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http://blogs.yahoo.co.jp/taked4700/12112095.html
日本の教育の未来
センター試験制度がまた変更されるという。人格的な要素を重視する必要があるということだ。多分、同じようなことは日本だけでなく世界の相当多くの国で起こっていると思う。つまり、試験制度が実質的に単なるコネになってきているのだ。この影響はとても大きいと思う。ただ、自分は日本社会に住んでいて、日本社会の変化がどう起こっているかが一番よく分かるので、日本社会について書いてみようと思う。
人格的な要素を評価することは相当に難しい。特に、入試のような数百人から数十万人という規模の受験生を数日という短期間で評価するときに、人格的な配慮をすることは制度的にそもそもかなり無理があると思う。
次に、そもそも、高校や大学入試で人格的な配慮をする必要があるのかどうかという問題がある。例えば、ある私立学校で、宗教的な教育に力を入れている場合、人格的な要素を重視した入試をすることは当然だし、また可能だろう。ところが、日本の公教育はあくまで知育を目的としているわけであり、科学立国を目指している。例えば、オリンピックはより速く、より高くを目指しているが、オリンピック選手に人格的要素を入れるということがどの程度の意味を持つのかを考えれば、県立高校や国立大学に人格的な要素を重視した入試制度を導入することの可笑しさははっきり分かるはずだと思う。つまり、県大会とか全国大会で、グランドの清掃競争をやって、その出来具合で100m競争の順位が決まるというようなことになるからだ。
そもそも人格教育は日常生活の中で行われるべきものであり、実際の学校教育でもそうなっている。どんな教材であろうと、盗みをよいことだとするようなものはないし、教室内での暴力を許容するようなこともない。理科の実験一つとっても、生徒同士の協力は不可欠であり、モラルは常に問われていると言っていい。授業中にある生徒が他の生徒の消しゴムにいたずらしたときにどう対処するかは教員の一番の技量の見せどころと言っていい。掃除をさぼる生徒にどう対処して、どうやって全員に掃除をきちんとやらせることが出来るか、と言ったものも教員の技量がよく分かる問題の一つだ。
もちろん、きちんと授業を受けるということは必要だし、そういった態度を身に着けた生徒が多くいることはいいことだ。まじめな生徒が一定数いることで、教室全体の秩序が保たれることもある。しかし、だからと言って、入試でまじめな生徒を優遇するというのは、少なくとも現状では相当におかしなことだ。
まず、既に中学段階で相当に定期試験問題等が生徒に流れていて、金で売買されている実態がある様子だからだ。高校段階はより状況がひどく、学校によっては半数以上の生徒が試験問題を事前に知っていて、単に回答を暗記することでよい成績を取ることをしている。
数日前に、2009年に起こった島根県立大学の女学生のバラバラ遺体遺棄事件についての報道がまたあったが、この事件はほぼ毎年10月頃に繰り返し報道されていて、都市に進学就職するなというマインドコントロールに使われているはずだ。つまり、都市部は既に試験不正が飽和状態で、学生の質があまりに劣化してしまっているからだ。2010年2月販売の週刊朝日で、6×3-4÷2= という筆記問題を間違えた東京6大学の生徒が15%程度いたことが報道されている。中には東大の薬学部2年生もいたという。
つまり、現状で人格的要素を重視した入試をするということは、教育制度をより腐らせる結果になるだけなのだ。学歴をウソで固めた人たちがどんどん社会の中で幅を利かせるようになるだけだ。実際、政府の教育審議会で人格重視の入試制度への変更が答申されたこと自体が、既に社会の基幹的な部分までが腐ってしまっていることをよく示している。
あまりにも教育が単なる見せかけだけのものになってしまった結果、社会のほぼすべての機関というか部門というか、機能と言ってもいいかもしれないが、そういったものが表面的な姿と実態が相当に異なるものになってしまっている。
その典型が福島第一原発事故での低線量被曝の評価だ。放射性物質を相当に含んだ微粒子が大気中に排出され、多くの人がそれを肺に吸い込んでしまっていることが確実なのに、まったくそのことについての言及がされていない。要するに放射性微粒子は目に見えないため誤魔化されているわけだ。
基本的に、同じことが様々なところで起こって来ていて、直接誰でもがはっきりと判断できるもの以外はどんどんとウソがまかり通るようになってきているのだ。その典型が政治であり、派遣社員の増加と少子化は明らかに原因と結果の関係にあるが、生活給を保証することで出生率を上げるべきだという議論はあまり出てこない。
現代社会は複雑化していて、社会のほとんどの場面でそれぞれの専門家が機能しないと社会生活はうまく行かない。昭和の時代まではそういった生活のいろいろな場面での専門家はそれなりの良心をもって行動していたはずだが、今ではそうではない。入試不正を主導してきている勢力が全体の指揮を執っているからだ。
彼らはマスコミを通じた、またはインターネットを通じたマインドコントロールという武器を持っていて、これと入試・試験不正が相まって、どうにでも社会をコントロールできるようになっている。ネックがあるとすれば、そういったコントロールは本来大ぴっらにできないと意識されていることだけだ。つまり、ばれないようにやれば何をやってもいいという状況が既にかなりな程度まで出来上がっている。
実際、中東の国々では相当におかしな社会が出現していて、ある意味、1970年代の日本の学生運動の内ゲバと同じ状況が中東の国々で日常化している。
こんな社会が存続するはずがなく、多少長期的に見れば破滅に至ることは明らかだ。特に日本社会は自立していないため、欧米の権力者にいいように食い物にされて、破滅させられるだけだ。それでも入試不正組の一部は自分たちだけは特権階級だと思い込み、自立しようとしない。それほど入試不正の影響は深刻で、人々の深層心理自体を劣化させている。
入試不正をやらせている人々にとっても長期的に見ればいい影響はない。教育によって人々の能力が発揮されるようになるわけで、それを反対に能力を奪う手段として教育を利用するわけであり、いわば人類の最も基本的な能力を捻じ曲げてしまっている。墓穴を掘っているに等しいと言っていい。
いつも不思議に思うのは、教育現場、つまり、中学や高校で入試不正をやっている人たちが、自分たちの活動の結果、教育がどんどんとゆがめられていることをどう思っているかということ。現状は目先の利益に目がくらんでいる様子だが、既にそういった余裕はなくなってきている。
2014年10月28日13時30分 武田信弘
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