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http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276
アメリカを動かす「反知性主義」の正体
森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く
2015年4月24日(金) 山中 浩之
イラク戦争のころ、米国駐在の友人が「こっちの人は、『Save Iraq!』ってステッカーをクルマに貼ってるんだぜ」と驚いていました。世界中から突っ込まれても平気で我が道を行く、どうしてそこまで己を信じることができるのか。脚下照顧の国に生きる私たち、慎み深い日本人には分かりにくいところです。どうやら米国の底流に「反知性主義」とやらがあるせいらしい。え、語感からして、ものすごくやばい感じがしますが…
(聞き手:山中浩之)
森本 あんり(もりもと・あんり)
1956年神奈川県生まれ。国際基督教大学、東京神学大学を経て、プリンストン神学大学博士課程修了。現在国際基督教大学人文科学科(哲学宗教学)教授・学務副学長。プリンストンやバークレーで客員教授。主な著書に『ジョナサン・エドワーズ研究』『アジア神学講義』『アメリカ・キリスト教史』『アメリカ的理念の身体』など。
このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。
森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。
たしか『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホフスタッター)という、1963年に書かれた歴史的名著で、ピューリッツァー賞を取った本が…
森本:はい、彼こそが「反知性主義」の名付け親です。『アメリカの反知性主義』は、今読んでもまったく古びていないすばらしい本だと思いますが、読まれましたか。
えー、実は7年前から本棚にはあるんですが、前書きしか読んでいません。タイトルだけ見て、「ああ、やっぱりアメリカ人って、進化論を否定する人も多いとか言うし…」と、かえって偏見を深めていたことが、先生の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んで、初めて分かりました。
森本:あ、そっちはすぐ読んでいただけたんですね(笑)。
この、反知性主義(※以下、特記なき限り米国でのそれを指します)というのは、正直、日本人にはどうにも理解しにくいのではないかと思います。米国人にとっては自明のことから説明してもらわないと、我々には「なぜそうなるのか」が分からない。
「アメリカってなんでこう子どもっぽいのか」
森本:ええ、米国のキリスト教がたどってきた歴史を知らないと、なぜアメリカ人の中に反知性主義が生まれたのかは分かりにくいです。
『アメリカの反知性主義』
でも「反知性主義はアメリカのキリスト教の発展に伴って生まれてきた、この国の底に流れる思想」、というところだけは、歴史を知らなくてもなんとなく分かるので、そうなると私なんかは「ああ、進化論を否定して、宗教的な価値観を押しつけてくる原理主義的な運動かな、また禁酒法とか言い出すのかな」と、もう引きに引きまくってしまうわけです。
森本:わかります。本にも書きましたけど、『アメリカの反知性主義』は「歴史的な名著」なのに、日本でみすず書房が翻訳を出したのが2003年、原著が出てから実に40年かかりました。米国でのキリスト教の独自の発展と、それが生んだ「反知性主義」が、日本人にいかに親しみにくいかが窺えます。
『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』
ということは、そこを理解しないゆえに我々日本人は、米国人の、そしてアメリカ合衆国のグラスルーツのものの見方、考えかたがいまひとつのみ込めないのではないか、と。日本で「反知性主義」という言葉が広がりつつある今こそ、正しい意味を知っておく必要があると思うんです。
森本:この本は、昨今の日本での「反知性主義」ブームに乗るつもりはまったくなかったのです。2010年だったかな、アメリカ学会で、反知性主義はアメリカ研究のテーマの一つですから、シンポジウムがあったんですよ。そこで話をしまして、3年前に研究者向けの本を書きました(『アメリカ的理念の身体―寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』)。それと、『アステイオン』という雑誌がありますでしょう。
サントリーの。
森本:あれに反知性主義について書いたんです。それを読んだ新潮社のSさんからご依頼があって、この本を書き始めたというわけなんです。
この例えはキリスト教徒として、あり?
読む側からすれば、いいタイミングで「真打ち」が出たという感じです。ホフスタッターの本に比べてこの本が読みやすいのは、もちろん日本人が書いたということもあるのでしょうけれど、多くの日本人にとってはクリスマスのイメージしかないキリスト教を、ある意味「身もフタもない」言葉で「そうか、そういうことか」と分からせてくれるところです。
森本:分かりやすいと言っていただければ本望です。
しかし、先生も…「ふまじめ」と言っては何ですけど、もちろんクリスチャンでいらっしゃるんですよね。
森本:ええ。まあ、何というんでしょう。クリスチャンの紹介にはみんな「敬虔な」と必ずマクラ言葉でつけるけど、そういうのはだめですよ。つけないでくださいね(笑)。
信者の方なのに、「キリスト教をこれだけ突っ放して、外の人の目線に立って書いていいのか」と、ちょっとびっくりしたんですけど。
森本:そうかな。そんな身もフタもない言い方でしたか?
