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38年目の亡霊 奥崎謙三と戦争責任/橘玲
2012年06月14日
http://blogos.com/article/41126/
(抜粋)
全滅の島
奥崎は、山中で腐り果て、蛆虫にたかられ山豚の餌になるよりは、ひとおもいに米兵に射殺された方がマシだと思い、酋長らしき男の前に飛び出し「アメリカ・ソルジャー・カム・ガン(米兵を呼んで撃ち殺してくれ)」と叫んで自分の胸を指した。だが酋長は、「アメリカ、イギリス、オランダ、インドネシア、ニッポンみんな同じ」といって、奥崎に食事をふるまったあと米兵に引き渡した。
奥崎はこうして終戦の1年前に捕えられ、オーストラリアの俘虜収容所で玉音放送を聴くことになる。ウェワクからホーランジャを目指した独立工兵第36連隊千数百人のうち、生き残ったのは奥崎を含めわずか8名だった。
ジャングルという生き地獄
帰国した奥崎は…56年4月、不動産業者とのトラブルから相手を刺し殺し、傷害致死で懲役10年の刑に処せられる。大阪刑務所の独居房で奥崎は、自分はなぜあの戦場から生きて日本に戻ってきたのかを考える。そして、この世のすべての権力を打ち倒し、万人が幸福になれる「神の国」をつくることこそが、ニューギニアで神が自分を生かした理由であり、戦争責任を果たそうとしない天皇を攻撃することで自らの信念を広く世に知らしめるべきだと決意する。
出所後の69年1月2日、新春の一般参賀で、奥崎はバルコニーの天皇に向かってゴムパチンコで数個のパチンコ玉を撃ち込んだ(暴行罪で懲役1年6ヶ月の実刑)。
原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』では、「神軍平等兵」を名乗る奥崎が、ニューギニア・ウェワクの残留部隊で起きた銃殺事件をめぐって、終戦後38年目にかつての帝国陸軍兵士たちを訪ね歩く。
ウェワクでは終戦当時、4キロ四方のジャングルに一万数千人の日本兵が立てこもり、その周囲を連合軍が完全に包囲していた。日本軍は敗戦を知ってもただちに投降せず、独立工兵第36連隊の残留守備隊長(中尉)は9月7日(終戦の23日後)、2人の上等兵を敵前逃亡の罪で銃殺刑に処した。2人は「戦病死」として処理されたものの、この異常な出来事は兵士たちのあいだで広く知られており、ドキュメンタリーの格好の素材として、原監督が奥崎に、遺族とともに真相を究明することを提案したのだ。
奥崎の特異なキャラクターは、ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞など多くの賞を受賞した映画を観てもらうほかないのだが、この銃殺事件の全貌を知るうえで不可欠なのが、残留日本兵が体験した絶対的な飢餓状態だ。
終戦後の処刑
「捨身即救身」「神軍 怨霊」などと車体に大書し、自費出版した『人類を救済する手段として田中角栄を殺すために記す』なる書籍の巨大な看板を載せた白のマークUを駆って、奥崎は銃殺事件に関与したとされる下士官や軍医、衛生兵のもとを訪ね、ときには暴力をふるって真実を問いただす。
彼らは、徐々に重い口を開くようになる。事件の概要は、次のようなものだ。
食糧の枯渇したウェワク残留隊では、部隊にとどまっても餓死を待つだけだった。そこで多くの兵士が、食糧を求めて部隊を離脱した。2人の上等兵も、「どうせ死ぬなら腹いっぱい食べてから死にたい」と、連れ立って部隊を離れた。ところがそのうちの一人が重いマラリアにかかり、日本の敗戦を知ったこともあって、部隊に戻ることにしたのだ。
元兵士たちによれば、終戦の3日後には、残留隊でもその事実は知られていた。それでも投降しなかった理由は定かではないが、部隊は9月のはじめまで籠城戦をつづけることになる。そんなとき、「敵前逃亡」した兵士が突然戻ってきたのは迷惑以外のなにものでもなかった。
独立工兵第36連隊の残留守備隊長は、軍命令を理由に、敵前逃亡の咎で2人を銃殺刑に処すよう下士官に命じる。
銃殺刑では小銃が5丁用意され、そのうち1丁はわざと空砲にしてあった。曹長や軍曹、伍長、衛生兵など、銃をとった兵士たちは、誰もが自分は空砲を撃ったか、わざと照準を外したと釈明した。
2人は倒れたが、まだ息はあった。そこで残留守備隊長が腰のピストルを抜いて、1発ずつ撃ち込んで止めを刺した。
