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アメリカの戦略の変化を検証し、対抗策を探る
戦後日本は奇跡の復活を遂げ、資本主義国家の優等生となりました。しかし、その陰にはアメリカによる日本優遇があり、工業化をさせ、原発を建てさせて地震で事故を起こさせ、日本を世界の核廃棄物処分場にしようという戦略がありました。まず、なぜそういったことが推定できるのか、それを述べます。次に、そういった戦略が現在どう変化しつつあり、将来どのようなことが計画されているのか、それを探ります。
日本は戦後アメリカ主導で工業化されてきました。戦後の財閥解体が方向転換をし、財閥の再結集が認められた時期に、日本のメーカー、例えばトヨタとかソニーの技術者がアメリカの工場へ招かれ、品質管理の技術などを教えられて日本の工業化を促進したのです。日本メーカーの輸出先は、少なくとも高度成長期の初期にはそのほとんどがアメリカでした。つまり、日本の工業化はほとんどアメリカによって誘導されたものと言っていいのです。もちろん、日本人の勤勉さや教育の普及などが基礎としてあったのは明らかで、日本の戦後の発展は、第一に日本人自身の努力のたまものでした。しかし、それは同時にアメリカによる誘導があり、その結果、日本には54基もの原発が造られたのです。
日本に原発が造られた経過を見ると二つの節目があったことが分かります。一つは1953年(昭和28年)12月のアメリカ大統領による平和のための原子力演説とその後の日本への原発導入。これは中曽根康弘氏や読売新聞などによって日本での原子力平和利用と言う大キャンペーンがされ原発導入がされたものです。もう一つは1973年(昭和48年)の石油ショックに端を発するもの。つまり、石油の大幅値上げにより、エネルギーの多角化をせざるを得なくなり、しかし、結局中東依存はあまり変わらなかったので、原発導入へ前のめりにならざるを得なかったことです。
まずは、1953年(昭和28年)前後の状況を見てみましょう。地方交付税法が昭和25年(1950年)成立しています。これによって地方のほぼ同等の成長が保障され、これが前提となって、昭和26年(1951年)にはGHQの命令で九電力体制が決定されます。結果的に、日本全国にくまなく原発が立地することになったわけです。つまり、アメリカによって原子力の平和利用が世界に提案された1953年の時点で、既に日本各地にくまなく原発が立地する環境づくりが終わっていたわけです。
1953年(昭和28年)夏には中曽根康弘氏が、キッシンジャーが中心となって主催されていたハーバード大学の「夏季国際問題セミナー」へ出席し、アメリカの原子力施設を見学しています。この時点で、アメリカ政府は日本が原子力の平和利用へ動くという確信が持てたはずです。そして、その上で、この年の12月にアイゼンハワー大統領により核の平和利用演説が行われたのです。
ところが、翌年1954年(昭和29年)3月1日、ビキニ環礁でブラボー水爆実験が行われます。あの第5福竜丸事件を起こした実験です。つまり、前年末の核の平和利用演説はアメリカの本音ではないことがこのことだけをとってみてもよく分かります。しかし、この水爆実験の実質一日後である3月3日、中曽根康弘氏らが中心となって当時の保守三党により2億3500万円という金額の原子力関係予算が衆議院に提案され、翌日には成立してしまうのです。 第五福竜丸の被曝事件は日本で大きく取り上げられますが、正力松太郎氏が率いる読売新聞などが中心となって平和利用を宣伝し、原子力発電と被曝は関係がないという世論が作られていきます。
1955年(昭和30年)、中国での主に略奪で得た資金が児玉誉士夫によって提供され保守合同が行われ、自由民主党が誕生します。これによって、日本の対米追従政策が圧倒的な保守勢力によって安定的に行われる政治体制が完成したわけです。
1957年(昭和32年)12月には日本で最初の原子力発電所である東海発電所の立地が茨城県東海村に決定され、1959年(昭和34年)3月原子炉設置許可申請、同年12月には設置許可が出され、1960年(昭和35年)1月には建設工事が着工されていきます。
