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2013-02-11 もうすぐ北風が強くなる
母のもとに6人残った エレーナ・メリニチェンコ(17) 「チェリノブイリの子どもたち」氏から
私の人生は、幼いあの日以来、悲しくて不幸なものとなった。あのとき、私は小学2年生だった。それ以来、人々の苦悩や悲しみを、否応なくこの目で見てきた。そして私自身も、家族と共にそれに耐えてきた。
私のうちは大家族で、事故がおこったときは私たちはボゴンノエ村に住んでいた。
今、4月のあの日の朝を思い出す。天気がよく、とても暖かくおだやかな日だった。大人たちは仕事に、子どもたちは学校にでかけた。外の空気は新鮮で、緑はあざやかに萌え、鳥たちも楽しそうにさえずっていた。木々には若葉が芽を出し始め、太陽はしだいに日差しを強めていた。
学校に行ってまもなくすると、机に座っているのがたまらなくなってきた。他の子どもたちも、目がまわるとか、目に激痛がはしるとか、体がだるいとか、眠気がするとか訴えるようになった。何がおこったのか分からなかったが、とにかく普通ではなかった。
村全体をおびやかす恐ろしいことが起こっていることを、誰も推測できなかった。そして数日すると、避難することになった。それは今思い出しても胸が痛む光景であった。子どもは泣き叫び、心に深い傷を負ったお年寄りは、自分の家、ふるさとを置いたまま別れ、知らないところに行ってしまうのがとてもつらく、なかなか動けなかった。
数日分の必要なものをもって避難するようにと言われた。ある人はもっていき、ある人はなにも持たずに出て行ってしまい、またある人はただたたずむだけだった。なぜなら、そんなことは経験したこともない出来事だったからだ。
そこには狼狽と絶望だけがあった。どれだけの涙が流されたことか。
私たちはゴメリに連れて行かれ、放射能の測定をされた。服と靴の汚染の値が大きかったので、それらは焼却のために全部脱ぎ捨てなければならなかった。また、検査のために病院にも入れられた。
検査のあと、母と4年生になる兄のビョートル、まだ11カ月の小さい弟と私はミンスクトラクター工場のサナトリウム(※)に送られた。年上の兄や姉たちがどこに送られたかは分からなかった。
※サナトリウム
療養のための施設
母はそのことで非常に心配したが、親切な医者のおかげで、ビチェブ州シュミリノにある労働休暇キャンプにいることがわかった。
父はミンスク郊外のペトコビッチ村で組立工の職に就くことができ、そこの寮に住むことになった。
しばらくして上の兄と姉たちから手紙が送られてきたが、その手紙には、親元から離れて生活するのはつらく、環境も非衛生的だと書いてあった。
そこで父は兄たちを引き取るためにキャンプにでかけ、一緒に住むようになったのだが、3人に1つのベッドしかない父の寮には長くは住めなかった。
私たちのサナトリウムも修理で閉鎖されることになり、父はアパートを見つけ、私たちを引き取った。みんな元の家に戻りたいと気はせくばかりだった。
けれども、そのとき初めて聞いたのだが、私たちの村は有刺鉄線で囲まれ、もう誰もそこには住んでいなかった。村の人々はちりぢりになってしまったのだ。
数日後、ジェルジンスクにまた引っ越した。そこのアパートの部屋は2つに分かれており、そこに2家族で住んだ。
私たちは9人家族、となりは4人家族だった。私たちは中学校に通い始めた。生活は大変で、秋になっても暖房も入らず、その上、ふとんも毛布もないまま、床に寝るしかなかった。
町の人たちみんなが私たちの悲しみや痛みを理解してくれたとは言えない。彼らは用心深く私たちに接し、私たちをよそ者として扱った。大人も子どもも同じだった。
1987年3月、ここジェルジンスク地区のペトコビッチ村の一戸建ての家が提供され、私たちは大喜びした。その美しい大きい家に引っ越し、そこから村の学校に通った。
しかし、その喜びも長続きはしなかった。私たち兄弟はつぎつぎ病気になり、授業にも出られなくなった。兄弟全員が放射線医学診療所に検査のため行くことになった。それから私たちは毎年検査に通っている。
あるとき検査で父の血液分析の結果がよくなかった。その3カ月後に父は死んだ。1988年6月のことだった。
悲しみと痛みは私たちを襲い続けた。同じ年に祖母と伯母が亡くなった。強く恐ろしい衝撃だった。そして、母のもとに私たち6人の子どもが残った。母は一人で家族を支えなくてはいけなくなった。
その悲しい出来事のあと、母はよく病気をするようになったが、不幸や困難を克服しようと、私たちをあたたかさと、そのやさしい愛で包んでくれた。そして、私たちは母の涙と苦しみが少しでも減るように、母を理解するようつとめた。
何年かが過ぎ去った。生活も少しだけ変わってきた。私たちの心の痛みや悲しみも少しはおさまってきている。
私たちは今もペトコビッチ村に住んでいる。数年のあいだに、二人の姉と上の兄が結婚した。二番目の兄は軍隊に入り、私は専門学校で勉強している。一番下の弟は3年生になった。
ふるさとの村の大部分の人たちは、ジロービン地区に住んでいて、兄は今、そのジロービンで仕事をしている。私は彼のところに行って、もとの村の人たちに会ってみたかった。
私は母といっしょにジロービン地区のキーロボ村にいき、同級生に会った。彼女とは、いっしょに遊び、学び、とても仲良しだったのだ。でも8年たった今、顔を合わせても、お互いにわからなかった。お互いに成長し、変わったのだから仕方がないけれど、新たに知り合いになったという感じだった。
私の心には、喜びと腹立たしさの感情が同時にわいてきた。同級生や友だちに会えたという喜びと、いまいましいチェルノブイリのせいで一緒にいられたものが長い間会うことができなかった腹立たしさと痛みだ。
私はその村から帰りたくなかった。
私は帰りながら、多くの悲しみや不幸を自分の肩に背負わざるをえなかった母のことを考えた。そしてチェルノブイリによって、破壊され、不幸にされた多くの人々の運命について考えた。
とくに罪のない子どもたちが、いまでも苦しんでいる。しかも彼らは、自分たちの幸せと健康を奪い去ったものが何者かさえ知らないでいるのだ。
これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう。
おぼえておいて みなさん
原子力(※)のある限り 平和も秩序も守れない
地球から汚れを一掃しよう
核の狂宴のあとを 残さないようにしよう
※原子力
原子核の分裂あるいは崩壊の際に発生するエネルギーなどを総称して原子力と呼ぶ。
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