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マインドコントロールに対抗するために(4)
この記事がこのシリーズの最終回です。
マインドコントロールに対抗するための最終的な武器、それは、サブリミナル効果をマインドコントロールに使うことは自らを滅びに導くことなのだということをはっきりと証明することだと思います。
まず、現代はどういう状況なのかを少し考えてみましょう。かって、カトリックは教会組織が形骸化し、上層部が特権階級化した結果、魂の救済という本来の宗教の役割を忘れてしまいました。そして、そういったカトリック教会に対して、キリストの教えへ戻ることを唱えたのがプロテスタントでした。しかし、プロテスタントも個人の直接的な神との対話を重視した結果、あの「風と共に去りぬ」の主人公の言葉:「神にかけて、私は二度と飢えることはない。たとえ、盗みまたは殺しをしなければならないとしても、神かけて私は決して再び飢えることはない」に象徴されるように自らの存在のためには他者を否定すること、つまり、平等性の否定を神が許しているという意識につながり、これがより極端化して、自らの欲望を肯定し、形式的な合理性、つまり、形式的な合法性さえ確保されていれば何をやってもいいという現代のアメリカ支配層の行動様式が作り出されたのです。
こういった形式的な合法性が目的合理性の正体であり、目的合理性さえあれば何をやってもいいという意識がサブリミナル効果によるマインドコントロールを許容する体制を作っているのです。
しかし、目的合理性さえ整っていればそれで良しとする感性というか考え方は伝統的なものではありません。なぜ、目的合理性だけを追求する心情のようなものが出来たのでしょうか。
アメリカでは太平洋戦争後サイコセラピストの需要が高まり、1970年代には相当な高収入を得ていた人たちが数多く出ていました。「カモメのジョナサン」という小説がやはり1970年代に流行りましたが、この物語も速く飛ぶこと自体の価値は検討されたわけではなく、テーマは目的合理性、つまり極限まで努力すること自体にあると思えるものでした。
つまり、アメリカでは、いかに出世するか、他者をいかに出し抜くかということ自体が重要視され、それがうまく出来るものが優れているという価値観が出来てしまったのです。サイコセラピストの役割は「こんなことまでやって他人を出し抜いて意味があるのか」とか、「こんな目にあって自分はどうしたらいいのだろう」と言う人たちを元気づけるというものでした。
こういったことの背景にはアメリカが新大陸と意識され、移民による開拓で社会が作られ、ネィティブアメリカンとの協力ではなく、彼らの殲滅によって現在のアメリカの歴史が作られたことがあったと思われます。
多分、こういった心理的な態度は珍しいものではなく、社会が若いと同じようなことはどこでも起こる可能性があると思えます。例えば、日本の戦国時代、群雄割拠の時代でしたが、一応朝廷があって日本と言う国自体の存在はあったのです。しかし、いわゆる民主的に話し合いをやって全国統一の統治機構を作るということはせずに、各地の武将がいかに他を出し抜くかということを競ったわけです。多分、背景には、鎌倉時代に武士と言う存在が生まれ、「武力によって権力を握ることが出来る」、「力を付ければ誰でも出世ができる」という発想が一般化し、誰もが一番になりたがった結果、誰かが「天下を取る」まで戦を止めることが出来ないという社会が出来てしまったのではないでしょうか。
ただし、問題は支配、つまりマインドコントロールがサブリミナル効果を使って行われるということなのです。サブリミナル効果は一方的に対象とされる人たちの心を操るわけであり、このことがいろいろな問題を作り出します。
その中で特に問題なのは、サブリミナル効果の階層性というか多重性のような問題です。つまり、一部の人たちが少しだけ人数の多いグループへサブリミナル効果を使って、「一般市民をサブリミナル効果を使ってコントロールしろ」と命令するというようなことです。階層性とか多重性というものは必然的に現実との乖離、現場からの距離を意味します。具体的には例えば無人機による攻撃です。自分はアメリカ本土に居て、無線操縦で戦闘機を操り、何万キロも離れた中東の国々を攻撃するのです。ミサイルを発射しても、その結果起こった殺戮の現実を目の当たりにすることはありません。
こういった支配が行われると二つの意味で問題が生じます。
一つは一般市民の意識が現実を反映しなくなることです。具体的には、実際にはほぼ自分と同じような感覚を持った人々であるのに、宗教や人種が少し異なっただけで全く自分とはかけ離れた存在だと意識し、相手を平気で攻撃するというようなことです。