なお、アメリカ大統領による核の平和利用演説はそれを口実にヨーロッパへの原爆配備を目指したものだという話があります。この演説の時点で、アメリカはICBMを持っていず、ソ連はソ連が極東からアメリカ本土を原爆攻撃できるのに、アメリカ本土からソ連の西の端に位置するモスクワを狙えないからだという話です。そのように、自分も以前は考えていましたが、現在は疑問を持っています。基本的に原爆はそれをある程度以上の規模で保持している国同士であれば、地球環境自体がダメになり、そのために互いに使えない兵器であり、1954年時点ですでに米ソ双方とも相手国に対して使うことは無理と分かっていたはずだからです。つまり、原子力の平和利用宣言は、基本的に日本へ原発を造らせることを狙いとして行われたはずなのです。それほど、核廃棄物の処分問題が大きなものとして、この当時からアメリカでは意識されていたということだと思います。
次に、1973年(昭和48年)の石油ショックがなぜ起こったかを少し見てみたいと思います。石油ショックはOPECによる石油値上げがきっかけです。これは中東諸国の資源ナショナリズムが高まった結果だと言われています。では、中東諸国の資源ナショナリズムはなぜ高まったのでしょうか。これは、当時のリビアのカダフィ大佐によるリビア国内の石油採掘精製会社の国有化と石油値上げにあったのです。
カダフィによるリビアの政権掌握は1969年(昭和44年)の無血革命によってなされます。1965年(昭和40年)に士官学校を卒業し陸軍に入隊したたった4年後のことです。彼は1950年代から一貫して王族による支配を不当なものと意識していて、中学時代から革命をすると公言していました。そのため、高校時代には放校処分を受け、彼が士官学校時代には、駐リビア英国部隊から英国情報部に対して「もし、1965年の早い時期にクーデターが起きた場合、その首謀者はムアンマル・アル・カダフィである可能性は非常に高い」(カダフィ正伝 集英社 平田伊都子 168ページ)との報告が上がっています。つまり、カダフィ大佐が将来何か事を起こすであろうということを英米当局は革命の少なくとも4年以上前に明確に意識していたということです。よって、カダフィによるリビア革命とその後の石油値上げはアメリカやイギリス当局の黙認、または誘導のもとに行われたと解釈するのが正しいのです。実際、カダフィが率いる自由将校団による革命はとてもあっさり成功し、石油メジャーが経営していた会社の国営化もその後の石油値上げもたいした抵抗なくできて行きました。
では、なぜ英米側が、石油値上げを間接的ではあってもカダフィ大佐を使って仕掛けたのでしょうか。もちろん、石油会社がカダフィ政権によって国営化されてしまっても実際の石油採掘・精製は英米人を中心に行われ、会社の運営自体も以前と変わらず英米人が担当していたため、石油値上げの結果ひどく石油メジャーの収益が悪化したわけではなく、ある意味、多少長期的に見ると石油値上げによる利益増加があったということがあります。しかし、一番の理由は、石油値上げによって日本に原発を必須のもの、止めることができないものにすることにあったと見るべきだと思います。
その根拠です。1973年(昭和48年)の石油ショックを受けて日本では電源三法が作られますが、電源三法が制定された1974年(昭和49年)の年末までに原子炉設置許可を受けていた商業用原子炉は次の23基もあったのです。東海、東海第二、敦賀1号、女川1号、福島第一の1号から6号、福島第二の1号、浜岡1号と2号、美浜1号から3号、高浜1号と2号、大飯1号と2号、島根1号、伊方1号、玄海1号。
この他にも原発立地の計画は各地で進められていて、電源三法ができたから急激に原発立地が進んだとは言えないのです。また、1974年(昭和49年)の時点で立地が既に決まっていた原発は数多く、核燃料サイクル計画もすでに動き出していました。1970年(昭和45年)、新型転換炉原型炉「ふげん」は建設着工、高速増殖実験炉「常陽」は原子炉の設置許可、高速増殖炉「もんじゅ」は立地自治体である敦賀市の了承をとっていたのです。(なお、この点について、以前は電源三法制定により原発立地が促進されたと思い込んでいたので、1974年(昭和49年)時点で20基を超える原子炉の設置許可が出ていたのを知って、正直驚きました。)
ともかく、電源三法ができたために、補助金制度が整備され、立地自治体が補助金漬けにされたわけです。そして、結果的に、たとえ危険性が明確になっても原発を止めることができない体制が作られたのです。例えば、出力135万kWの原子力発電所で、建設費 4,500億円、建設期間7年間というモデルケースでは運転開始までの10年間の交付金合計391億円、運転開始の翌年度からの10年間で交付金と固定資産税の合計502億円が立地自治体の歳入となるのです。(電源立地制度の概要ー平成15年度大改正後の新たな交付金制度:http://www.enecho.meti.go.jp/topics/images/040329dengenritti.pdf なお、この資料に原発炉設置許可の時期の一覧などが載っています。)