少なくとも、「敬虔な」信者の方だったら、キリスト教をウイルスに例えたりしないんじゃないですか。こんな文章がありましたよ。
本書の冒頭で、宗教の伝播はウィルスが感染し繁殖していくプロセスと似ていることを説明した。アメリカという土壌は、キリスト教というウィルスの繁殖には最適だったようである。
(同書269ページより。表記は原著に従っています。以下同)
森本:分かりやすいでしょ。
めちゃめちゃ分かりやすいです。
森本:ウイルスっていうのは、宿主に受け入れられて繁殖するうちに、その宿主にもたいへんな影響を及ぼすけど、自分自身も変化して亜種が生まれるんです。
その結果、アメリカのキリスト教はアメリカ社会に影響を与えつつ、オリジナルとかなり違う方向に進化したと。ウイルスの例えがぴったりですね。
森本:これで、キリスト教をこき下ろしている、みたいに思う人がいるのかな。
うーん、今の世の中、それこそポリティカル・コレクトネスというやつになると…小田嶋隆さんのコラムでもいろいろご指摘をいただくもんですから、もう。
森本:いや、小田嶋の陰に隠れていればこんなの全然(笑)※。
※森本あんり氏と小田嶋隆氏は小・中・高校の、同学年の同窓生
何を言っているんですか(笑)。
森本:温和なものです、僕の批判なんて。
ウイルスに例えるようなお話を、キリスト教徒の中でしても平気なものなんですか。
映画で学ぼう、「反知性主義」
森本:そりゃそうでしょう…ああ、わかりました。あなたがキリスト教徒に謹厳なイメージをお持ちなのは、日本にキリスト教徒が少ないからですよ。宗教に限りませんが、マイノリティの人はどこでもみんな肩ひじ張っていて、まじめなんです。
あ、なるほど。
森本:例えばイタリアへ行ってごらんなさい。「皆さんまじめなクリスチャンなんですか」とか聞いたら、みんな吹き出しちゃうよ。「うーん、おととしクリスマスのミサに行ったかな」とか、そんな感じで。毎週日曜日に行っている人なんかいないですよ。逆に、例えばアメリカに行くと、アメリカの仏教徒というのはすごいまじめなの。
ああ。「あれがブディストだ」と見られているから。
森本:そうそう。仏教徒の代表みたいに。だからやっぱりきちんとしてなきゃいけない、と思うでしょう。日本でも、キリスト教徒だけの中に入れば、お互いの話なんだから、もうとんでもない話ばかりしているわけですよ。それは人間なんだからあたりまえですよね。
なんだか安心しました。もうひとつこの『反知性主義』が分かりやすいのは、先生がたびたび映画を取り上げていることですね。考えてみれば、映画は、言葉にできない感性やイメージが、きわめて具体的に表現されているコンテンツで。
森本:ええ。文化や習慣、価値観を知るにはもってこいです。
付け焼き刃で本当にお恥ずかしいんですけど、こりゃ面白そうだと思って、昨日『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992年、アカデミー賞受賞)と、それから『エルマー・ガントリー』(1960年、アカデミー賞受賞)を…
森本:ご覧になった? いいでしょ、あれ。
見ました。特に『エルマー・ガントリー』は感動しました。
『エルマー・ガントリー/魅せられた男(Elmer Gantry)』1960年公開、監督:リチャード・ブルックス、主演:バート・ランカスター
森本:『エルマー・ガントリー』はね、本当に筋も濃いしね。スキャンダルあり、メディア利用のからくりあり、ひっくり返る大団円ありで。バート・ランカスターが若い時代で、女優さんたちもきれいでしょう。
きれいでしたね。で、「これはすごい映画だ」と思って、どんな感想が書かれているかなと検索してみると、意外に「理解できない」という評価が多いんですよ。「宗教の話と思ったら、女の性(さが)の話だった」「主人公がうさんくさい、何を考えているのか分からない」とか。
森本:え、そうなんですか。
「神よ、掃除機が売れました!」
