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【 今語られる、福島第一原発の地獄 】〈第3回〉[ 福島の50人 ]
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2013年2月8日 星の金貨プロジェクト
「事故が作り出した影の中で、ひっそりと生きてきた『福島の50人』」
ジャスティン・マッカリー / ザ・ガーディアン(英国) 1月11日
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▽ 喪・失
危機が始まって最初の二週間、現場の作業員は2日分の水として500mlのペットボトル1本だけを与えられました。
「2週間ぶりでカップ一杯のコーヒーを飲むことが出来ましたが、何とも素晴らしい味がしました。」
長時間労働、貧しい食事、そして慢性の睡眠不足が、現場にいる人々の健康を徐々に蝕んでいきました。
吉澤さんも急激に体重が減り、血圧が異常に高くなりました。
2011年12月、政府が福島第一原発の事故を起こした原子炉が『冷温停止状態』に到達したと宣言するまで、吉澤氏と彼の同僚が以前と変わらぬ規則的な勤務を行った日など、1日もありませんでした。
事故発生から約2年、福島第一原発の現場に留まり続け、事態がそれ以上悪化しないよう懸命の戦いを続けてきた男は、福島第一原発の事故後この国を支配する微妙な空気の中で、居心地の良くない思いをしています。
2010年に発生し、暗い穴の中に69日の間閉じ込められ、生き延びたチリの鉱山労働者は英雄とたたえられました。
一方、福島第一原発の現場で戦った多くの労働者が、目には見えない事故後の影の中でひっそりと生きてきました。
東京電力はインタビューの申し入れのほとんどを却下します。
これまで公の場でコメントをしたのは、大勢の関係者のうち、たった2人だけでであり、それも匿名が条件でした。
ほとんどの関係者が口をつぐむことを選択しました、一緒に戦った仲間たちが暮らす世界からひとり追放されることを恐れて。
彼らは懸命の戦いを挑みましたが、一帯を放射能汚染にまみれた場所にしないための戦いに勝つことはできませんでした。
今後数年間、否、数十年間、この場所は汚染されたままの状態が続くでしょう。
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吉澤氏には人々の怒りが解っていました。
「概ね日本の人々は、私たち東京電力が事故を起こしたと考えています。私たちもそれを心にとどめておく必要があります。私たち東京電力の職員は、今回の事故の責任を取らなければなりません。そして2度と事故が起きないようにしなければなりません。それが人々の信頼を回復するための道のりです。そのためにはしかし、ずいぶんと時間がかかるでしょう。」
「振り返ってみれば、私たちの備えは充分なものでは無かったかもしれません。
しかし、事故が発生してからは、私たちはできる限りのことをしてきたつもりです。」
福島第一原発における不適切な運営により事故が起き、事故の収束にもずいぶん手間取っている、そんな認識が日本社会の隅々にまで浸透してしまっているようにも感じられます。
事故後1年8カ月たって、当時の野田首相が福島第一原発の現場を訪れ、『福島の50人が日本を救ってくれた』ことに対し、公的に謝意を表しました。
そして今年の1月にも、安倍新首相が同じパフォーマンスを繰り返したのです。
▽ 感謝
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フクシマの50人に対し感謝を表すためのメッセージが、世界中から長きにわたり寄せられつづけ、福島第一原発で戦い男たちを支えてきました。
そうした感謝の言葉が書き込まれた巨大な日本の国旗が、中央制御室の壁にも貼られています。
昨年10月に訪れた野田首相が福島第一原発にとどまっていた時間は、わずかに1時間でした。
吉澤氏はこう語ります。
「私自身は自分を、ヒーローだなどと考えたことはありません。でも世の中の人々が私たちのしていることに感謝してくださっている、それを聴いたときは素直にうれしいと思いました。」
彼が事故後急きょ福島第一原発の現場に戻り、一カ月余りを過ごした際の報告は、『フクシマの50人』の知られざるヒロイズムについての最も信頼すべき情報かもしれません。
家族と2、3日を共に過ごすために、他の何人かの作業員とともに福島第一原発を後にした際、吉澤氏は彼に来ているものを脱ぎ下着姿になり、義務づけられた放射線量の測定を行いました。
そして体に合わない、彼には大きすぎる上下揃いの運動着に着替えました。
彼の髭は伸び放題で、4週間もの間ふろにも入らず、シャワーも浴びることが無かった髪の毛はもつれあったまま、皮膚にべったりと貼りついていました。
数時間後に、彼らの乗ったバスが東京駅に到着しました。
それから彼らはめいめいの自宅へ向かう電車へと乗り込んでいきました。
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「我々の姿はきっと胡散臭いものに見えたにちがいありません。長いあごひげと見るからに不潔な髪の毛、体に合わない運動着を着てバスから降り、多くも無い荷物をビニール袋に入れてぶら下げて歩いていましたから。」
「私たちが駅構内に入ると、一度私たちの方を見た人は、二度と視線を向けようとはしませんでした。まるで福島第一原発の事故など無かったかのように、東京駅の構内は普段と変わらない様子でした。電車に乗って座席に着くとすぐ、誰も私の隣に座りたがらないことに気づきました。」
吉澤氏は自身の累積被ばく線量を明かそうとはしませんでした。
彼は被ばく線量が異常な値であることは認めましたが、福島第一原発で2度と働けない程高い訳ではありません。
「私は自分の健康について心配することはもう止めました。」
吉澤氏は福島第一原発を離れた後、たった一度だけカウンセリングを受けただけです。
「他の人はもっと頻繁にカウンセリングを受けているようですが、大事なことはだれか隠し立てする事無く、話ができる相手を持つことだと思います。」
「でも私は自分を欺くことはできないし、もう以前と同じ自分には戻れないでしょう。東京電力の社員として、また同じ生活に戻ることは不可能です。」
日本の人々の意識の中から、『フクシマの50人』の姿がゆっくりと消え去ろうとしています。
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しかし、もし彼らが事故の真っただ中に留まり続けることが無かったら、福島第一原発はさらにひどいことになっていた可能性がありました。
『フクシマの50人』がそこで過ごした時間について忘れることはありえない、彼はそう語りました。
「私たちの間には、特別な絆が出来ました。」
吉澤氏が語りました。
「言葉で表現することはできませんが、互いを強く思いやる、同じ戦場で戦った戦友同士のようなものだったと思います。」
「私たちの場合、敵は原子力発電所でした。私たちはその敵に、力を合わせて立ち向かったのです。」
〈 完 〉
http://www.guardian.co.uk/environment/2013/jan/11/fukushima-50-kamikaze-pilots-sacrifice?INTCMP=SRCH
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全文を訳し終えたとき、かつて好きだったイギリスの作家、アラン・シリトーの小説を読み終えたときのような感動を覚えました。
そして次にあげる二つのセンテンスが、私には非常に意味深く思えるのです。
「でも私は自分を欺くことはできないし、もう以前と同じ自分には戻れないでしょう。東京電力の社員として、また同じ生活に戻ることは不可能です。」
But I don’t kid myself that life will ever be the same. As a Tepco employee, returning to a normal life is impossible.
「私たちの場合、敵は原子力発電所でした。私たちはその敵に、力を合わせて立ち向かったのです。」
In our case, the enemy was a nuclear power plant. And we fought it together.”
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