福島第一原発事故が起こった後の日本各地の立地自治体の態度を見ても分かるように、補助金漬けにされた結果、危険だと分かっても止めるという判断を立地自治体ができなくなってしまっているのです。電源三法が作られたのは明らかにこういったことを目指してのものです。もう一つ言えるのは、電源三法ができたことで、補助金を継続的に受給したいという欲求が自治体側にできてしまい、それが10年とか15年ごとに新規原発建設を地元から要求する体制につながっています。鹿児島県が川内3号炉の設置を一時期容認していたことはまさにこういった動機付けが電源三法によってされていることの見本と言っていいと思います。
電源三法が成立した4年後の1978年(昭和53年)、原子力安全委員会が設置され、1956年(昭和31年)に作られた原子力委員会とともに、原子力行政の中核を占めるようになります。(しかし、原子力安全委員会は福島第一原発事故の対応であまり機能しなかったことなどから2012年(平成24年)に廃止され、原子力規制委員会へ移行しています。なお、原子力規制庁は規制委員会の事務局です。原子力安全・保安院は2001年(平成13年)に設置され、2012年(平成24年)に廃止されています。)
電源三法が成立した5年後の1979年(昭和54年)3月28日、アメリカでスリーマイル島原発事故が起こります。これも、日本での電源三法成立とその後の原発立地の進展具合を見て起こされたものと見るべきです。
なぜなら、アメリカでは事故時に既に工事着工していたもの以外は新規の原発立地は現在まで一基も行われていず、それでいて、アメリカに比べてはるかに地震が多い日本では、スリーマイル島原発事故やそれよりもはるかに深刻な事故であった1986年(昭和61年)4月26日のチェルノブイリ原発事故が起こった後も、新規原発着工が鈍ることはなく、廃炉にされた商業用原発も東海発電所以外はなかったからです。スリーマイル島原発事故よりも後で設置許可が出されている原子炉は29基にもなり、この内、チェルノブイリ原発事故後に設置許可が出されているものは次の15基にもなります。泊3号、東通1号、女川2・3号、柏崎刈羽3・4号、同6・7号、浜岡4・5号、志賀1・2号、大飯3・4号、伊方3号。
なお、日本で反原発運動が盛り上がらなかったのは、この時期、既に完全に原子力村が確立されていて、日本の原発が安全だという主張がどんどんされていったからのはずです。また、本来、反原発運動の中核を占めるはずだった日教組は1977年(昭和52年)頃より主任制度導入への反対の意味を込めた主任手当拠出運動が展開され、1979年(昭和54年)のスリーマイル島原発事故に対応した原発反対運動はあまり展開できない状況にありました。
主任制度化は1975年(昭和50年)に文部省が急に言い出したことです。教員人材確保法による教職員給与引き上げが決まったのが1974年(昭和49年)、これと前後して教頭職法制化が行われ、その後、主任制度化が行われました。つまり、電源三法の成立と教職員の待遇改善及び管理強化はほぼ並行していて、1979年(昭和54年)のスリーマイル島原発事故が起こる時点では、教員への管理強化は既に完了していたのです。
ただし、教職員の給与引き上げは日本全体の高度成長の結果であり、教頭職の法制化も、待遇改善と抱き合わせの管理強化であった様子で、教職員による反原発運動を防ぐという意味合いがあったのは主任手当導入だけだと思います。主任制度導入で学校現場が混乱したのは、主任手当を組合に拠出し奨学金などに使おうという運動が展開され、拠出するかどうかの決定が職場ごとにされていったため、大きな混乱を招いたということです。
アメリカでスリーマイル島原発事故が起こったとき、アメリカ国内ではチャイナシンドロームと言う原子炉でのメルトダウンを描いた映画が上映されていました。実際のスリーマイル島原発事故では軽微な放射能漏れ、つまり放射性ヨウ素だけが環境中に漏れたとされたのですが、この映画が上映中であったために、多くのアメリカ市民は原発事故の恐ろしさを印象付けられ、以降、原発反対運動が盛り上がるのです。
放射性ヨウ素だけが環境中に漏れたということに関して、原子炉の中だけであっても核燃料のメルトダウンが起こったのですから、当然セシウムもヨウ素同様かなり大量に気化していたはずであり、放射性セシウムの環境中への漏れがなかったとされていること自体がかなり不合理なことです。また、事故原因は運転員の操作ミスとされ、設計ミスなどではなかったこともこの事故が自然に起こったものではなく、故意にコントロールされて起こされたものであることを示唆していると思います。
