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ニュース・コメンタリー (2014年1月11日)
映画『ハンナ・アーレント』に見る
感情の回復と問題の本質的解決をいかに両立するか
映画『ハンナ・アーレント』が、この手の真面目な映画にしては異例ともいうべき連日大入りの大人気ぶりだ。この映画で描かれているハンナ・アーレントによるユダヤ人批判に対するバッシングの嵐にも、そんな側面が見て取れる。
この映画は、600万人とも言われるユダヤ人を強制収容所に送った際の輸送責任者だったルドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したユダヤ人哲学者アーレントが、雑誌『ニューヨーカー』に寄稿した記事が原作。アイヒマンを「凡庸の悪」に過ぎなかったと評価する一方で、ナチスに協力したユダヤ人指導者たちにも責任の一端があったと指摘したことで、アーレントはユダヤ人社会から裏切り者扱いされ、激しい批判に晒された様子が描かれている。
映画ではそうした迫害にも負けずに自説を曲げないアーレントの逞しさが強調されているが、率先してナチスに協力したユダヤ人が実際に大勢いたことは、強制収容所での生活の実態を綴ったビクトール・フランクルの「夜と霧」にも克明に描かれている。自らの民族の迫害に手を貸してしまうことを可能にするほどの人間性の崩壊がなぜ起きるのかを問い続けたアーレントの指摘には重い意味があるだろう。
しかし、少なくとも当時のユダヤ人コミュニティはこれを受け入れることができなかった。アーレントのナチスに協力したユダヤ人指導者たちに対する批判は、あまりにも酷い目にあった被害者を鞭打つ行為として激しく断罪された。アーレントは大学から辞職を求められた上に、多くの友人も失ったという。
確かに、民族性だけを理由に強制収容所に入れられ、600万人もの同胞を虐殺されたユダヤ人にとって、その移送の責任者だったアイヒマンこそが究極の悪であり、それを「凡庸」と表現した上に、返す刀でユダヤ人のナチス協力者を断罪するような主張が、ホロコーストからそれほど年月が経っていない1960年代前半の時点でユダヤ人社会にとって到底受け入れ難いものだったことは理解できる。
しかし、アーレントの主張は決して究極の被害者であるユダヤ人に鞭打つことではなかった。自身が収容所を経験しているアーレントは、「起こってはならないことが起こってしまった」ことを前提に、「なぜ人間にあのような行為が可能であったのか」「それを繰り返さないためにどうすればいいか」を深く思索する中での彼女なりの問題提起だった。
靖国問題にしてもしかり。大震災報道にしてもしかり。あるいは日常的に起きる事故や事件でもしかり。何か問題が起きた時、仮に被害者や犠牲者の側に一定の非があったとしても、彼らの心情を考えると、それを批判する行為は当事者のみならず、社会一般がこれを受け入れるのが難しい場合は多い。その結果、問題の真の原因が十分に検証されないまま終わってしまったり、本来批判される筋合いの無い人が意味不明のバッシングを受けてしまうような場合も少なくない。
人間である以上感情の回復は必要だ。しかし、それを優先するあまり、長い時間が経ってしまえば、問題は風化し、再発を防ぐための正当な手立てが取りにくくなるのも事実だ。われわれは感情の回復問題をどう克服すればいいのか、どうすれば感情の回復を図った上で、問題の再発を防ぐ手立てをとることができるのか、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。