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(転写開始)
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FukushimaVoice
2013年2月4日月曜日
福島救出作戦の永続的な遺産:パート1 米国海軍軍人の放射能汚染
A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission:
Part 1 Radioactive Contamination of American Sailors
by Roger Witherspoon
原子力空母ロナルド・レーガン
ロジャー・ウィザースプーン氏の2013年1月31日の記事、”A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 1 Radioactive Contamination of American Sailors ,“「福島救出作戦の永続的な遺産:パート1 米国海軍軍人の放射能汚染」を完全和訳しました。
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米国防省は、日本において、破壊した福島第一原発から放出された放射性雲に捕えられた7万人弱の米軍人、軍属とその家族達の、前例のない医療登録を放棄する事にした。
登録の更新を止めるという事は、日本の63カ所の基地に駐屯している海兵隊、陸軍、空軍、工兵隊と海軍の軍人達、およびその家族に起こるであろう健康問題の推移を観る手だてがなくなる、ということである。さらに、原子力空母ロナルド・レーガン第七艦隊の何千人もの水兵達や海兵達に放射能被ばくによる問題が出ているのかを決定する際、彼らを見捨てる事になる。
第七艦隊は、南太平洋での任務から福島へ、トモダチ作戦のために派遣された。トモダチ作戦は、日本の東北沿岸部を破壊して2万人以上の死者を出した地震と大津波に対する、80日間の人道支援と救出作戦だった。この救出作戦は、日本政府に要請され、米国務省、原子力規制委員会、国防省とエネルギー省によってコーディネイトされた。5500人の乗組員を持つ原子力空母ロナルド・レーガン以外に、打撃群は、ミサイル駆逐艦4隻(プレブル、マクキャンベル、カーティス・ウィルバーとマケイン)と巡洋艦チャンセラーズビル、そしてその他の応援艦で構成された。
これまでに、救出作戦に参加した150人以上の男女の軍人に、放射能被ばくによって引き起こされたと思われる、腫瘍、振戦、内出血や脱毛などの様々な健康被害が起こっている。彼らはこの状況について海軍を責めていないが、東電が福島原発から出ている放射能汚染の拡散状況について米国政府に嘘の情報を提供したと言う理由で、東電に対する訴訟に加わりつつある。そして、国防省がトモダチ登録を放棄すると言う事は、彼らが医療的な援助を受けられないという事になる。
航空母艦レーガンの航海科士官の2人である、海軍クォーターマスターのモウリス・イニスとジェイミー・プリムは、海上での仕事は区分されているのだと説明した。艦内で、危険な放射能プルームが風で飛ばされて来ていると知っている人は少なく、海流が汚染させているかもしれないとは、誰も知らなかった。警報機が鳴った時、問題が起こったのだと分かった。
「我々は、艦内の塩分除去装置を用いて飲料水を作ります。」と、フロリダ州セント・オーガスティン市出身の28歳であるプリムは言った。「その水は海から来ます。そして、海が放射能汚染されていました。そのため、艦内の水を一旦全部捨て、汚染がなくなるまで、装置を何度も洗って汚染が残っていないのを検査する必要がありました。
艦内には冷却水を必要とする原子力発電所がありますが、その原子炉を、福島原発の原子炉からの放射能で汚染するわけにはいきませんでした。」
原子力空母ロナルド・レーガンの位置を海図に記入する航海科士官ジェイミー・プリムhttp://fukushimavoice.blogspot.jp/2013/02/1.html?spref=tw
しかし、放射能汚染を避けるのは簡単ではなかった。海流が汚染されていない沖まで移動し、船やパイプを洗い、再び岸へ戻った。
「我々は、海図上のどの場所に放射能があるのかを目視することができたわけですが、そこを航海するのは緊張しました。」とイニスは語った。「一般の人々、および、民間の船は、放射能がどこにあるのか、あるいは、それが何か分からず、口コミや噂に頼っていました。我々はもっと多くの情報を持っていました。しかし、東 電から心配しなくていい、と言われていたがために、どれくらいの放射能が放出したのか、知る手だては完全に閉ざされていました。