アメリカが、戦後から2000年(平成12年)程度まで、日本の国土を核廃棄物の処分場にし、高レベル核廃棄物は日本の土地のどこかへ地層処分をすればいいと考えていたことを示すことをもう一つの根拠を挙げておきます。
それはユッカマウンテンという砂漠の中に計画されていた高レベル核廃棄物処分場がどうも見せかけだけであるということです。そもそも、日本を処分場にするのであればアメリカに造る必要はありません。
ユッカマウンテンの使用済み核燃料貯蔵施設は約80億ドルの巨額をかけて進められていたとされるのですが、2008年(平成20年)末の大統領選でオバマ大統領(その当時は候補)が凍結を約束し、2009年(平成21年)の大統領就任後、正式に凍結が決定されたのです。
普通に考えると、この時期の工事中止はとても奇妙です。オバマ大統領の建設中断の判断は、地下水などの環境汚染の恐れがあるからだということです。しかし、そうであれば、ユッカマウンテン以外の場所でも地層処分はできず、アメリカ国内に処分できる場所はほぼ存在しないことになるからです。少なめに見積っても、アメリカの原発のほぼ3分の1は1970年代までには完成し運転をしていたわけですから、2009年(平成21年)の時点でこれらの原発は運転期間が30年を超え40年に近づいていたわけです。地層処分をしたいという圧力は相当に強まっていたはずで、ユッカマウンテンを使わないのであればほかに用地を確保しなければいけないという話しになるはずです。しかし、既に4年を経過した現在でもユッカマウンテン以外の処分地を選定しているという話しは出てきていないはずです。
更におかしなことがあります。多くの使用済み核燃料は原子炉から出した後4年から5年程度プールで水冷をし、その後、乾式キャスクへ入れて保管します。その後、乾式キャスクそのままか他の容器へ積み替えるかして地層処分をするわけです。ですから現在アメリカ国内には乾式キャスクに入った使用済み核燃料が大量にあるはずです。これらをなるべく安全な場所に保管したいという欲求があり、原発周辺の住民から、ある程度完成しているはずのユッカマウンテン処分場の坑道に乾式キャスクを保管してもらいたいという要望が出ているのです。(http://green.blogs.nytimes.com/2012/01/24/wanted-parking-space-for-nuclear-waste/?_r=0)多分、これは合理的な要望であり、普通ならかなえられているはずですが、アメリカ政府は応じていません。更に、ユッカマウンテンの施設の画像検索をしてみても、入り口部分の長いトンネル以外は内部の写真は多分見つからないのです。https://www.google.co.jp/search?q=Yucca%20Mountain%20nuclear%20waste%20repository&psj=1&bav=on.2,or.r_cp.r_qf.&bvm=bv.50165853,d.dGI,pv.xjs.s.en_US.seW1cfrvSKg.O&biw=1024&bih=475&um=1&ie=UTF-8&hl=ja&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=bJf-UfrrAoWekwXZrYG4Bw#facrc=_&imgdii=_&imgrc=PZpPYmZJe85ufM%3A%3BSA23kAJAw0g_lM%3Bhttp%253A%252F%252Fgraphics8.nytimes.com%252Fimages%252F2012%252F01%252F24%252Fbusiness%252Fyucca%252Fyucca-blog480.jpg%3Bhttp%253A%252F%252Fgreen.blogs.nytimes.com%252F2012%252F01%252F24%252Fwanted-parking-space-for-nuclear-waste%252F%3B480%3B360
また、入り口の坑道部分を除いて一般公開されている様子もありません。
