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プラグマティズムの蹉跌
自分は決してプラグマティズムなどの思想的なことをあまり考えてきたわけではないのですが、どうも、プラグマティズムについて、いろいろな人に、特に実業家の方たちに誤解がされているように感じるので、プラグマティズムは本来どういうものであるべきだったか、または、本来的にこういった欠陥を内包しているということを述べておきたいと思うのです。
プラグマティズムとは結果が良ければ経過は問わないというものです。しかし、経過を問わないと言ってもいろいろな経過があり、また、同様に結果にもいろいろな結果があります。
普通、経過が問題にされるのは正当性に関係するからです。「迷惑をかけたけど悪気はなかったんだから」という表現があるように、結果がよくなくても、その経過が善意によってコントロールされていたのであれば互いに損害を我慢しようという合意が一般的に普通の社会にはあるはずです。ですから、経過を問題にしないと言ってもそれが善意に基づいたものであるかそうでないかはかなり大きな違いです。
同様に、結果と言っても誰にとっての結果かが問題になります。誰かにとっていい結果であっても他の誰かにとって悪い結果であることはよくあることです。
つまり、本来、プラグマティズムは少なくとも次の二つの条件があるのです。
経過が仮に不法なものであっても善意に基づいたものである必要があるはずなのです。例えば、子供だけが乗っている車の中で火災が起こっていた時、車の窓ガラスを割って救出することは善意に基づいているため、窓ガラスを壊す行為は正当化されます。
結果が利害関係者の中のある一定の人たちだけに良い結果をもたらすのではなく、関係者全員に良い結果を及ぼす必要があります。もし、誰かが不利益を被るのであればそれは何らかの了解が必要であり、そういった経過が必要になるのです。子供が火災の起こっている車に閉じ込めらていたとき、車の持ち主は窓を割られたとしても子供が無事であることを喜ぶでしょう。
今の企業家の方たち、特にアメリカの企業家の方たちはこういったことを無視されているのではないでしょうか。互いに、政治的な動きをすることで富を得て来ていて、それが成功しかなりの富を築きあげた。しかし、2000年頃からプラグマティズムの誤解と言うか誤用が目立つように思います。ここで自分がウソをつかなければ相手に負けてしまうという圧力が働き、どんどんとプラグマティズムが誤用されていると思います。このようなことが続けば、必ず、社会全体が疲弊し、せっかく築き上げた富も無価値なものになってしまうのではないでしょうか。日本の実業家の方も同じような傾向が最近出てきていると思います。
2013年11月06日23時40分 武田信弘 ジオログのカウンターの値:38343
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