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福島原発事故で避難を強いられた福島の被災農民たちが、苦悩を深めている。農業を避難先で再開したくても、大半の人たちは行政の支援の薄さと東京電力の賠償遅れで離農せざるを得ない状況にある。問題は経済的な面にとどまらない。土を耕す日常を奪われた高齢者たちにとっては、それが心身を衰えさせる一因になっている。全村避難が続く福島県飯舘村の住民たちのケースから実情を探った。(上田千秋)
「しっかりとした支援体制があれば、すぐにでも農業をやりたいと思っている人たちは多いはずだ」。福島市に避難している花卉農家、赤石沢忠則さん(51)はそう話す。
赤石沢さんは今年1月、同市郊外に70アールの土地を借りてトルコキキョウの栽培を再開した。ただ、そこにたどり着くまでにはさまざまなハードルが立ちはだかった。
まず、農地だ。一定の広さがあって条件の良い土地はなかなかない。ようやく確保できるめどがついても、今度はどんな公的支援があるのか、よく分からない。国や県、村に何回も問い合わせをし、国の補助が認められた時には、申請から半年以上が経過していた。
しかも、それで賄えるのはビニールハウスの設備費などにとどまる。種苗代や肥料代などの初期費用として県から100万円の補助が出たが、農地の賃料は自己負担。井戸2基の掘削費用約400万円も自費だった。農機具も放射能に汚染され、2年近くも放置したために使えず、新たに用意する必要に迫られた。
農機具類のほか、事故による生産物の損失分、農地やビニールハウスなどは東電の賠償対になる。だが、「やっと農機具類の賠償書類が先月届いたばかり。他の賠償も全額出るわけではない。農業を再開するにはとても足りず、1,000万円以上は自己負担になる」(赤石沢さん)という。
赤石沢さんによると、農業協同組合(JA)に所属した村の花卉農家約80世帯のうち、再開したか、その意向があるのは5、6世帯のみ。高齢化もあり、大半は農業再開をあきらめたという。
「耕作放棄地を利用しようと考えた人もいたけど、また使えるようにするには相当なエネルギーが必要。気力が続かず、『もうやめた』と言ってあきらめてしまった」
事故から間もなく2年がたつ。村では除染が続き、菅野典雄村長は放射線量が下がった地区については、来秋か再来年春に帰村を促したいとしている。だが、面積の7割を占める山林の除染はほぼ手つかずで、放射線量はそれほど下がっていないといわれる。赤石沢さんも当面、村で農業をやるのは無理と考える。
「たかが農業と思うかもしれないが、飯舘村にも長年培ってきた独自の技術がある。このままでは、それがどんどん失われてしまう。国は『除染するから早く帰れ』と考えているのだろうが、被害者である私たちの現実を知らなすぎる」
福島県によると、飯舘村など12市町村が対象になった避難指示区域の農地面積は約1万1,000ヘクタール(県全体の9%)で、農業者は約5,400世帯(同8%)。避難先での農業再開についての資料はないが、多くの人が二の足を踏んでいるとみられる。支援不足の実態はどうなっているのか。
国には、被災自治体に交付金を配り、ビニールハウスや農産物の貯蔵・加工施設などを建てさせる制度がある。前出の赤石沢さんも、この制度を使ったが、対象となる施設の種類や規模はかなり限定されている。
県には最大100万円(畜産農家は150万円)を各農家に再開費用として助成する制度がある。ただ、本格的な農業再開には支援額をはるかに上回る金額が必要になる。
■県外を出ると助成対象外に
こうした支援は原則として県内避難者のみが対象。その理由として、飯舘村復興対策課の担当者は「国の交付金でつくった施設については管理責任があり、遠い場所ではそれが果たせない」と説明する。県農業担い手課も「事故当初は、県内避難者への対応が最優先だったため」と話す。
では、県外に逃れた被災農民はどうしているのか。同村から山形県新庄市の雇用促進住宅に避難した鮎川邦夫さん(67)は「どの自治体からも『農業再建の支援はない』という答えしか返ってこなかった」と漏らす。
鮎川さんは定年退職後の2004年、秋田市から同村に移住。退職金をつぎ込み、カボチャや小麦などの栽培を始め、事故前には米粉パンの製造販売も手掛けていた。秋田県に避難する途中、ガソリン切れで新庄市にとどまり、妻と長女が同市で仕事を見つけたため、動けなくなった。
農業再開の支援策を山形県に聞いても、あったのは新営農者への研修制度だけ。自力で土地や農機具などを用意し、新庄市から車で約40分かかる山形県金山町でカボチャなどの栽培を再開させた。「長年の夢だった農業を簡単にやめるつもりはない。でも、避難先が県外だっただけで、どうして対応が違うのか」
■共同農場に取り組む元村職員
事故以前、1,700世帯(6,200人)の村民のうち、1,250世帯ほどが農業に従事していた。元村職員で、定年退職後に農業を営んでいた菅野哲さん(64)は「専業農家でなくても大半は兼業農家で、自分の家で食べるものぐらいは皆、自分たちで作っていた。畑仕事が生きがいだったお年寄りはたくさんいた。原発事故でその生きがいを奪われ、精神的に疲れていた」と語る。
被災者を対象にした調査でも、仮設住宅ではお年寄りが引きこもりがちになったり、認知症の症状が進むといった実態が明らかになっている。
このため、菅野さんは一昨年7月から、福島県相馬市や福島市などに共同で20〜40アールほどの農地を借り、お年寄りたちに農作業をしてもらう事業を進めている。
畑仕事を始めると、見る見るうちにお年寄りの顔に活力が戻ってきた。相馬市の農場では当初は15人ほどだった参加者が今では約40人に増え、何十種類もの野菜を作付けしている。菅野さんはこう訴える。
「放射能の影響を考えると、数年のうちにまた村で農業をやるのは難しいだろう。私たちは農地から農機具まですべて失った。農地を個人で探すことも簡単ではない。国や県には『避難先での農業再開』という>選択肢を示してもらいたい」
[飯舘村]
福島第一原発の北西に位置し、最も近い地点の距離は約28キロ。一昨年4月に計画的避難区域に指定され、一部の企業と特別養護老人ホーム(入所者約100人)を除く全村民が、同年5月から村外に避難した。昨年7月、避難指示解除準備(年間放射線量20ミリシーベルト未満)、居住制限(同20ミリシーベルト以上〜50ミリシーベルト未満)、帰還困難(同50ミリシーベルト以上)の3区域に編成された。
[デスクメモ]
手塩にかけた土を耕し、穏やかに生きてきた人たちが突然、原発という暴力で離散を強いられた。その喪失感の大きさに想像力が及ばない。この人たちが何をしたというのか。しかも原因は人災だ。彼らが失ったものを少しでも補うこと。それ抜きに「日本を取り戻す」など悪い冗談にしか聞こえない。(牧)
2013年2月16日 東京新聞 朝刊 [こちら特報部]
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013021602000129.html
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