なぜ、では、計画凍結をしたのでしょうか。これはその後の展開を見ることで分かりそうです。つまり、オバマ大統領による核兵器廃絶宣言とどう考えても不合理なシェールガスブームによるアメリカ国内の原発廃炉ラッシュです。原発廃炉が近いうちに始まるため、その前に計画凍結しておかないと困るからです。アメリカの立場としては、一番多く核廃棄物を持つ国として自前の処分場を持っているということを世界の国々に示す必要があり、そのため、建設中という形でずっと維持をしていたわけですが、自国の原発が廃炉時期に入ってしまったため、見せかけの処分地を計画凍結という形で閉めてしまわざるを得なかったというわけです。
シェールガス革命が不合理な理由は、シェールガス田は採掘開始後数年でほとんど枯渇してしまうため、普通の天然ガスよりも数倍の採掘コストがかかることは原理的に明らかであるのに、投資資金が集中的に入り、大規模に生産がされたために余剰分が値下がり圧力となって全体のガス価格が下がっているからです。
アメリカがシェールガス革命を始めた理由は、2000年ごろからアメリカ各地の地下から大音響が聞こえ、その地域の家屋がびりびりと揺れるという現象が頻発しだしたからです。つまり、アメリカの東部などの原発密集地域で直下型のある程度大きな地震が起こる可能性が出てきたために、急きょ原発廃炉をやろうと考え、そのために考え出されたのがシェール革命なのです。そして、だからこそ、アメリカの中央銀行であるFRBがとんでもない金融緩和をやって国内へ資金をどんどんと供給しているのでしょう。国が実質的に資金を出してシェールガスブームを演出し、原発廃炉を推し進め、かつ、シェールガス革命で使っている水平掘り技術や水圧破砕技術を広め、これを次の高温岩体発電に生かそうという作戦なのです。この二つの技術は高温岩体発電でも中核になる技術であるのです。
アメリカの当初の計画、つまり、日本に原発を造らせて原発事故を起こさせ、世界の核廃棄物処分場にするという計画は、多分二つの意味で見込み違いに終わってしまいました。一つは戦後40年程度、日本で大きな地震が起こることがほとんどなく、大規模な原発事故になかなか結び付かなかったことです。そして、多分、この期間中に、アメリカの政策当局の一部は、原発事故による放射能汚染の深刻さに気が付き、日本で原発事故を故意に事故を起こすことに踏み切ることができなかったのでしょう。
もう一つは、今述べたように、低線量被曝の影響がかなりあることが次第に分かってきて、原発事故を実際に起こすとか、日本のような地震国へ地層処分しても、後々の地球規模の放射能汚染が問題化すると考えたからだと思います。
自分はチェルノブイリ原発事故は人工的に故意に起こされたと考えています。事故当時原子炉の直下で小さな地震があったとされていて、そういったことを示す地震計データも存在するのに、原子炉直下での爆発が事故原因であるかどうかの検証が一切行われていないからです。また、この事故のためにソ連という共産主義の国が崩壊し、実質的にアメリカ一極構造になったからです。
チェルノブイリ原発事故当時、既に被曝影響が大変なものであり、人類全体に大きな惨禍を及ぼすものだという理解があったのかどうかはよく分かりません。ただ、戦後すぐの段階でアメリカ国内のネバダ核実験場で何回も核実験を実施していて、低線量被曝の影響がどの程度あるか、アメリカ政府は自国民の様子からきちんと分かっていたはずなのです。またプラスして、広島・長崎の原爆投下の影響も継続して観察されていましたから、1986年(昭和61年)のチェルノブイリ原発事故当時、既に原発事故で相当に長期間ダメージを受けるということを理解していた可能性はあると思います。それでも、共産国の親玉を滅ぼすことができるということと天秤にかけて事故を起こすことを選んだ可能性があります。
ともかく、低線量被曝の影響がどの程度あるのかがはっきりするまでには相当な時間がかかり、1985年(昭和60年)の時点ではまだ分かっていなかった、少なくとも原子炉事故を大規模に起こすのはあまりに地球的な危険があるとは分かっていなかった可能性は強いと思います。この時期は戦後の白血病被害が無くなりつつある時期のはずで、その他の低線量被曝に関する被害にしてもあまりはっきりした検証はできていなかったはずだからです。なお、被曝後50年程度してから骨髄異形成症候群(MDS)という症状が現れることが、その後、広島・長崎原発関連の被曝影響で確認されています。
1949年(昭和24年)4月13日アメリカのワシントン州でマグニチュード7の地震が起こりました。ワシントン州はカリフォルニア州の上にあり、アメリカ西部の地震頻発地域の一角を占めています。そして、このワシントン州に長崎原発のプルトニウムを生産した原子炉施設があったハンフォードサイトがあったのです。1949年は戦後のまだプルトニウム生産炉が稼働していた時期でした。
