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定年後のあなたに本当に「コミュニティ」は必要か
人生100年時代、今こそ問い直されるコミュニティの本当の意味
2019.1.28(月) 秋山 美紀
定年退職すると、会社という「コミュニティ」を失うことになる。その後はどうすればいいのか?(写真はイメージ)
(秋山 美紀:慶應義塾大学 環境情報学部 教授)
人生100年時代を迎えた今、退職後の約30年以上を、どこでどのように過ごすのか、どこに自分の拠りどころを見つけるのか、といった話題が、巷をにぎわしている。そうした中に、「人が生きていくためにはコミュニティが重要だ」とか「仕事以外に何らかのコミュニティに参加すべき」という主張が散見される。しかし、こうした主張に対して、押し付けられ感やプレッシャー、違和感を持っている人も少なくないようだ。
筆者は「コミュニティ」と「健康」の関連を研究しているが、行政関係者も含めてコミュニティについては様々な混乱や誤解があるように感じている。そこで本稿では、改めて「コミュニティ」とは何なのか、今なぜその必要性が叫ばれているのか、我々はコミュニティをどう捉え、どう向き合ったらいいのかを考えたい。
コミュニティが見直されたきっかけ
実は、コミュニティは、決して美しい存在ではない。共同体としてのコミュニティは、かつての農村社会のように、長きにわたり、個人を束縛し、異質なものを排除する、煩わしく窮屈なものだった。自治会や町内会は、第2次大戦中は「隣組」と呼ばれる相互監視の装置として働き、戦後1947年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は自治会の廃止命令を出したほどだ。
自由と個人化を望む人々から距離を置かれてきたコミュニティの価値が「良きもの」として再発見される契機となったのは、1995年の阪神淡路大震災だった。未曾有の震災直後、公的サービス不在のもとで、近隣住民が自発的に救助を行ったり、避難所や仮設住宅で自生的な自治が形成されたりと、協働し助け合う機能を持ったコミュニティの存在に多くの被災者が救われた。
忘れてならないのは、これがインターネットの普及という情報環境の変化と呼応していることだ。よそ者が参戦できる情報基盤があってこそ、自発的なコミュニティが生まれ、それが力を発揮したとも言える。
それから16年後の2011年3月、東日本大震災で日本全体が大きな喪失感を共有する中、「絆」や「つながり」の重要性が再認識された。被災者を支援しようというよそ者と被災した当事者がとつながり、1日も早い復興を願って活動するコミュニティが生まれた。この時は、LINEやFacebookなどのソーシャルメディアが地理的空間を超えたコミュニティづくりに一役買った。その中には自然発生的に生まれ、当面のミッションを終えて自然消滅していったコミュニティも数多くあった。
このように、伝統的な地域コミュニティが風前の灯火として消えかけていた一方で、昨今はヴァーチャルな世界も含め、多様なコミュニティが生まれている。
そもそも「コミュニティ」とは何か?
改めてコミュニティを定義すると、「人間がそれに対して何らかの帰属意識を持ち、かつそのメンバーに一定の支えあいの意識が働いているような人の集まり」となる。
アメリカの社会学者マッキーヴァーは、コミュニティにとって不可欠なのは、メンバーが以下の3つの感覚を共有していることだと述べている(下の図)。
つまり、メンバーがそういう感覚を持っているならその集団はコミュニティだし、そういう感覚がなければコミュニティではないということになる。これが、コミュニティは「想像の産物」とか「幻想」と言われる所以だ。
筆者は、実態としてのコミュニティよりも、この“感覚や認識としてのコミュニティ”こそが、老年期に向かう人間が安心して幸せに生きていくために重要だと感じている。
仲間がいて、何らかの役割や、支えあってるという感覚を持てる場がコミュニティだとすると、それはライフコースの場面によって変化していく。子供時代は学校や地域の中のコミュニティに帰属し、成長するにつれて大学や企業といった、それまでの地域コミュニティと切り離されたいくつかの組織内に居場所を見つける。企業は目的を持った「組織」であり、必ずしもコミュニティではない。しかし、日本における「カイシャ」は、従業員にとって「理念」「ミッション」「仲間意識」「協働意識」を共有していると認識できるコミュニティとして存在していたとも言える。
なぜ今、コミュニティが叫ばれるのか?