残留守備隊長は戦後、苗字を変えて暮らしていた。さらには5人の処刑人のうち2人までが、やはり苗字を変えていた。彼らみな、ひとに知られてはならない過去を怖れていた。
処刑人の1人だった元衛生兵は、奥崎と遺族の前で、2人の遺体は地面に埋めて葬ったと述べた。終戦後、遺骨の入った箱を届けた曹長は、父と弟の前で、「これ以上はなにも聞かないでください」と号泣した。
奥崎や遺族は元衛生兵に対し、残留部隊の食糧事情を執拗に追求した。いまは神戸で息子たちと割烹を営む気の弱そうな元衛生兵は、自分たちが「白ブタ」や「黒ブタ」を食べて飢えをしのいでいたことをあっさりと告白する。「白ブタ」は白人の肉、「黒ブタ」は原住民の肉のことだ。
衛生兵はなんども、「日本兵の肉を食べたことはない」と繰り返した……。
38年目の亡霊
『ゆきゆきて神軍』で奥崎が訪ねる旧日本兵たちはみな60歳を過ぎ、子どもや孫に囲まれて暮らしていた。戦後を平凡な一市民として生き、いまや好々爺となった彼らの前に、38年の時を経て怨霊のごとき奥崎が現われ、ニューギニアの生き地獄の記憶を呼び覚ましていく。
映画の最後で奥崎は、同じ中隊にいた山田吉太郎という元軍曹を訪ねる。山田は病気のため6回も開腹手術を重ね、そのときは埼玉県・深谷市の実家に戻ってきたばかりだった。
独立工兵第36連隊の本隊は、終戦前には、連隊長以下わずか5名になっており、生きて日本に戻ってきたのは山田一人だった。山田は戦後、奥崎にも声をかけて、『独立工兵第三十六連隊行動記録』という小冊子を編むが、ニューギニアのジャングルでのほんとうの出来事を決して語ろうとはしなかった。
そんな山田に奥崎は、ニューギニアから生かされて帰ってきたことの意味をはげしく問う。
あなたは地獄を見てきたわけでしょ。その地獄を語らなくて、戦友の慰霊なんかなるはずがないですよ。
あなたのような特別なね、部隊主力からただ一人生きて帰られた方がね、世間一般の方のように、ご自分の子どもさんと家族だけをやっておられたんではね、おそらく天は、そういう世間並みのね、戦争体験のない人間のような生き様をさせるために日本に帰らしたんじゃないんだと(いって)、あなたに、そういう何回も(腹を)切るようなね、私は病気をなさったんじゃないかと思った。
奥崎は病身の山田を「天罰」と面罵し、「靖国神社」という言葉に激昂して殴りかかる。警察官を呼ぶ騒ぎのあと、山田ははじめて自身の戦争体験を語りはじめるのだ。
山田が生き延びたのは、日本兵が日本兵を殺して食べる鬼畜の世界だった。だがそこには、暗黙の掟があった。
真っ先に狙われるのは、他の部隊の食糧を盗んだり、「一人だけ生きようとする、ずるく考える」兵士だ。こうした兵士は、全員の迷惑になるという理由で、所属する部隊に「責任をとれ」という圧力がかかる。それを拒否すれば自分たちの身があぶないから、隊長はやむなく部下を処刑し、その肉を差し出す。ジャングルの極限状況では、ムラ社会に与えた損害は、部下の人肉によって償わなければならなかったのだ。
だがそれによって、部隊の人数は減っていく。人数が減れば減るほど、他の部隊から狙われやすくなる。このようにして部下を失った連隊長は自殺し、最後に山田だけが残った。
山田元軍曹は、奥崎にいう。
実を言えば、自分のことは言いたくねえけど、勘がよかったわけ。水がある山、ない山、この峰はどっちに通じるか、外が見えないジャングルだって、見分けるだけの力があったわけ。だから、俺を殺しちゃえば、みんな不自由になるわけ。だから殺したいっていう人も、殺して食いたいっていう人もいるけんども、また、かばう人もいるわけだ。それで、生きたんだよ。
1983年12月、奥崎は上等兵2名を銃殺した責任を認めない元残留守備隊長を殺害すべく、改造銃を持って自宅を訪ね、応対に出た長男に発砲して重傷を負わせる。懲役12年の判決を受け、97年に満期出所。05年に死去。享年85だった。
・日本の悲哀の「原罪」をみた!−奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/624.html
投稿者 仁王像 日時 2008 年 3 月 18 日 21:11:26: jdZgmZ21Prm8E
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