07. 2014年2月11日 20:21:42
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>太平洋戦争後登場したケインズ経済学は、政府や中央銀行が巨額な投資を政策として行うことを正当化あとケインズの仕事も、後世では大分、誤解されているみたいだな http://econdays.net/?p=8905 「俗流ケインジアン」(1997/2/7) BY PAUL KRUGMAN 以下は、Paul Krugman, “Vulgar Keynesians”(Slate, February 7, 1997)の訳。[1]
経済学の分野もその他のあらゆる知的な営みと同様に「学問版・収穫逓減の法則」の影響下にある。時折偉大な革新者が颯爽と登場し、まるで詩人のような語り口で自らのアイデアを披露する。そのアイデアは幾分粗が目立ち、先人(あるいは主流派)のヴィジョンとの違いが誇張して語られるとしても、そのことは取り立てて問題とはならない。アイデアに磨きがかけられることで、やがて確固としたパースペクティブが形作られる可能性があるからだ。しかしながら、どうしても避けられない定めとして、その革新者の後には(革新者のアイデアの)表面上の字句には忠実でありながらもアイデアの核となる精神を誤解した一群の信奉者が続くことになる−彼らが自分たちの急進的な見解に対して見せるその頑迷なまでのこだわりは主流派が自らの(主流の)見解に対して見せるそれを凌駕するほどである−。革新者のアイデアが広まるにつれてそれはますます単純化されることになり、やがて常識(public consciousness)の一部−「誰もが知る」知識の一部−となるまでに流布した暁には革新者による(オリジナルの)アイデアは粗っぽいまでに劇画化された姿に変容を遂げてしまうのだ。 これはまさにケインズ経済学が辿った道のりでもある。ジョン・メイナード・ケインズその人は大変緻密で革新的なアイデアの持ち主であった。しかし、不運なことに−意図しないかたちで−、彼は自らの遺産の一つとして今もなお経済問題を巡る論争に混乱をもたらし続けている思想−ここではそれを「俗流ケインズ主義」と呼ぶことにしよう−を産み落とす格好となってしまったのである。 ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版したのは1936年のことだが、それ以前の経済学の世界ではミクロ経済学−個々の市場がどのように機能し、稀少な資源が個々の市場の間にどのように配分されるかを研究する分野−に関しては精緻で洞察力のある理論が既に発展を遂げていた。その一方で、マクロ経済学の分野−インフレやデフレ、景気の過熱や不況といった一国経済レベルで発生する出来事を研究する分野−は発育停止とでも呼べる状況にあり、足許で発生している「大恐慌」について何の説明も提供できずにいたのであった。 (『一般理論』が出版される以前の段階において存在していた)いわゆる「古典派」のマクロ経済学によると、経済は(放っておいても)長期的には完全雇用に復する傾向があると見なされ、その分析対象は(完全雇用が実現している)「長期」だけに置かれていた。「古典派」のマクロ経済学を支える理論的な支柱は2つあり、それは貨幣数量説と「貸付資金」(”loanable funds”)説であった。貨幣数量説は物価の決定を巡る理論であり、(貨幣数量説によると)一国の全般的な物価水準は経済に流通する貨幣量に比例するものと考えられた。一方で、貸付資金説は金利の決定を巡る理論であり、(貸付資金説によると)金利は総貯蓄(一国全体の貯蓄)と総投資(一国全体の投資)のアンバランス(不一致)を解消するように上下に変動する[2] ものと考えられたのである。 ケインズとしても、十分に長いスパンをとってみた場合にはこういった「古典派」のマクロ経済学を支える理論が妥当する可能性もあるかもしれない、と認めることにやぶさかではなかった。しかしながら、彼の有名な言葉をひくと、「長期的には我々は皆死んでしまう」のである。そこでケインズは次のように主張した。短期において金利の水準を決定するのは(貸付資金説が説くように)完全雇用下における総貯蓄と総投資の相互関係ではない。