はい、ちょっとびっくりしました。でもよく考えたら、私、『反知性主義』を読んでいるんですね。これを読んでいると「あっ、本当に牧師がサーカスみたいに説教してる! 歌いながら酒場を焼き討ちしてる! これが例の、反知性主義の苗床になったリバイバリズム(信仰復興運動)か!」と、面白さ倍増です。もう「出た! 出ました! これ知ってる!」の連続で。
森本:でしょう! そういう話ばかりです。もうこの本はね、あの映画で出来上がっているんです(笑)。本当に。
たぶん、主人公のさすらいのセールスマン、エルマー・ガントリーが「何を考えているのか」が、普通の日本人には理解・共感しにくいので、ストーリーに入りにくいんだと思うんです。エルマーの「セールスマン根性」みたいなところと、聖書の教えとが……
森本:ちゃんとつながっているでしょう。「掃除機が売れました。神よ、感謝します!」とか(笑)。
そうそう、あれは日本人には信じがたいけれど、本気なんですね。話がちゃんとつながっている。その描写がめちゃめちゃよくできていて、「米国人の生き方と宗教観は、こう連結しているのか」と。ここが分からないと、エルマーはヒロインの美しい牧師を口説きたいから頑張ったのか、ビジネスを成功させたかったのか、上流階級に一泡吹かせたかったのか、それとも何も考えていないのか、分からないんじゃないかと。
※編注:エルマーを誰に例えれば分かりやすいか。個人的には、心の底に「日本人の義理人情」を持ちつつ、並外れたプロデューサー兼セールスマンでもある、『こち亀』の主人公、両津勘吉氏が宗教家になったようなイメージです。それはそれとして、『反知性…』を一読されてから「エルマー…」を観るのは本当におすすめです。エンタテインメントと知的興奮が同時に味わえます。
『リバー・ランズ・スルー・イット(A River Runs Through It)』1992年公開、監督:ロバート・レッドフォード、主演:クレイグ・シェイファー、ブラッド・ピット
森本:『リバー・ランズ・スルー・イット』もそうですが、映画の背景になっているのはアメリカの開拓の歴史というか、西部の荒野ですよね。未開の地、新しい世界へ人間が歩み入っていく。その時に、自分のよりどころになるのは何か、ということです。『エルマー…』では、既存の宗教の方法論や権威に頼らず、直接「神」と対話しよう、という「リバイバリズム」が批判的な目で描かれているし、『リバー…』では、自然を通して直接神の息吹に接する、という姿が美しく描かれているわけです。
先生は、自然を通して神と直接向き合おうというのは、言い換えれば「上から」というか、「既存の秩序、教義みたいなものに目を曇らされていてはダメよ」という反骨心でもある、と指摘されていますね。教会内での位が高いから神や真理に近いか。そんなわけはない。まず自分の頭できちんと考えなきゃダメ、という考え方でもあると。それが、リバイバルの闘士が持つ「ファイティングスピリット」に通じているのかもしれませんね。
権威への反逆、思わず元気が出る
森本:そうですね。ここはぜひ強調したいんですけど、「反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。
だからパイオニアなんです。フロンティアスピリットを持ち、戦闘意欲満々で、今大きな顔をしている権威だとか、伝統だとか、その道の大家だとか、そういうのをみんなぶった切っていくわけ。
信仰復興運動=リバイバリズムも、ざっくりと言えば最初の植民者であるピューリタンたちの、あまりにロジカルかつ体制的なキリスト教への反発から、「神様は本当にこんな堅苦しい教義とかを望んでいるのか?」という考え方が生まれて、広がっていったのでしたね。
森本:そうですね。
先生の本でぶったまげたのは、リバイバリズムの担い手の「牧師」たちの多くが、実は神学校も出ていない「自称」牧師で、だけど「私は何百人も回心させました」という人たちだった、ということです。当然、ちゃんと神学校を出た「本物」のほうは面白くないわけですが…。