もう一つは、支配する側が現実を捉えられなくなるということです。当然、自分が下した命令がどうなっているのかをチェックし、一般社会がどうなっているかを観察するでしょうが、「見るとやるでは大違い」であり、現場を疎んじ、実際の状況を誤解するようになるのです。
支配層も一般市民も現実とはかい離した行動をするのですから、こういった体制が長続きするわけはなく、人類全体が滅びの過程へ入っていくことは確実です。
そんなことはないと思われるかもしれませんが、例えば既に日本でも、マスコミで3日または4日以上の間に渡って連続して報道される事件の過半数は何らかの意味で不自然であり、でっち上げであることはほぼ確実です。これらのでっち上げのほとんどはサブリミナル効果によるマインドコントロールを自然なものと見せるために行われているはずであり、現代社会は日本もドイツもアメリカも、相当程度にサブリミナル効果によるマインドコントロールが行われている社会なのです。
ところで、人間はどんな時に満足感をあじあうのでしょうか。またはどんな時に、自己肯定感を持つことが出来るのでしょうか。どんな時に誇りを感じるか、と言ってもいいかも知れません。
食欲や性欲と言ったある意味基本的な生理的な、または本能的な欲求が充足したとき幸福感を感じますが、現代の問題は多分これとは多少異なります。
1970年代にかなり流行った言葉で言えば、アイデンティティ、自己同一性とも言いますが、それを確保出来たとき、自分自身はこれでいいのだと思うのではないでしょうか。簡単に言えば、桜も、チューリップもスミレもそれぞれが美しいわけであり、互いの美しさを比べあうのではなくて、自分自身が持っている美しさをいかんなく発揮することが出来たとき、幸福だと思うということです。
人間社会で言えば、どれだけ金を持っているかで成功を測るのではなく、その地域地域、立場立場でどれだけ他者に認められるかということでしょう。
ところが、サブリミナル効果によるマインドコントロールが行われると、二重の意味で自己同一性が確保できなくなるのです。
一つには、今の自分は誰かによってコントロールされた自分ではないかという自分自身に対する疑いです。もう一つは、誰かが今にも自分をサブリミナル効果によってコントロールするのではないかという他者に対する疑いです。
この二重の疑いによって、人びとはより具体的な、確実な価値を求めることになり、それがどれだけ富を蓄えるかという金による尺度に頼るように人びとを動かすのです。しかし、金だけによる価値の測定には明らかに無理があります。ほとんど費用が掛からない注射一本で治すことが出来る病気をその金がない患者には施さないと言ったことが起こるからです。
ところで、以前、愛情とは、究極的にはいかに相手を支配するかという問題であるという研究が行われたそうです。確か、アメリカの研究であったと思います。支配といった面はもちろんあるのでしょうが、もう一つ無視されている面があると思います。それは滅びということです。個人は誰でも老いて行き、いつかは死を迎えるということが愛情と言うものの根底にはあると思うのです。
日本でこの冬、吹雪の中、自分の娘の体を、自分の来ていた着物を脱いで覆い、更に自分自身の体をその上にかぶせて娘を寒さから守りながら自らは亡くなって行った父親がいましたが、こういった行動は愛情の発露であると考えていいはずです。より一般的に言えば母性と呼ばれるものはそのまま愛情のことだと言ってもいいはずです。
異性間の愛情によって新しい生命が生まれるわけですが、新しい生命は親の滅びによってはぐくまれているわけです。個人は自らが滅びるからこそ、それを乗り越えるために愛情を必要とし、また、滅びがあるからこそ愛情が可能になるのではないでしょうか。
そして、サブリミナル効果によるマインドコントロールはこういった愛情関係さえも破壊してしまうのです。そもそも、サブリミナル効果によって相手を自分に向かわせても、そこには本当の自分は居ません。
もし仮に、サブリミナル効果によるマインドコントロールが正式に許容されるようになれば、人間の成長とか人格と言ったものさえサブリミナル効果によって獲得されるものになってしまうでしょう。更に、無意識と言う人間が長い間をかけて獲得してきた心の基盤を破壊してしまうでしょう。そこにあるのは効率だけを重視した、生物をモノとしてしか捉えられない歪んだ精神ではないでしょうか。
2014年1月9日02時35分 武田信弘 ジオログのカウンターの値:41092
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