「流動性選好」(”liquidity preference”)−現金と比較して安全性や利便性の面で劣る資産への投資を促す上で十分なだけのインセンティブ[3] が提供されない限りは、現金を保有し続けようとする人々の動機−こそが短期における金利の水準を決定するのだ、と。また、ケインズは次のようにも付け加えた。総貯蓄と総投資は依然として必ず等しくなる。とは言っても、完全雇用下における(事前的な)総貯蓄が(事前的な)総投資を上回る場合に生じるのは(貸付資金説が説くように)金利の低下ではなく(金利の低下を通じて総貯蓄と総投資の一致がもたらされるわけではなく)、雇用や生産の低下なのだ(雇用や生産の低下を通じて総貯蓄と総投資の一致がもたらされるのだ)、と。別の言い方をすると、何らかの理由−例えば、株価の急落など−で投資需要が減少すると、経済は(雇用や生産の落ち込みを伴う)全般的な不況に見舞われることになるということだ。 このようなヴィジョンは経済の働きに関する従来の捉え方に見直しを迫るものであり、その見事なまでの洞察力もあって当時の若くて優れた経済学徒の間ですぐさま受け入れられることになったのであった。とはいえ、ケインズは現実を単純化し過ぎている面があると早いうちから指摘していた経済学者がいたこともまた事実である。特に、雇用や生産は金利に対して反作用を及ぼすのが通常であり、このことは大きな違いを生む可能性があるのである。しかし、『一般理論』出版後の長年にわたり、多くの経済学者はケインズのヴィジョンから導き出される含意に魅惑されることになったのであった。すなわち、ケインズのヴィジョンは、(節倹という)美徳が罰せられ、浪費が報われる「不思議の国のアリス」のような世界に我々を誘うかのように思われたのだ。 例えば、「貯蓄(節約)のパラドックス」(”paradox of thrift”)について考えてみることにしよう。何らかの理由で貯蓄率―所得のうち支出(消費)に回されなかった割合―が上昇した場合、初期のケインジアンモデルによると、総貯蓄と総投資がともに減少するという結果になる。どうしてだろうか? その理由はこうである。貯蓄率の上昇(事前的な総貯蓄の増加)は(消費の減少を通じて)不況をもたらすことになるが、それに伴って所得が減少することになり、所得の減少は(所得の増加関数である)総投資の減少を引き起こすことになる。最終的には総貯蓄と総投資は等しくならねばならないので、(減少した総投資と等しくなるように)総貯蓄は減少せねばならない! さらにもう一つ、賃金と雇用の関係を巡る「寡婦の壺」(”widow’s cruse”)理論(この名称は古い伝承にちなんで付けられることになったものである)についても取り上げておこう。名目賃金の引き上げは(人件費の上昇を通じて)労働需要を減らすことになると読者は思われることだろう。しかし、初期のケインジアンの幾人かは次のような主張を展開した。名目賃金の上昇は資本家から労働者への(資本家が受け取る利潤から労働者が受け取る賃金への)所得の再分配を意味するが、労働者は資本家と比べるとあまり貯蓄をしないので(これは事実に反するのだが、それはまた別の話である)、そのような所得の再分配は消費需要を増加させ、その結果として生産と雇用の上昇をもたらす、と。 このようなパラドックスに思いをはせることは依然として楽しいものであり、現在でも入門レベルの教科書を開くとその説明に出くわすことがある。 しかしながら、このようなパラドックスを真剣に受け止めている経済学者は今ではほとんどいない。その理由はいくつかあるが、中でも最も重要な理由はわずか2語で語ることができる。アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)である。 シンプルなケインジアンのストーリーを深く掘り下げていくと、金利は雇用や生産の水準からは独立して決定されるとの想定が置かれていることがわかる。しかし、現実はそうではない。金利はFRB(連邦準備制度理事会)によって積極的に操作されており、それも生産や雇用の水準に照らしながら操作されているのである−雇用が低調であると判断される場合には金利を引き下げ、経済が過熱気味だと判断される場合には金利を引き上げる、といったように−。