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もやもやして、実体がなく、責任の所在も悪も善の境もない国、それが日本だ。現代世界の普遍的な基準である個人主義や自由主義さえ集団主義(全体主義)や全体の総意とやらで相対化し、いつの間にか伝統主義的集団主義でからめとってしまう。さしもの米軍占領さえ乗り越えてこの原始的蒙昧(あるいは紀元的伝説的な全と個の未分化)は21世紀まで続いている。
そのような千古不易の島国で呻吟してきた西洋的?個人も少なくはなかったはずだ。彼らの脳裏にはこの不変の平和国家において、悪と善、個人と全体という明白な分離線に対峙した内戦の夢が仄めかなかったのか。
それは余りにも非現実的だがたかだか150年前には新体制を巡って日本人同士が壮絶な殺し合いをしていたのだ。
内戦の方が対外戦争より残虐だという意見もあるくらいだ。
そして、その内戦の夢が格差や全体主義と自由主義の乖離として社会の分断線を明白に形成しはじめているのではないか。
それは外交的、あるいは安全保障的要素が希薄でむしろいじめっ子といじめられっこといった感情的憎悪が主要な敵対する要素となっていくのではないか
と同時にこの明白な対立、殺し合い、あるいは戦いがいかに清々しいものか。
開闢の蒙昧の靄を振り払う憎悪に燃え盛る戦線だ。そこには現代人を苦しめる迷いの苦悩がない。ただ、己の着いた側に立って戦い殺されるか殺すかだけだ。
右も左も勝ち組も負け組も金持ちも貧乏人もそのような明確な意志と行動の一致した分断線、あるいは戦線に徐々に近づいているのだ。それが一時的に中国等外国との戦争になっても究極には日本人を民族としても分かつ内戦にいたるであろうことは、この日本に少なからず生まれた個人の脳裏に仄めく情景としては確実なものなのだ。
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