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「“イスラム国”と“恐怖の輸出”」菅原 出/講談社現代新書 2015年 から抜粋
第二章 「イスラム国」誕生
≪「イスラム国」の青写真を描いた男≫
シーア派の圧政とシリア内戦が生んだ機会を捉えたISは、いよいよ計画を次の段階へと移し始めた。「イスラム国(IS)」建国という壮大な計画である。
2015.4.15にドイツの『シュピーゲル』誌が「秘密のファイルがイスラム国の成立ちを暴露」と題したスクープ記事を発表した。同誌は、フセイン政権時代に軍の情報将校を務め、2014.1月に戦闘中死亡したサミル・アブド・ムハマド・フリファウィ大佐(ハッジ・バクル)が書き残した文書を入手して分析したところ、「イスラム国」建国の青写真が詳細に描かれていたことを突き止めたのだ。
同大佐は通称「ハッジ・バクル」と呼ばれており、ISの中核メンバーであったことが専門家の間でも知られていたが、彼が書き残した文書によってその重要な役割が裏付けられた。
同誌によれば、ハッジ・バクルがシリアに渡ったのは2012年終盤の頃で、無秩序化が進むシリアの状況をみて、「ここで可能な限り領地を獲得し、そこを拠点にイラクへ侵攻する」こと決意したという。
バクルはシリア北部アレッポの北にあるタル・リファートという町に住居を構え、「イスラム国」の設計図を描いていた。タル・リファートには、1980年代にサウジを中心とする湾岸アラブ諸国に出稼ぎに行った住民が多く住んでおり、イスラム過激主義者のネットワークを構築するには最適の場所だった。2013年には、この町はISのメンバーの拠点となり、数百名の戦闘員がアジトを構えるようになった。
バクルは注意深く各機関、各自の責任や役割を定義して「国家」の組織図を練っていたが、その国家機構は、フセイン政権時代の諜報機関による監視国家のそれと瓜二つだったという。秘密諜報機関がコントロールするカリフ制国家「イスラム・インテリジェンス国家」が、「イスラム国(IS)」の基本コンセプトだった。
バクルは、各地に「イスラム普及センター」を開き、イスラムの宗教や生活に関する講座を開講し、集まった生徒の中からスパイを選び、将来攻略しようと思う町や村の情報収集にあたらせる計画を立てた。そしてスパイたちにそれぞれの町や村で、@有力なファミリー Aそれらファミリーの中のキーパーソン B彼らの収入源 C村の武装組織の規模や構成員 D武装組織の指揮官の名前、政治的傾向 Eイスラム法に基づく彼らの違法行為(恐喝に利用するため)といった詳細情報を集めさせた。
そしてそれぞれの村の有力者をどのようにして自分たちの味方につけるか、綿密な計画を立てて実行に移していったのである。
ISが、シリアやイラクのスンニ派地域に、静かにしかし深く浸透していった背景には、単にスンニ派地域でアサド政権やマリキ政権に対する不満が増大していったことだけでなく、各地域の有力者を取り込むために水面下で工作活動を行ってきたことがある。
バクルは2006年から2008年まで、イラクにあった米軍基地内に設置された収容所「キャンプ・ブッカ」や悪名高きアブ・グレイブ刑務所に収監されていたことがある。(中略)
バクルや仲間の旧政権情報部員たちの間で、「イスラム国のカリフにはバグダディが最適」だと言う評価はすでに古くからあったという。バグダディはバクダッド大学でイスラム関係の博士号を取得しており、モスクで集団礼拝の指導者をしていたとい経歴の持ち主(国枝「イスラム国の正体」)。高い宗教教育を受けたバグダディは、「イスラム国」の宗教的な顔として打って付けの存在だと考えられた。
≪6.29「イスラム国」樹立≫
モスルを陥落させた翌日にISは、同市に止まらず、ニナワ県全体を制圧し、その二日後には、さらにティグリス川沿いに南下してサラーハッディーン県のティクリート市も制圧した。驚くべき電撃的な作戦だった。
実際には、ハッジ・バクルが描いた戦略に沿って、モスルやティクリート市内の反IS分子は事前に排除されており、もともと士気の低いイラク軍の指揮官たちも脅しと買収工作で骨抜きにされていたため、イラク軍は逃げるしかなくなっていた。
- 世界がISを“国家”として承認したら、ISは権力闘争のため内部分裂して瓦解するはずです/小松啓一郎 仁王像 2015/9/10 20:10:15
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