もちろん、既成教会の牧師たちも彼らをそのまま野放しにしていたわけではない。当時の牧師連合会では「ハーバードかイェールを卒業した者(※NBO注:どちらも元々は神学校)でなければ、教会では説教させない」(プリンストンの創立はもう十年ほど後である)ことを定めたりしたが、そんな取り決めは野外で勝手に開かれる集会には無力である。彼らも時には闖入者に面と向かって問い糾すことがあった。「いったいあなた方はどこで教育を受け、何の学位を持ち、どの教会で牧師に任命され、誰に派遣されてきたのか。」
しかし、リバイバリストの方ではそんな問いに答える義理はない。逆に牧師たちに向かって、昂然と言い返すのである。「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」――これが、反知性主義の決めぜりふである。
(『反知性主義』84、85ページより引用))
これを読むと、反知性主義ってなんだか元気が出てきますね。もともとの出発点は、「学者」と「パリサイ人」、つまり当時の学問と宗教の権威を正面からこきおろしたイエスの言葉なんですね。
森本:はい、信仰によって「既存の権威に、たったひとりでも敢然と立ち向かう」ということですから。反知性と言いながら、新しいものが生まれる可能性が高くなる、という意味では、知性にとってもプラスなんです。反知性主義がないと、宗教や学問はもう伝統墨守になっちゃうわけですよ。昔ながらの権威を教え戴いているだけで、何も変わらない。
それがあの国のウルトラ楽天的な姿勢や、時には子どもっぽい行動につながっている。でも、それは活力の源でもある。
森本:そう、翻って日本では特に伝統墨守、権威維持の力が強いです。いつまでも、何でも。大学だって東京大学を一番に、点数順に並んでいて、もううんざりしますね。日本人は、政治家だとか学者だとかは「批判されるべき権威」だ、ということまでは知っている。でも、マスコミとか芸能界とか、普通なら権威に対してアンチな立場に立つ人たちの中にも、だんだん権威の秩序ができちゃうんです。
ああ、小田嶋さんのアンテナはそっちの方にもすごく敏感に反応されますね。なくてもいいところに権威つくりやがって、みたいな感じで。
森本:そういうことを言うのが彼なんですね。だから余計に面白いんですよ。余計に危ないのかな。本来ならそういう人たちを味方に付けてね、権威者ぶっているやつをやっつける、というのが一般的な構図でしょう。小田嶋はそこも許さないんですよ。だから面白い。
味方も友達も別にいらない、と思っていらっしゃるようですね。
森本:1人で戦う気なのかな。うん、それが小田嶋であり、反知性主義のほんとうの姿かもしれませんね。
日本人の「宗教への恐怖心」の理由
ちょっとお話が本から離れてしまいますが、日本人にとって反知性主義が理解しにくいというのは、それだけ宗教に対して距離感があるためだと思うんです。言葉を選ばずに言えば、「宗教を信じている人って、ちょっと怖い」みたいな。キリスト教に限らず、宗教全般に対する、恐怖心が。
森本:それはありますね。
なぜでしょう、どうお考えになりますか。
森本:1つには、「マインドコントロール」というか、「宗教を信じている人は、理性的な判断が結局できないんじゃないだろうか」と。進化論を否定しておいて、科学や歴史をどう考えるんだろう、みたいな。そういう怖さもあるでしょう。もう1つはやっぱり、自分の常識が通らないのでは、というか、違う論理と向き合うことへの恐れでしょう。ただし、例えばオウムのサリン事件だとか、ああいう宗教テロがあったからだというふうには、あまり僕は感じない。
私もそう思います。我々の持つ宗教への不安感とか恐怖感とか、近寄りたくないなという感覚って、昨今の出来事以前から、もっと土着的にあるような気がします。
森本:それはね、日本社会が成熟しているからなんだと思いますよ。日本社会って本当に知的にも、文化的にも、社会的にも、インフラ的にも成熟した社会です。だからそんなに簡単に、新しいものに魂を持っていかれないわけ。
えっ、そうですか?
