日本人はなぜ無宗教なのか? -「日本人に『宗教』は要らない」書評 海外に行くと、「宗教」について考えさせられる機会が増えます。
インドではヒンズー教の信仰が人々の生活に根づいているし、ヨーロッパではキリスト教の美しい教会が、中東では髪の毛を覆ったイスラム教徒の女性が目につきます。 日本には多くの神社やお寺がありますが、特定の宗教を信じている人は少ないですよね。お正月には神社へ初詣に行き、クリスマス(=イエス・キリストの誕生日)も盛大にお祝いして、お葬式は仏教式でやる…外国人からみたら、いろんな宗教がごちゃまぜ状態です。 なぜ日本人の多くは、特定の宗教を信仰していないのでしょうか?
「日本人に「宗教」は要らない」という本にその答えが書かれていました。 日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書) 新書 – 2014/2/8 ネルケ無方 (著) http://www.amazon.co.jp/gp/product/4584124329/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4584124329&linkCode=as2&tag=asyuracom-22
著者はネルケ無方さん。以前、
「日本で出家したドイツ人僧侶の『ここがヘンだよ!日本の仏教』」 http://liliki2.seesaa.net/article/416606609.html と言う記事で紹介したドイツ出身のお坊さんです。
本著では、元キリスト教徒であり、現在は曹洞宗の住職として活動するネルケさんが、欧米人と日本人の宗教観の違いについて語っています。以下、本の中から特に印象に残った部分を紹介します。
「日本人に『宗教』は要らない」書評 目次
1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか 2、なぜドイツ人は空気を読まないのか 3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い
1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか なぜ日本人は「宗教」に無関心なのか?それは、日本人が無意識に宗教的な生き方を実践しているからだと著者は語ります。
日々の生活を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する…そんな生き方こそ宗教の説く生き方であり、日本人は昔からそれを実践してきたといいます。
『宗教心に篤いと言われるキリスト教やイスラム教の国々では、宗教間の争いが絶えません。たとえ現在、紛争のない地域でも、治安が良くありません。社会秩序が乱れているからこそ、人々の宗教への関心が高いのでしょう。日本のような安定した社会、争いごとの少ない社会は、世界の中でも珍しいのです。 (中略)
日常生活の中に、仏教や神道の教えが根付いているからこそ、日本人は宗教に無関心だったのではないでしょうか。日本人は、宗教を考える必要がなかったのです。』 「宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない」と著者は語ります。みんなが当たり前と思っていることは、わざわざ問題にする必要もないのです。宗教心が自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要もありません。
『しかし、日本でも最近、「絆が大事」「思いやりの心を持とう」と言われるようになった。そう言われなければならない状況こそ、私は問題だと思う。日本人は本来、そういう言葉を口にする必要もなかったのではないだろうか。』
確かに「絆」や「思いやりの心」といった単語をよく耳にするようになりました。それだけ、「心のつながり」を身近に感じられていない人が増えたのかもしれません。著者はだからこそ日本の仏教界が、変わらなければならないと言います。
『日常生活の中で禅の教えを実践し、宗教心を持って暮らしているのが日本人であるが、その日常から抜け落ちたときが危ないのではないか。
日常から抜け落ちた人たちと苦悩をともにする。日本の仏教界がその役割を担うために動き出すときではないだろうか。』 葬式仏教に甘んじているのではなく、悩める人々を救う場を作ることこそ、今求められているお寺の役割なのかもしれません。
2、なぜドイツ人は空気を読まないのか 日本人は、空気を読むのが上手です。周りに合わせて、人とシンクロする性質があるからです。
でも、欧米にはこの「空気を読む」という概念がないそうです。
『ドイツ人には、そもそも空気を読むという概念はない。なぜ他人とシンクロしなければいけないのか。ドイツ人には、なかなか理解できない。』
子どもの頃から自分を主張しなさいと教わる欧米人と、自己主張しないようにと教わる日本人。「嫌われたくない」という思いが強い日本人は、リーダーシップを取るのも苦手です。
『日本の総理大臣は、みなの意見を聞き、みなが納得できるよう調整する。しかしそれは、欧米の感覚ではリーダーの役割ではない。「嫌われても自分の主張を通すのがリーダーの役割だ」と考えるのが欧米人だ。』
選挙でも、日本人は一匹狼より調整する人を好んで投票します。逆に欧米では、一匹狼的な人のほうが格好いいとされ、票が集まるそうです。
『しかし、欧米のように個が強すぎるのも問題だ。一匹狼を重んじ、他人はみな敵だとする西洋文化では、たくましくなければ生きていけない。他者を思いやる余裕がなくなり、争い事が多くなりがちである。』
確かに、欧米は自己主張しなきゃいけない社会なので、少し疲れます。だから海外から帰ってくると、思いやりがあって、優しい気配りのできる日本人に感動します。(まぁ、欧米のドライ&自由な雰囲気も嫌いじゃないですが…^^)
3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い 日本ではよく「亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんが、天国からわたしたちを見守ってくれている」なんて言葉を聞きますが、キリスト教徒にはこういった感覚がないそうです。 自分を見ているのは神であるイエス・キリスト、あるいはマリアであってご先祖様ではない、というのが彼らの主張です。イエス・キリストを信じていれば、死後天国に行け、信じなければ地獄に落ちると信じているのです。 『キリスト教では、生まれてきた理由に関しては、あまり記述がない。いきなり生まれてきて、70〜80歳の人生があり、死ぬと天国か地獄へ行く。そして、世界の終末には最後の審判があり、なぜか全員復活する。そこで、永遠の命を得るか、地獄で苦しみ続けるかが決まる。』
日本ではお墓参りが習慣化され、大切にされていますが、ドイツ人はほとんどお墓参りに行かないそうです。
