http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/192.html
Tweet |
思想戦ていうが、これは思想上の論争というわけじゃない。思想により戦線が分かつ、物理と論理が一致した戦いのことだ。
そして、それが独ソ戦のように国家や民族の境界にそって綺麗に相対する思想が、対峙するという戦争でもないのだ。
まあ、現代の日本人にはちょっとピンとこないだろうけど、学生闘争のロートル元左翼おんじ達には分かるだろう。
何しろ外部からは理解不能な思想的に微妙な差異で凄惨なゲバルトを行ったんだからな。
こりゃ、オタクでいえば、えばんげりおんが好きだ。ガンダムがすきかとか、AKBだ乃木坂何とかが好きだ嫌いだで、コロシアイを行ったようなもんなんだからな。それが酷く馬鹿らしいということじゃなくて、鬱屈した現代人からは夢想さえできない夢想と思想と行動の一致した時代の凶行ではあった。
しかしそれが他国のように左右のコロシアイがなかったということは重要だ。要するにその時代の思想的主流派内での内ゲバという形でしか日本では思想戦が現実化しないのだ。
たとえば戦前を思い返してみよう。前ナチ時代の突撃隊と赤色防衛隊の街頭での血で血を洗う闘争なんて日本には無かったが、統制派と皇道派のコロシアイは226事件までエスカレートした。
要するに日本では圧倒的弱者は調べ室で拷問死するぐらいのひ弱な立場にあるということだ。
それはまた、日本人がいかに思想に忠実ではない日和見的民族かということを物語っている。
戦中は天皇にために死のうとした軍人の多くが、中共やソ連の収容所で見事に転向したかを思えばぐうの音もでまい。
しかしだ、先進国の定義を経済的要件にしか考えられないジャパン人にいいたいが、先進国はすべからず思想戦を経て民主制に収斂して行った歴史があるのだ。
近代民主制の揺らんの地であるイギリスも市民革命で党派間の戦いで多くの血を流した。フランス革命しかり、19世紀の革命はすべからく自由主義者と保守派、王党派の戦いだ。
それが20世紀に入り社会主義と階級闘争の時代には入り内線と対外戦争は悲惨さと規模を極めた。
ロシア革命を見て見ろ。ボルシェビキやらメンシェビキ、社会革命党左派とかジャパンの70年代内ゲバを一億倍おおきくしたような思想軸にそった戦争が行われていた。今問題のウクライナでは赤軍白軍にくわえ、黒軍、緑軍までよつどもえいつどもえの激戦が、戦われていたのだ。ヨーロッパの果てのロシアにしてかくのごとし。ソルジェ二ーツィンの小説には政治的真実を見極められずどの党派でたたかうか苦悩するロシア青年が、描かれているがそれは昭和初期までのインテリ青年にとってはどこでも避けて通れない問題だった。
そして、ロシアでは敗者はすべからず収容所の露と消えて行った。
同じことはドイツやスペインでも起こった。保守派から民主主義者、社会民主主義者、急進社会主義者、共産主義者まで軍事組織、準軍事組織を作り思想戦を行ったが西欧では徐々に新種の左翼的保守あるいは保守革命派であるファシズムとナチスが、勝ち残って行った。
その後の国家と民族ごとに思想軸に沿って戦う戦争は正に絶滅戦争だった。
そして冷戦を経て経済システムである資本主義国家アメリカが勝利し、歴史の終わり?とともに思想戦の幕は降りた。
そこにあるのは物理的、形而下の経済競争だけだ。
もはや思想には一銭の価値もない。戦争を喚起するのはハリウッド然のワールドトレードセンターの倒壊を見て感涙するような妄衆への刺激と情動にもっぱら働きかけるのが戦争省や諜報局の常套手段だ。
そこにあるのはただ経済的格差だけだ。これを見て俺達先進国の住民はなんて不幸かなんて君達は思うだろう。しかしだ、欧米各国と日本じゃ上記のように経済競争だけに支配された社会へ至る経路が、違うのだ。
ジャパン人は純粋に個人の選択による思想戦を経て民主制へは至っていないのだ。敗戦の棚ぼたの農地解放同様にマッカーサーからフィリピン人民へやる予定だった民主制のお下がりをもらっただけなのだ。
だから人文達が住む社会もコントロールできないし、変えることができるなど、夢にも考えない。いや考えず、永遠の日常をニヒルに享受するのが世慣れた日本人の一番賢い生き方となっている。まあ、伝統主義に束縛された諦観以外に現実的思想がない日本人の悲劇といえよう。
そこでは物理的、論理的に対峙した思想戦はまさに夢の中の夢想にすぎない。「気分はもう戦争」なんて古い昭和のマンガより遠い妄想だ。この永遠の日常という平和が、徐々に苦痛にみちていくのも上記の理由による。
そして、経済格差が、実戦につながるというのもまた、夢想なのだ。
なぜなら人間はいかにでも可変であり、自己規定ができる存在であり、数千年前の原初の王国のように永遠の未明蒙昧な世紀を永遠に続けることも人類や民族には可能であることは歴史が証明している。震災後、デモ通い連中には無関心な日本の大衆こそが支配者の盤石であること、社会は不可変と盲信している国民こそ権力の基盤であることは焦心のうちに実感していることだろう。
そして、それがこの現代以後でも、ある民族が分解溶解までの数世紀、そのような精神的社会的状態を続けないとどこの学者が証明できるんだろう。
まさに今の日本人にとって思想戦は夢想だにしない夢なのである。
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。