森本:アメリカというのは、そういう意味では若い国で、それこそ開拓時代だと何もなかったわけですよね。そういうところから何かをつくっていくには、建設のビジョンが必要なんです。キリスト教に限ったことではありませんが、宗教はそういう理念形成の力を提供してくれます。
そうか、更地だから目標や理念がいる、宗教はそこにハマるのか。
森本:日本の仏教だって、新しい国家が生まれ、揺らいで新しくなるとき、大化の改新とか、内乱があった頃に……
ああ、確かに。大仏建てて、国分寺造って、みたいな感じで。
森本:そうそう、宗教はああいうふうに機能するわけですよ。社会に秩序を与えて、建設のビジョンを与える。そういうときに出番が来る。だから日本でも明治の初めにキリスト教が躍進しました。新しい社会になったけれど、どう振る舞ったらいいか分からない、既存の秩序が消えた時に、新しい秩序を見せてくれる。
なるほど。
森本:それから、戦後すぐですね。マッカーサーが来て、アメリカの軍隊が来て、世界がアメリカ化して見えてきた時代。でも民主主義って体験したことがないんだから、ほんとのところ分からないわけですよ。そういう時に宗教って広まるんですよね。
古くなったOSが書き換わるみたいな時に、ですかね。
森本:そうそう。その最初のころに必要なんです。
動いているOSは、無理に書き換えなくてもいい
ああ、なるほど。自分自身のOSを書き換えるのって、既存のOSのアプリケーションにしてみたらうれしいわけがないですものね。「俺が消えちゃう」みたいな。
森本:そうですね。そして、日本社会はある程度古いOSがちゃんと機能しているわけですよ。
なるほど。
森本:成熟して枯れたXPがあるのに、何でVistaなんか入れなきゃいけないんだと。
確かに(笑)。
森本:僕は「8」が本当に嫌いなんだけど。だって「7」がちゃんと機能しているんだからね。
そうですよ。私も、7から絶対に移行したくないですよ。
森本:そうするとね、やっぱりいらないんじゃないの、別にそんな、新しいからって、というふうになりますよね。
なるほど、それが日本人か。それで言うと、例えば先生、あれですか、私がキリスト教に回心しなくても、別にいいよ、と思っていただけますか。
森本:それは、宗教的に言うと、人間のビジネスじゃなくて神様のビジネスなんですよ、最終的には。他人が回心するかしないかなんて、僕の知ったことか、というかね(笑)。
知ったことかと言われました(笑)。
森本:何でかというと、それは実存の問題だから。僕にとって僕の人生はとても深刻な問題じゃないですか。だけど、他の人が救われようが救われまいが、別に僕には関係ないわけですよ。そして、山中さんが回心するとしたら、それと同じくらい山中さんにとってそれが自分の真剣な問題になった時です。
まあ、それはそうですね(笑)。
森本:だから、どんなに一生懸命に広めようと思ったって、本人にその機が熟さない限り、無理に広めることはできないんです。
それをやると、リバイバリズムの負の面になっちゃうわけですもんね。回心する人を効率的に増やすことに意識が向いて、どんどん単なるビジネスになってしまう。
日本の「半知性」主義
森本:回心というのは、本人の準備ができた段階で自然になるんです。機が熟するには、人間の時じゃなくて、やっぱり神の時がある。もしかしたら、山中さんが60歳になった頃に、突然そういう時が来るかもしれないんだから、それまでは救いようがありません(笑)。
ちょっと安心したところで(笑)、先ほど、日本社会は成熟しているというお話がありましたが、一方では、本当の意味で自分の頭で考える「反知性主義」よりも、既存の権威を護持する方に回りやすい風土もあるわけですよね。
森本:竹内洋さん(社会学者、京都大学、関西大学名誉教授)とこの間対談したんだけど、竹内先生がおっしゃるには、日本にはハン知性…半分の半ね。それしかないんだって。
半知性(笑)。
森本:日本には。筋金入りの知性主義もないから、筋金入りの反知性主義もない。半分だけの生ぬるい知性主義しかないんだ、というのが竹内先生の見方です。
社会が成熟しているという部分と、半分の知性しかないということは矛盾しないのですか?
森本:なぜかというと、一般の知性のレベルが高いから。
平均点は高いけれど、抜きんでる人があまり出てこない?
