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件名:原発が第二の人生奪った 田畑汚染、故郷で農業断念
日時:2013年2月20日 中日新聞
出典:http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20130220/CK2013022002000092.html
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◆宮城県南部出身の68歳男性が浜松で路上生活
事業に失敗し、二〇一一年秋からJR浜松駅周辺で路上生活を送る男性(68)がいる。福島県境に位置する宮城県南部の出身。親から継いだ田畑で米や果物を育て第二の人生にかけるつもりだったが、福島第一原発がまき散らした放射性物質のせいでかなわなくなった。「あの原発を許せない」。二年目の3・11を前に怒りは増すばかりだ。
男性は中学を出ると配管業を営む叔父を頼り、中部地方に働きに出た。高度成長に重なり、三重県四日市市の石油コンビナートや中部電力の火力発電と、大きな仕事が転がり込んだ。二十四歳で独立。同郷の妻との間に二人の娘にも恵まれた。四十歳を過ぎたころバブルがはじけ、年三千万円超あった売り上げが激減。巨額の借金が残った。一家で宮城県のふるさとに戻ったが借金が原因で離婚し、二人の娘も妻についていった。
再び中部地方に出て、光ケーブルの敷設を手掛ける仕事に就いた。日当一万円ほどの不安定な仕事を二十年続けた。「年が年だけに、そんな仕事しかなかった」と男性。
三年前、実家を一人守っていた母が逝った。千坪の田畑と、男性がかつて父母、妻子と暮らした平屋の家が残った。借金はまだあったものの「一人だから作物を売れば何とかなる。いざとなれば田畑を売ろう」と帰郷を決め、仕事も辞めた。
写真
東日本大震災の発生はその直後だった。内陸に住む元妻や子の無事は確認できた。それに続く原発事故が、描いた余生を奪った。事故の二カ月後、帰郷したが「線量が高すぎた」。男性はわずかの所持金を持ち、昔、仕事で訪れた静岡県に来た。
仕事を求め浜松から沼津まで行き来した。ある晩、浜松の地下道で路上生活の男性に呼び止められた。「寝るとこないんか」。教会が食事を出してくれるし、炊き出しもある。日用品もボランティアの若者がくれる。やがて路上生活を決めた。
故郷に戻ったら栽培しようと考えていたのが、かつて仕事で訪れた愛知県豊橋市や静岡県で目にした温室メロン。話をすると路上生活仲間は「いつまでも、こんなことやってるな。帰って田畑をやれ」と諭してくれる。
だが、そんな夢はついえた。「作ったって売れない。チェルノブイリ事故が起きた旧ソビエトだって、長くだめじゃないか」
それでも男性は父親として「死ぬ前に、田畑の名義を娘に変えてやりたい」と願う。近く伝えるつもりだ。「作物も作れず、売れもしない土地なんて迷惑かもしれない。娘がいらないと言ったら、放棄して生活保護を受けます」。男性が路上生活を続けてきたのも田畑を放棄しない限り、生活保護は受けられないからだ。
男性は、最後に声を絞り出した。「あの原発だけは本当に頭に来る。たまに思う。誰も心配する人がいない俺が、東電の前で灯油かぶってやろうかって」
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//Memo
//Hitokoto
この炎が燃え続ける限り
この無軌道な国策への憎しみは
消えないだろう
永遠に消えないだろう 永遠に
忘れない 忘れさせない
この炎が燃え続ける限り
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