読者の中にはFRB議長(グリーンスパン)の判断の是非についてあれこれ言いたいことがある人もいるかもしれないが−もう少し景気の拡大を支えるような方向に(もう少し緩和気味に)金融政策を運営すべきだと考える人がいるかもしれない−、FRB議長に備わる力の強大さについて疑問を唱えることができる人はそうそういないだろう。今後数年間にわたるアメリカの失業率を予測できるようなシンプルなモデルをお探しなら、今ここでそれを紹介して差し上げよう。この先の失業率はグリーンスパンが望む水準に落ち着くと考えてほぼ間違いないのだ(グリーンスパンも神ではないので、彼の望む水準から若干ずれる可能性も考慮する必要はあるが)。 このようにグリーンスパン(FRB議長)の役割を考慮に入れるや、マクロ経済の働きに関する「古典派」のヴィジョンの多くが息を吹き返すことになる。とは言っても、そっくりそのままそうなるというわけではない。「古典派」のヴィジョンでは(市場の)「見えざる手」が経済を長期的には(とは言っても、具体的にどのくらいの長さの期間であるかについては特定されることはないが)完全雇用に導くことになると見なされていたが、現実においてはFRBの「見える手」が経済を2〜3年のうちにNAIRU(非インフレ加速的失業率)に導く役割を果たすのである。そのような役割を果たすためにはFRBはNAIRU(あるいは目標とする失業率)が実現している状況において総貯蓄と総投資が等しくなるように金利を操作する必要があるが、FRBがそのように行動するやいなや、「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論をはじめとした初期のケインジアンの主張は現実への妥当性を失うことになるのである。例えば、貯蓄率の上昇は(貯蓄のパラドックスが唱えるところとは正反対に)総投資の増加を引き起こすことになるだろう。なぜならFRBがそうなるように行動する[4] だろうからである。 少なくとも私個人にとっては、何らかの理由で総需要に変化が生じてもFRBが金融政策を通じてその影響を相殺する−そのため、総需要が変化しても平均的には雇用に対して何らの影響も生じない−というアイデアはシンプルで完全に理にかなったものであるように思える。しかしながら、アカデミックな経済学の世界の外に目をやると、このアイデアを受け入れている人などごくわずかであるのが実状のようだ。例えば、NAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡る議論は雇用への影響(NAFTAの締結に伴って国内の雇用が失われることになるのか、それとも新たに雇用が創出されることになるのか?)に主たる焦点が置かれたが、私には明白と思われたポイントが世間ではそのようには捉えられてはいなかったのであった。アメリカとメキシコとの間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間にわたるアメリカの平均的な失業率はFRBが望む水準に落ち着くだろうと私は当然のように考えていたのだが、そのような考えは世間一般の人々には決して受け入れられてはいなかったのである(実際こんなことがあった。1993年に開催されたとあるパネルディスカッションに参加した際に今述べたのとまったく同じ議論[5] を口にしたところ、それを聞いていたパネリストの一人−NAFTAの支持者だったようだが−が激昂して次のように発言したのである。「そんなことを言うから経済学者は嫌われるのだ!」、と)。 その代わり、世間一般の人々−悲しいかな、その中には自らのことを物知りだと任じている知識人の多くも含まれる−に常識として受け入れられることになったのは劇画化されたケインズ主義の一種であった。その特徴は、「消費の減少(貯蓄の増加)はいついかなる時も悪である」とのアイデアを無批判に受け入れているところにある。アメリカではここしばらくの間インフレや財政赤字の問題が後景に退いているが、それとともに俗流ケインズ主義が劇的なかたちでカムバックを果たすことになったのだ。先月のコラムで取り上げたばかりのウィリアム・グレイダー(William Greider)の新著では「貯蓄のパラドックス」や「寡婦の壺」理論がともに主要なテーマとなっており(とは言っても、グレイダー自身は自らのアイデアの由来をわかっているかどうか疑わしいところだが。