森本:粒が立たない。というか、立つ必要がない。社会が成熟しているので、知的にも成熟しています。一方で、それゆえ日本は権威の構造がかっちりでき過ぎてしまった。だから、反権威という意味での反知性主義がなかなか育ちにくいんだと思いますよ。すでにあるものを踏襲してゆけば、そこそこいいものができるから。
ああ、なるほど。「師匠と同じになる」ことが、日本の学問とか武術という、いわば「道」の在り方で。
万人に「破」「守」の可能性を信じる
森本:「学ぶ」は「まねぶ」ですから。「道」はほとんど宗教です。デュルケムの宗教社会学的な理解から言うと、宗教に神が出てくる必要はないんです。何ものかへの献身があれば、それは立派な宗教です。
でもね、昔から、「守破離」と言うでしょう。最初は師匠の教えを守って、その次に破って、そこから離れて自分の道を行く。つまり日本にも、「師匠を超えろ、違うことをやれ」という考え方はしっかりある。ただしそういうのは本当の、ものすごくできる人の話なのです。
誰もかれもが守破離ができるわけじゃない。それはそうですね。でも、反知性主義は、まさに「誰もかれも、“破って”“離れる”べきだ」というお話なのではありませんか。
森本:そうです。誰でも出来るわけじゃない。でも、「破」や「離」の可能性がいつでもある、ということを見せてくれる人たちが米国にはいるんです。その代表例がリバイバリストの伝道者たちでした。自分はただの平凡な人間かもしれないけど、「新しい時代の根拠がここにあるんだ」と信じられたら、もはや誰も恐れない。大統領だろうと大学者だろうと。
その平民の伝統が、米国のダイナミズムの底流にある。そういう面では、反知性主義はまさに米国の活力の象徴だし、表層的には、キリスト教が自己啓発セミナーだか宗教だかわからなくなっている状況の原因にもなっているわけです。
うーん、日本だと確かにこの考え方は難しいですね。だって、「世の中ではこう言っているけど、これ違うんじゃないかな」と、仮に何かのジャンルで思ったとしても、「私がそれをちゃんと世に問うにはまだまだ力が足りない。もっと勉強してから」なんて、ついつい謙虚に考えてしまいそう。
森本:そうなっちゃうんですよ。でもこの人たちはやっちゃうんですね。平気なんだもの。だって、俺は神様に「うん」と言ってもらったんだから、そんなほかの権威なんかどうでもいい、というふうになるんですよ。
そういうところに、日本人はちょっと「ついていけない」と感じるのかもしれません。しかし、キリスト教が、自己破壊による革新を是認するというのは、いわゆる宗教改革の、ルターだカルヴァンだ、という頃からそうだったんですか。
森本:ルターだのカルヴァンだのじゃなくて、もう、ずっと初めからです。
え?
森本:だってイエスというのはそもそも反権威なんですよ。
うっ。
森本:イエスというのはその当時の宗教をぶっ壊した人なんだから。ユダヤ教の巨大な権威の塊があったわけですよ。律法学者だのパリサイ人だの。でも、「あんた方のやっていることは神様の言っていることと違うんですよ」というのがイエスのメッセージでしょう。
よく考えるとすごいことを言っていますね。
森本:とんでもない反宗教なんです。それはお釈迦様でも同じなの。お釈迦様というのは、古代バラモン教の階級社会に生まれて、それでも「宗教は高位高僧のものじゃなくて、一般の人々のためにある」といって、ご自分の教えを説いたわけですから。そして下層の人たちがそれを受け入れるようになっていったんです。ここは初期キリスト教の発展とまったく同じです。
そうか、世界宗教って、既存の宗教の破壊と革新から始まっているわけですね。
森本:そうです。だから、新しい宗教は主流(チャーチ)へのカウンター、つまり分派(セクト)として出発するんです。だけど、やがてそれでマジョリティになると、自分もチャーチになっちゃうわけ。
そしてチャーチは必ずまたセクトを生んでいくと。
森本:カトリック教会だって、はじめはずっと迫害されていて、ようやくローマ帝国の公認宗教になったんですが、気がついてみたら自分が弾圧する側に。それでプロテスタントが生まれるわけです。ところが、そのプロテスタントもマジョリティになると、そこからまた反発が生まれる。
ピューリタンが出て、そのピューリタンが新大陸で主流になったら、今度はバプテストが出て。
森本:そうそう。
米国憲法にもビルトインされた「反知性主義」
しかし、それにしたって、そんな反知性主義をベースに置くアメリカってどこかおかしくないですか。「国を挙げて、宗教を挙げてセクト是認」って、何というのか、そもそも国や宗教として矛盾してるのでは、という気もするんですが。
森本:うん。その「セクト是認」「異論反論上等じゃねえか」というのを、国の文化や社会システムに組み込んだということが、アメリカという国の大きな特徴なんですよ。
そうか、そういうことですね。
森本:そう。だからアメリカの連邦制だとか政教分離だとかのシステムは、政治だけを勉強していたのでは理解できないんです。その根っこにあるのが、この反知性主義的な考え方なんです。
本の中でも語られていますが、例えば米国人の中に伝統的にあるという連邦政府への不信感も、この視点から見れば納得できます。
森本:米国の憲法制度をみても、「権威に対する反発」が、しっかり組み込まれています。自分たちがやってきた異議申し立ての方法をシステム化したらこうなりました、というのが、米国の憲法なんですよ。そしてその憲法や権利章典は、二百数十年続いてメジャーな変更がないアメリカ国家の根幹なんです。
キーパーソンに聞く
日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。
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