航海科士官モウリス・イニス
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我々は延べ80日、沿岸から2マイル(3.2km)まで近づき、そして、移動しました。風向きに左右されるイタチごっこでした。助けが必要な日本の人達を援助するために戻り続けましたが、その度、また別の危険な場所に到達しました。最初に警報が鳴った後は、東電がないと言った場所に放射能汚染があり、その度に全てを遮蔽し、ガスマスクを持ち歩かなければいけませんでした。」
放射能に関して的確な情報を得る事に関しては、陸に居た米国人達も途方に暮れていた。当時の米国原子力規制委員会(NRC)委員長であったグレゴリー・ヤッコは、爆発した原子炉から50マイル(80km)以内に居住する米国人の避難を促した。国防省は、放射能探知機が環境放射能の上昇を察知した後、福島から南へ300マイル(480km)にある横須賀海軍基地から、女性と子供を避難させた。
情報収集は困難であり、日本の官僚制の融通のきかなさがために、その困難は、さらなる困難さを招いた。『憂慮する科学者同盟』の原子力専門家の2人であるデイヴィッド・ロックボウム(NRCと原子力産業の元コンサルタント)とエド・ライマン(核物理学者)は、データベースが一時間毎に変わって具体的な情報を得るのが難しかった混乱期の間の、何千もの政府メールや外電などの調査をした。
「福島第一原発4号機の爆発後、日本側は使用済み燃料プールの冷却に十分な水を投入する事ができませんでした。」とロックボウムは言った。「なので、米政府はわざわざオーストラリアから、コンクリートポンプトラックを本州北部の米海軍基地へ空輸しました。なのに日本政府は日本の道路を移動する許可証がないと言って、基地から動かす事を許しませんでした。彼らに起こっていた問題の規模を考慮すると、その優先順位は間違っていると思えました。
しかし日本文化は、皆が指揮者の指示に従うシンフォニーのようなものです。一方、アメリカ社会は、皆が一緒に演奏していても即興が高く評価される、ジャズ・アンサンブルのようなものなのです。」
日本側から、まとまった、かつ、信用に値する情報を得られない状況は、アメリカの救助活動の妨げとなった。
福島から約300km(注:原文では60マイル、すなわち96kmと書かれているが、実際には300km位)に位置する厚木基地がベースの、ヘリコプター戦隊の上級一等整備士マイケル・シーボーンの回想によると、「地震と津波の後に、我々の戦隊は、一日の猶予を持って、司令部の荷造りをし、仙台と福島地域に援助活動をするために三沢空軍基地に移動するように言われました。他の戦隊は全部グアムに避難していました。厚木基地が閉鎖されてしまい、もう戻れないであろうと言う、大きな可能性がありました。もう戻れないだろうから、と自分の車のダッシュボードに名前と電話番号を記すように言われました。
三沢基地には3週間半居て、人を救助したり物資を運んだり、毎日継続した往復飛行の任務をこなしました。原子力技術者が何人か居て、任務から戻って来る人達のスクリーニングをしました。軍服の一部分を切ってしまわなければいけないことが多くありました。(注:恐らく軍服の一部分が放射能汚染されていたためと思われる)」
シーボーンは、グアムに3日派遣され、集中トレーニングを受けて放射能士官に任命された。それは簡単ではなかった。
放射能士官マイケル・シーボーンhttp://fukushimavoice.blogspot.jp/2013/02/1.html?spref=tw
「これは完全に未曾有の出来事でした。我々は、以前に放射能と対処した事はありませんでした。全てが新しい事で、皆、訳が分かっていませんでした。我々は、化学兵器と生物兵器を用いた演習は十分受けていましたが、放射能を扱った演習は受けた事がありませんでした。これは核の事ですが、我々は核に関しては扱わなかったのです。空軍の連中は、放射能と対処した事がありませんでした。航空機が放射能汚染を受けた事はありませんでした。だから、我々は、全く盲目的に飛んでいたのです。」
シーボーンのグループの整備士達にはルールがあった。帰還したヘリコプターに放射能スクリーニングをした。そして、汚染された部品を外して水を張った特別の容器に入れ、滑走路の離れた場所に隔離した。三沢で雪が降り始めたので、福島に近い厚木基地に戻った。シーボーンは、電動放射能探知機で、変動する放射能レベルを、Corrected Counts Per Minute(CCPM)と言う単位で測った。(注:CCPMとは、CPMで測定された実測値からバックグラウンド値を差し引いた数値である)