あくまで推測にしかすぎませんが、この時の地震で、ハンフォードサイトの原子炉が事故を起こし、かなり大規模な放射能漏れを起こしたのではないかと考えています。このことには、グリーンランという故意に放射能を大気中に放出してその影響を調べるという実験をこの年の暮れに行ったという話しがあることも関係があります。1949年12月にハンフォードサイトから放射性ヨウ素が大規模に放出されたというものです。しかし、この作戦があったと一般市民に分かったのは1986年(昭和61年)であり、被曝影響が周辺住民にかなりのていどはっきりと表れた後でした。また、1986年(昭和61年)は1979年(昭和54年)のスリーマイル島原発事故の7年後であり、スリーマイル島原発事故で新規原発着工が止まったため、既に着工した原発の建設だけが進められていたのですが、そういった原発の建設もほとんど終わった時点が1986年(昭和61年)なのです。つまり、1949年(昭和24年)4月の地震による放射能漏れを隠すために故意に放射能漏れを起こしたのだとごまかしたのでしょう。当然、アメリカ国内に対して地震で原発が壊れたことを隠しただけでなく、国際的にも地震で原発が壊れたことを隠す必要があったためです。
なお、1944年(昭和19年)9月5日、アメリカの東海岸のほとんど大きな地震が起こらないニューヨークでM5.8の地震が起こり、かなりの被害を出します。自分は、この二つの地震、つまり、まだ太平洋戦争中であった1944年(昭和19年)にニューヨークで起こった地震と、戦後の1949年(昭和24年)ワシントン州で起こり、多分ハンフォードサイトでの原発事故に結びついた地震が、日本に原子炉を造らせて地震で原発事故を起こさせ、日本の国土を世界の核廃棄物処分場にしようというアイデアを思いつかせたのだと考えています。
1962年(昭和37年)にセダン核実験というものがアメリカのネバダの核実験場で行われています。この実験によるアメリカ国内の被爆者は国内実験で最多の1300万人以上とされるため、この実験の影響がほぼ完全に顕在化した2000年(平成12年)頃までには原発事故による放射性物質の地球環境への放出が割に合わないものだということがアメリカのその筋の人たちに理解されていった可能性が高いと思います。(なお、可能性としてはかなり少ないと思いますが、このことのために、原発以外のエネルギー確保が問題になり、911の同時テロとその後のイラク攻撃が計画されたのかもしれません。イラクは産油国ですから。)
結局、アメリカの作戦、つまり、日本で原発事故を起こし、日本の国土を世界の核廃棄物の地層処分場にしようという作戦は、早くて1980年代、遅くとも2000年(平成12年)ごろには放棄されていたものと見るべきだと思います。
ここで、もう少し違った角度から、戦後の日本の動きを見てみましょう。
それは、一定の工作を行うためにはその準備が必要であり、準備の典型的なものは資金の用意だということです。
戦後のアメリカによる工作の典型は、1949年(昭和24年)の国鉄三大ミステリー事件(下川事件、三鷹事件、松川事件)です。多人数が関わった事件ではありませんが、事件自体はかなり規模の大きなものであり、関係者が多いことからそれなりに工作資金は必要だったはずです。この工作資金はどうやって工面されたのでしょうか。
1945年(昭和20年)の終戦直後である9月19日、占領軍である連合軍総司令部(GHQ)は、言論統制のためのプレスコードを発表。これにより米軍兵士の暴行などの犯罪報道を禁じ、同時に原爆関係の被害報道も禁じてしまいます。同22日には「占領初期の対日方針」を発表、三井・三菱・住友・安田の四大財閥の解体を命じます。12月、GHQは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示。農地改革法は1946年(昭和21年)10月に成立します。農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われたということです。
1946年(昭和21年)には公職追放が始まり、経済界では資本金1億円以上の会社役員および財閥直系準直系の常務以上のものは全員、追放の対象となりました。1949年(昭和24年)、GHQは三井・三菱・住友系の各社に対し、旧財閥の商号・商標の使用禁止命令を発令します。