『通常、寿命を全うした歳で亡くなったとしたら、墓参りに行くことはほとんどない。「墓は故人の遺灰や遺体を埋めるところであって、その場所に特別な意味はない」とドイツ人は思ってしまう。もちろん、亡くなった親族のことは心の中で思い浮かべたりするが、わざわざ墓に行って何かをするという発想はない。』
そのため、墓地の場所を忘れてしまっている人も多いそうです。また、欧米では日本のように墓地を忌み嫌う感覚がありません。緑あふれる広大な墓地は、デートスポットの定番でもあるんだとか。墓地でデートなんて…日本ではちょっと考えられないですね!^^
最後に その他にも、
・お寺と教会における集金システムの違い ・日本で「キリスト教」が広まらなかった本当の理由 ・なぜ欧米人の父親は子どもの扱いが下手なのか? など興味深い内容が多かったです。 また最後の方に出てくる、日常生活に役立つ「禅」の教えや、どうしたら幸せになれるのか、などのお話も面白いです。よかったら、ぜひご一読ください♪ ↓
「日本人に「宗教」は要らない」 http://liliki2.seesaa.net/article/420075965.html
神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教です. アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる.
神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしたもの. 日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物なのですね.
仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された. それはキリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからなのです. 自然神道とは これが弥生人の神道 古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」と呼びました。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのです。病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していました。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのです。
「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きです(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違いますが、生命エネルギーの活性化という意味では同じです)。神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのです。 「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法です。そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのです http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045056.html 人里に近い山を「葉山」といい、亡者の霊がしばし山中に留まり、この世への執着を絶った後に祖霊となり、やがて里を訪れて子孫に福をもたらしてくれる、という葉山信仰が東北に多く、恐山もその一つだ、といいます。 http://www.kurikomanosato.jp/to-r07simokita.htm 「人が死ねば肉体は滅びても、その霊は祖霊として永遠不滅な一種の生命体となって蘇生復活し、高い山に上って住み、山上から麓の子孫を守ってくれる」と信じられていました。この我が国固有の信仰は、すでに「古事記」にも見られ、永年にわたって脈々と受け継がれてきたのです。 古来、子孫の生活の中で最も重要なことは「稲作」であり、祖霊なる「ハヤマの神」は、春4月8日ごろ「田の神」とになって田に降りて、子孫の農耕を助け、秋の収穫が終わると、家族と新穀を共食し、10月8日ごろ再び山に帰って休むと信じられていました。 したがって、「ハヤマ」のある場所は、田の見える端の山でなければなりません。もっとも、祖霊の住まう山は「ハヤマ」の冠を持つとは限らず、山形県や秋田県の「モリノヤマ」などは、「ハヤマ」に相当する山です。 http://www.geocities.jp/hayama1462m/hayama-history.htm これが縄文人の神道
上の稲作云々の部分は弥生時代以降に変わった部分で本来の神道は: アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。 日本の仏教は仏教ではなく自然神道
仏教史を整理すると
@ 釈迦は輪廻転生や死後の世界が深層心理に基づく virtual なものだというのに気付いた。
A しかし、当時の人は魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じていたから、真理をそのまま教えたらパトロンの王侯貴族からお布施が貰えなくなる。
B それで、対機説法というのを考えて、魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じている一般人には真理を伝えないで誤魔化す事にした。
C 釈迦の弟子もお布施が貰えなくなると困るから、釈迦の対機説法を釈迦の教えとして仏典をまとめた。 スッタニパータで釈迦が否定した筈の天界や輪廻転生が語られるのにはそういう事情があった。
D 部派仏教で人間の心の深層の研究が進むにつれ、ブラフマン・アートマンが実在する事が確認され、釈迦の無我論をそのままの形で継承するのが不可能となった。
E 大乗仏教になると、釈迦の対機説法を当時の一般民衆に人気のあったヒンドゥー教に置き変えて、宗教ビジネスとして完成させた。 大乗仏教の空というのは本質的にはブラフマン・アートマンと同じものを指している。 その結果、大乗仏教での悟りも釈迦の悟りではなく、バラモン教・ヒンドゥー教の悟り、即ち梵我一如と輪廻転生からの解脱と本質的には変わらなくなってしまった。
F 日本に渡来した大乗仏教ではさらに、仏教の外見だけ残して中身を完全に自然神道に置き変えて、それまで村の古老がやっていた儀式を殆ど引き継いだ。 日本のお坊さんが本来の仏教では絶対にやらない筈の葬式やお盆で稼いでいるのはこういう事情なのです。
纏めると
インド仏教は外観だけ釈迦の教えに見せ掛けているが、中身はバラモン教・ヒンドゥー教に置き換えた。
中国仏教は外観だけインド仏教に見せ掛けているが、中身は道教に置き換えた。 日本仏教は外観だけ中国仏教に見せ掛けているが、中身は自然神道に置き換えた。
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