「普通の外での自然放射線量は5から10 CCPMです。」とシーボーンは言った。「そして、それは太陽から来る放射線です。厚木基地でのバックグラウンド放射線量は、大気で200から300 CCPMありました。放射能はそこら中にありました。水が放射能で汚染されていました。地面が放射能で汚染されていました。空気が放射能で汚染されていました。
ルールはこうでした。何かから500 CCPM以上の測定値が出たら、特別の手袋が必要でした。1000 CCPM以上なら、タイベックス放射能スーツが必要でした。5000 CCPM以上なら、スーツ、フィルター付き保護マスク、ゴーグルと二重手袋の一式が必要でした。汚染されたラジエーターはヘリコプターに戻すことはできなく、取り替えなければいけませんでした。ラジエーターを外して測定した時に、60,000 CCPMだった事があるのを覚えています。」
しかし、最終的に、安全設備は十分でなかったかもしれない。
作成に2年かかり、2012年末に完成したトモダチ医療登録は、米国上院退役軍人問題委員会の委員長であるバーモント州のバーニー・サンダース上院議員の主張に基づいて始まった、国防省、エネルギー省と 退役軍人委員会の共同活動であった。
トモダチ医療登録は、福島第一原発の1号機から4号機より何ヶ月も大気と海に放出された放射能、特にヨウ素とセシウム、への被ばくによる長期的影響があるかと言う事を決めるための医学的ベースラインを作るために不可欠な、徹底した登録制度であった。
https://registry.csd.disa.mil/registryWeb/Registry/OperationTomodachi/DisplayAbout.do
トモダチ医療登録の深さは他に例を見なかった。国防省の、252ページに渡る、7万人の米国人の放射能被ばく量評価は、福島からの距離、仕事の種類と呼吸数への影響、天候の変動、性別、体のサイズや年齢等の色んな因子によって分類されている。子供は、年齢による放射能への感受性を反映して、6つの年齢グループに分類された。
さらに、この報告では「8000人以上が内部被ばく検査を受け、その結果が計算された被ばく量と比較された。」と述べられている。
しかし最終的に国防省は、全身と甲状腺においての最大で可能な推定被ばく量が、さらなる調査を必要とするほどひどくなかったと言う結論に達した。
海軍のスポークスマンであるマシュー・アレン大尉の声明書には次のように述べられている。「国防省は、この推定被ばく量の正確さについて非常に高い信頼を持っています。なぜかと申しますと、この推定被ばく量は、大変保守的な被ばく状況(例えば、環境放射線量が高く、呼吸数が普通よりも多い60日間ずっと、 24時間外に居たと仮定)を仮定した結果であるからです。
この推定被ばく量は、退役軍人の線量再構成に関する勧告委員会(VBDR)と米国放射線防護・測定審議会(NCRP)によって綿密に検討され、推定被ばく量の計算方法が適切であり、結果が正確であるという評価を受けました。さらに、線量推定は、日本政府やWHOの推定と一致していました。」
国防省のスポークスウーマンであるシンシア・スミスは、国防省が重篤な放射能汚染がなかったと決定したため、「2011年3月11日位から始まった福島第一原発の事故とそれに続く放射能の放出後に日本の本州とその近辺にいた国防省関連の集団の中の誰においても、健康調査対策は必要でありません。」と付け加えた。
しかし、環境を汚染した放射能レベルが低かったから、日本で生活していた大人や子供の継続したモニタリングが必要でないという、国防省の総括的な結論に懐疑的な意見もある。
議会で証言するデイヴィッド・ロックボウム
ロックボウムは、「放射能は均一的に拡散しません。」 と言う。「ホットスポットとロースポットがあり、誰が高いゾーンに居て誰が低いゾーンに居るのかは、誰にも分かりません。実際の個人の放射能被ばく量が、誰に分かると言うのでしょうか?飲食からの被ばく量は(推定の)計算に入れられませんでした。
これは海軍が行った、数少ないデータポイントをグループ全体に照らし合わせるという、全力の試みです。多数の測定が行なわれましたが、これらは時間の中のひとつのポイントに過ぎません。夜景をストロボライトで撮影するのに似ています。ストロボがつく度に、場所の一部分の写真を撮る事になります。でもそれで、暗闇の全てをとらえたと言えますか?」
寄稿者: Yuri
転写終了
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