「知的な面で影響を受けた人物など誰一人としていないと信じ切っている実践派の人間も今は亡き経済学者の奴隷であるのが普通である」、とはケインズの発言である)、 ニュー・リパブリック誌を手に取るとジョン・ジュディス(John B. Judis)が似たような主張を開陳している姿が目に入る。この程度であれば驚くほどでもないかもしれないが、「貯蓄の増加は経済成長を阻害する」とのアイデアがビジネスウィーク誌でも真剣に扱われているとなっては(”Looking for Growth in All the Wrong Places,” February 3, 1997)、(俗流ケインズ主義の台頭という)新たな文化現象がその勢いを増しつつあると考えざるを得ないだろう。 俗流ケインジアンが語る「貯蓄は経済成長にとって害となる(経済成長を阻害する)」との主張−「貯蓄は経済成長にとって通常思われているほど重要な要因ではない」という主張はある程度理にかなっているが、これは「貯蓄は経済成長にとって害となる」という主張とは別物である−を正当化するためには、FRBは無力だということ−何らかの理由で(事前的な)貯蓄が増加した場合に(消費の減少の影響を相殺しようと考えて)金利を引き下げて総投資を増加させようとしてもFRBにはそうすることはできない、ということ−を説得的なかたちで示す必要がある。 そのためには、金利は総投資に影響を及ぼす複数ある要因のうちの一つに過ぎないと語るだけでは十分ではない。そのような指摘は、アクセルペダルを踏み込む力の強さは車のスピードに影響を及ぼす数多ある要因の一つに過ぎないと語るようなものであり、「それでどうした?」という話である。アクセルペダルをどれだけの強さで踏み込むかは自分で自由に調節できるわけであり、それゆえ何か異常がない限りは「この程度の速度なら安全に運転できるだろう」と考える範囲で(ペダルを踏み込む強さを調節することで)車のスピードは制御されることになる。それと同様に、グリーンスパンは自分のお望み通りに自由に金利を調節できる(FRBが望みさえすれば、一日のうちにマネーサプライの規模を倍に拡大することだってできる)わけであり、それゆえ何か異常がない限りは「この程度の水準であればインフレの加速がもたらされることもなく経済の安定も保たれるだろう」と彼が判断する範囲で(金利が調節されることで)現実の雇用量は決定されることになるのである。 「貯蓄は経済成長にとって害となる」との主張を本気で正当化するつもりなら次のどちらかが成り立つことを示さねばならない。すなわち、金利は総需要に対して何の影響も持たないことを示すか(本当にそう信じているなら全米ホームビルダー協会(NAHB)にその旨を伝えてみるといい[6] )、完全雇用下における総貯蓄が総投資を大きく上回っておりFRBが金利をゼロ%近くにまで引き下げても両者のギャップを埋めることができない[7] ということを示さねばならないのだ。確かに、後者のケースは1930年代のアメリカ−当時のTビル(財務省短期証券)の利回りは0.1%を下回っていた−や現在の日本−現在の日本では金利は1%程度である−に関しては妥当な議論だと言えるだろう(とはいえ、日本銀行は依然として日本経済を停滞から救い出せるだけの力を持っていると思うし、日銀が示している消極的な態度はかなりの不正行為(malfeasance)ものだと思う。しかし、この話題については別のコラム[8] で取り上げることにしよう[9] )。しかし、ありがたいことに(と言うべきか)、住宅ローンを借りている銀行から毎月自宅宛に送られてくる通知書には、現在のアメリカでは金利はまだ十分プラスの範囲にあることが記されているのだ。 この話題は色々と議論の余地があるのだが、現状ではそこまでこだわる必要はないとも言える。というのも、「貯蓄は経済成長にとって害となる」と語る論者の中でFRBが無力だと考えている人物はいないようだからだ。それどころか、「貯蓄は経済成長にとって害となる」と語る論者の発言を聞いていると、別の箇所では「これまで長い間にわたってアメリカ経済のパフォーマンスが低調であったのはすべてFRBが悪いのであって、グリーンスパンが動きさえすれば我々は現在の苦境から抜け出すことができる」と口にしていたりするのである。 例えば、2月3日付のビジネスウィーク誌から引用することにしよう。 貯蓄の引き上げは景気を減速させる可能性が高いと語るつむじ曲がりの経済学者もいる。