の結果を得ていたのは、ご存じの通り。
http://shinobuyamaneko.blog81.fc2.com/blog-entry-123.html
とにかくこれら全ての調査に協力してくれた方々に、感謝いたします。ありがとうございます。
・・・・・


06. 2013年3月12日 03:12:30 : 8tFWC3ExoM
>「子どもが年をとってがんになっても、そのとき私はもういない。騒いであげられない。だから今、頑張る」と鈴木さん。原発事故の被ばく症例に詳しいベラルーシやウクライナの医師に、診察を受けられないか、と考えている。


そうよ。この度の放射能がらみの日本の診察などは基本的にインチキなので、ウクライナ在住のバンダジェフスキー博士や英国アルスター大学のバズビー博士、ドイツ国営放送ZDFなどに相談して、ウクライナやドイツの医療機関を紹介してもらいそこで検査を受けるのがいい。
そういうまともな海外の医療機関でやらなければ本当の状態は判らない。

日本の検査に不信な親たちが連携し集団として上記博士やZDFに相談すれば、海外医療機関による検査が受けられる良い方法が見つかるだろう。


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