コミュニティの賛否は、近代以降、社会学、行政学、経営学、福祉や公衆衛生など様々な分野で活発に論じられてきた。ではなぜ今、改めてコミュニティが必要だと声高に叫ばれているのか。
昨今の日本におけるコミュニティ必要論の隆盛には、大きく以下の3つの視座があると考えている。
【1】 生きがいを得られる居場所としてのコミュニティ
第1の視座は、個々人の人生における生きがいを得られる居場所としてのコミュニティである。既に始まっている団塊の世代の大量リタイアによって、そのニーズがより顕在化してきた。
戦後生まれの団塊の世代は、安定した終身雇用制度のもと学校卒業後40年もの長きにわたり1つの企業組織に帰属してきた者が多い。仕事で頑張った成果は、ポストや報酬という形で他者から評価され、それによって社会的承認欲求が満たされていた。そんな企業人たちは、「定年退職」という一大ライフイベントによって、それまでの拠り所、地位、アイデンティティを一度に奪われることになる。
平均寿命がようやく70歳を超え始めた高度成長期の頃は、定年後の人生もせいぜい5〜10年しかなく、趣味や旅行などで余生を楽しく過ごせばよかった。しかし今は、健康寿命の延伸により、少なくともあと20年は元気な状態で生きられるようになった。あまりお金がかかる楽しみばかりできないが、かといってゴロゴロしていては家族から疎ましがられる。まだまだ自分は人の役に立てるはず、人に認められたい、生きがいを持ちたい、そんな思いを持つ熟年者の参加の場として「コミュニティ」が注目されている。定年退職後の男性の社会参加を円滑にできるような準備講座も昨今は花盛りだ。
【2】個人も社会も健やかになる「資本」としてのコミュニティ
コミュニティが重要視される2つ目の視座は、人のつながりや信頼の共有が、個人も社会も健やかにしていくといった実証研究に基づくものである。
たとえば友人が多くいる人、趣味のサークルや地域活動に参加している人は、そうでない人に比べて、身体機能や認知機能の衰え方がゆるやかで高い健康度が維持されることが、集団を長期にわたって追跡する数多くの研究によって示されている。また、様々な住民活動が盛んな地域は、そうでない地域と比べて、地域全体としての治安レベル、教育レベル、健康レベルが高くなることも、数々の研究が示している。
こうした良い効果を生み出すような人のつながり、規範や信頼の共有は、「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)」と呼ばれ、社会疫学分野で盛んに研究されてきた。良いコミュニティは、そこに所属する一人ひとりを健やかにするのみならず、地域まるごとを健やかにしていく「資本」になるという示唆である。そうした数々の実証研究の後押しで、日本では2012年度から地域保健活動の中心的な政策目標の1つが、「地域のソーシャルキャピタルを活用した自助や共助の支援」となっている。
【3】不足する地域ケア資源の補完としてのコミュニティ
3点目は、不足する地域資源を補う互助の仕組みとして、住民のつながりを再形成しようとする視座だ。
日本では2025年には、670万人を超える団塊の世代が全て75歳以上の後期高齢者となり、多死社会が加速する。一人暮らし高齢者は増え続け、また高齢者の5人に1人が認知症になるという試算もあり、明らかに介護や福祉サービスへのニーズが高まる。たとえば介護の現場で働く者は、現在の約180万人から、2025年には約253万人が必要になると試算されているが、少子化による労働人口の減少で、支える人材は既に不足が始まっている。「住み慣れた場所で最期まで暮らし続ける」という政府の方針は、本人の希望を叶えるのみでなく、国民医療費や介護費を抑える効果も期待されて推進されている。
しかし、地域に暮らす高齢者たちを見守る機能を強化せずに実現することは難しい。そこで国の旗振りのもと、各市町村は全力を挙げて「地域包括ケア」を推進しようとしている。地域包括ケアの英訳は“Community-based Integrated Care”、つまり中学校区のような地理的空間を「コミュニティ」として捉え、様々なニーズを持った人々への地域サービスを統合するような仕組みを構築していこうというものである。そこでは、幅広い地域住民が生活面を支え合うという視点で何らかの役割や自覚を持つことが理念とされている。まだまだ知力、気力、体力、そして時間もある前期高齢者には、「支える側」として力を発揮してもらいたいという地域からの期待は大きい。
会話がなくてもコミュニティは成立する
以上のような複数の文脈から、コミュニティの重要性が声高らかに言われているわけだが、では高齢者あるいはその入り口にいる本人は、コミュニティをどう捉え、どう向き合ったらいいのか?
筆者自身は、特段意識せずとも、自分が心地よいと思えること、好きなこと、心が満たされることを入り口に一歩を踏み出せれば、それが一番良いと考えている。趣味、同窓会、生涯学習、地域貢献、アルバイトなど、人の輪に参加するのもいいし、一人で好きなことをするのも良い。
むしろ自分自身と向き合う一人の時間を心地よいものにすることは、先々の人生を生きるために重要になってくる。一人であることは「孤独」と違う。一人の時間を過ごしていても、どこかに「仲間がいる感覚」「自分に何らかの役割がある感覚」「誰かに支えられている感覚」を持てるならば、その人には認識としての「コミュニティ」が存在することになる。
実は、「自分が社会の一部として存在しているという認識」や「つながっていると感じる気持ち」は、老年期の幸福感とも関連があり、やがて誰しもに訪れる「死」が近づいてきた時にも、それを平穏で満たされた気持ちで受け入れていけることにつながる。この種の感覚は「老年的超越」と呼ばれ、近年、研究によって少しずつ明らかになっているのだが、これについてはまたの機会にお伝えすることとしたい。
まとめると、帰属やつながりを感じられ、かといって窮屈ではない「認識としてのコミュニティ」が、人が安心感や満足感を持って生きていくために重要ということになるだろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55256
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