貯蓄の増加は投資を刺激するのではなくむしろ落ち込ませるからだというのがその理由だ。「投資を刺激する手を打つ必要があります」と語るのはテキサス大学の経済学者でありケインジアンを自任するジェームス・ガルブレイス(James K. Galbraith)である。経済成長を促すには金利を引き下げるべきだと彼は指摘する。 “ つまりはこう主張していることになる。貯蓄の増加は景気の悪化を招く。というのも、(貯蓄の増加=消費の減少の影響を相殺しようとして)FRBが金利を引き下げたところで投資を刺激することはできないからだ。その代わり、FRBは金利を引き下げて経済成長を促すべきだ。なぜかって? 金利を引き下げれば投資が刺激されることになるからだ。投資が刺激されれば経済成長も促されることになるだろう。 ・・・何か見過ごしているだろうか? 訳注;この論説はその後若干の修正を加えた上で同じタイトルのままで『The Accidental Theorist: And Other Dispatches from the Dismal Science』に収録されることになった。同書の翻訳は『グローバル経済を動かす愚かな人々』。 [↩] 訳注;総貯蓄が総投資を上回る場合は両者が等しくなるまで金利が低下し、総投資が総貯蓄を上回る場合は両者が等しくなるまで金利が上昇する [↩] 訳注;高い利回りなど [↩] 訳注;消費の減少の影響を相殺するために金利を引き下げて総投資の増加を促す [↩] 訳注;アメリカとメキシコとの間の貿易収支がどうなろうとも、今後10年間にわたるアメリカの平均的な失業率はFRBが望む水準に落ち着く [↩] 訳注;住宅の建設は金利の変化に敏感に反応する=金利が総需要に何の影響も持たないということはあり得ない、ということをおそらく言いたいのだろう。 [↩] 訳注;言い換えると、FRBが金利をゼロ%近くに引き下げても完全雇用を実現する上で十分な水準にまで総需要を刺激することができない [↩] 訳注;山形浩生氏による翻訳はこちら。 [↩] 訳注;この文章が書かれたのは1997年のことであり、クルーグマンがいわゆる「復活だぁっ!」論文(pdf)(簡略版はこちら)を物する前の時期の作品にあたる。そのため、この文章の段階では、名目金利(特に政策短期金利)がゼロ%近くに達してもFRB(をはじめとした中央銀行)の「見える手」にはそれほど大きな制約が課されるわけではなく、買いオペの規模拡大を通じて一層の金融緩和を進めればそれだけで総需要不足を解消するには十分だという立場のようである。しかし、「復活だぁっ!」論文以降になると、政策金利をゼロ%近くに引き下げても総需要不足が解消されない状況では一時的に(あるいは現時点において)金融緩和の規模を拡大するだけでは十分ではなく、「恒久的な」(permanent)金融緩和(=将来的にも金融緩和を継続することにコミットする。無責任になることに信頼あるかたちでコミットする)を通じてインフレ期待を喚起することこそが重要であるとともに、そのようなコミットメントが果たしてマーケットから信頼を得られるかどうかという疑いもあって(総需要不足を解消する術として)財政政策にも期待を寄せるという格好になっていることはご存知の通りである(このあたりの事情については、例えばこちらを参照のこと)。クルーグマンの認識では、「流動性の罠」に陥った経済というのは、FRBの「見える手」に大きな縛りがかけられた(「貯蓄のパラドックス」をはじめとする様々なパラドックスが成り立つ)「不思議の国のアリス」じみた世界に他ならないということになるのだろう(この点については、例えばこちらも参照のこと)。そして、経済が置かれた状況に応じて(経済が「流動性の罠」に陥っているかどうかに応じて)ケインズの読み方も違ってくるということになるのだろう。「流動性の罠」に陥った世界におけるクルーグマン流のケインズの読み方としては、例えばこちら(クルーグマンがケインズ『一般理論』に寄せた序文・・・の山形浩生氏による翻訳)とこちら(『一般理論』出版75年を記念して開催されたカンファレンスでクルーグマンが報告した文章。そう遠くないうちに日本語で読めるようになる・・・かもしれない。・・・という予言(?)が見事に的中したようで、optical_frog氏が毎度のごとく華麗な手さばきで訳出されています。こちらを参照のこと。 [↩] |