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政治と教育の関係
かってイギリスの首相であったトニーブレア氏は教育こそが国家の将来を作るというような趣旨のことを言われていた。自分もそう思う。しかし、現実に行われている教育政策はかなり頓珍漢なものになっていると思う。その理由は、勉強をするための動機付けが無視されているからだ。生徒個人個人がなぜ勉強しようと思うか、その部分の検討があまりに表面的にしかされていないと思う。
日本においては「生きる力」というあまりに美しい言葉が使われたが、実際的な意味はほとんどなかったと思う。現実には、「夢を持て」というような表現が生徒に対して使われ、将来、国立競技場でプレーが出来る選手になるというような夢を持つことが重要なのだという指導が、多分、非常に広く行われた。
夢を持つこと自体は確かに重要だ。しかし、現状の分析をしないで、現状を捉えることをしないで、または現状から目を背けさせるために「夢を持て」という指導がほとんどだったのではないだろうか。
日本は確かにかなり豊かな国になっていて、安定した生活を送っている家庭が多いが、それでも社会を見れば様々な問題点は数多くある。そういった問題点について、学校で取り上げることを今まで故意に避けてきたのであり、これが基本的に学力低下を招いている第一の原因だ。社会的な問題点はいくらでもある。格差社会、財政赤字、環境破壊、それこそ、数限りなくあるのに、学校教育ではほぼそのすべてを教科書の中に閉じ込めてきてしまった。自分自身の生活の中の問題としてそれを捉えることを授業では故意に避けてきたのだ。
家庭の経済格差と教育ということも重要だと思う。1960年代は塾とか家庭教師はほんの一部の生徒や学生が使うことのできるものであり、ほとんどの生徒・学生は自分で本を片手に図書館で勉強し、それが当たり前で、また、それで十分に勉強はできるモノだった。それが1970年代から80年代に塾が非常に普及し、全生徒の過半数が塾通いするという状況がかなりの地域で一般化した。同時に街の本屋さんが減少し、自習するための本が無くなった。教科書自体も内容の精選を理由づけとして自習することに向かないものに変わって行った。こういった状況から、自学自習するという風潮がどんどんと廃れ、塾だ補習だということしか意識に上がらないようになった。しかし、勉強は本来、自分ひとりで孤独の中で行うものだ。読書の習慣をつけ、自学自習が出来る参考書と環境を整えること、及び、自学自習で十分に勉強はできるのだという信仰を作ることが重要であり、それを怠ってきたのが、多分、学力低下の第二の要因。
第三の要因は非常におぞましいものだ。入試不正であり、試験不正だ。金で学力学歴が買えるという状況が平成になってから非常に深く社会に浸透してきた。このことは社会の表舞台からは徹底して隠されているが、実態は大学入学生の過半に当てはまる状態にまでなっているはずで、中学とかまたは小学校から問題が親に流れている状況が場合によってはあると思う。入り口が腐れば出口が腐るわけで、公務員から学者、マスコミ関係者なども相当に実力と看板が異なってしまっている人たちが既にかなり大量に存在する。しかも、こういった人たちは、単に自分の意思でそういった不正に関わったのではなく、組織的大規模に入試不正・試験不正を実行する組織があり、そういった組織に加わるという形で不当な地位を得ている。現代社会では2000年ぐらいからとてつもなく大がかりなウソが大手を振ってまかり通るようになったが、その背景には入試不正・試験不正がある。
結局、こういったことが長年行われた結果、ものごとの実感を伴った理解ということがそもそも官庁や政治家によって行われなくなり、結果として、形式的な議論しか行われなくなった。それが例えば生徒全員にタブレット型端末を持たせるというような政策となって表れている。内容がないから形式だけでも整えようということだが、そういった余裕は既にもうないはずだ。
2014年09月08日20時20分 武田信弘 ジオログ(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/taked4700)はヤフーブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/taked4700)へ移行しました。CN:2826 SN:3349
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