こういった政策は、日本が二度と戦争ができない、そして、戦時中に日本が占領したアジアの国々以上の国力を持たないようにという方針のもとに実行されていったとされています。しかし、それに転機が訪れます。1948 年(昭和23年)1月に米陸軍長官ロイヤルがサンフランシスコで行った「日本を共産主義に対する防壁にする」という演説に象徴される、冷戦構造の本格的形成です。この後「逆コース」と言われるものが起こって行き、財閥の再結集が認められたりして日本の工業化が進められていくのです。
「逆コース」に占領方針が転換されたのは、ソ連での核兵器開発に関する情報や中国における共産党勢力の優勢などを見てのことであったとされています。ベトナムでは、1945年(昭和20年)9月2日、ベトナム民主共和国の樹立が宣言され、ホー・チ・ミンが初代国家主席に就任していました。1945年(昭和20年)の終戦時から朝鮮半島は米ソに占領されたままであり、1948年(昭和23年)8月15日にアメリカ軍政地域単独で大韓民国が樹立され、同年9月9日にソ連の支配地域が朝鮮民主主義人民共和国となって行ったのです。ロイヤルの演説の翌年である1949年(昭和24年)8月29日にソ連発の原発実験が成功していますし、同10月1日には毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言します。逆コースそのものはこういった環境の中で反共の砦として日本を優遇するという占領政策の変更であったと見るのが多分最も妥当です。
しかし、先に述べたように、1949年(昭和24年)4月13日、アメリカの北西部にあるワシントン州でマグにチュード7.0の地震が起こります。これが同じワシントン州にあるハンフォードの核施設、特に原子炉に被害を与えた可能性があります。そして、このことが契機となって、単に日本を反共の砦とするだけでなく、共産圏との戦争に不可欠な核兵器を保持し続けるために必要な高レベル核廃棄物処分場として日本を使おうというアイデアが出されたのではないでしょうか。1949年(昭和24年)に原発事故が起こったとすると、ハンフォードサイトが縮小に向かう1964年(昭和39年)は、ちょうど15年後に当たり、白血病がかなり流行した時期であり、整合的です。
1952年(昭和27年)、日本とアメリカとの間の安全保障条約が発効し、日華平和条約締結も発効します。その結果、GHQ自体が廃止されます。当然、GHQが出した解散指令も解除され、財閥の商号・商号使用禁止令も廃止となり、こういった財閥関係の会社が元の名前、例えば三井物産を再び名乗ることが可能となりました。商号・商標問題で三井、三菱、住友の3グループが支出した色々な工作資金の総計は1億円以上に上ると言われています。
つまり、農地解放にしても財閥解体にしても、規制をする側と規制を受ける側では決定的な利害関係の差があり、裏金を支払うことなどにより処分をまのがれる、または何らかの配慮をしてもらうという動きが相当にあったはずなのです。また、いわゆる不動産の不当な安値での譲渡しと言うことが行われた可能性もあります。
閉鎖機関令というものが1947年(昭和22年)に出されていて、戦前・戦中に設立された住宅営団、農地開発営団、産業設備営団、重要物資管理営団、交易営団、食糧営団などが廃止され、持っていた不動産などの処分が行われているのです。1949年(昭和24年)11月9日の国会議事録には、住宅営団の不動産処分に関して次のような発言があったことが記されています。「大体帳簿価格が六千万円で、その売却予定額五千万円とか、七千万円とかになつておるが、ここにちよつと我々のような者から見ると算盤が合わない。このままだというと非常に安い。入つておる人に売るにして見たところが、それでも時価から何割か安くしてやつても、ここらが一億円くらいはどうも埋りそうに思うのですが。終戰後できたのがあるとすれば、ちよつともう一遍お尋ねしますが、終戰後といつても、二十一年十一月二十三日に閉鎖機関に指定されておるのだから、二十年の八月の終戰だから、ちよつと一年二、三ケ月の間ですよ、その間にばたばたとそう沢山建てたのですか。」(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/006/0120/00611090120002a.html)
また、第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第16号昭和二十三年四月二十七日(火曜日) の議事録にはいわゆる昭和電工事件を巡って次のような発言があったことが記されています。
「まず戰爭で負けた日本の國内にあるいは数千万円、あるいは数億円の成金ができておる。この現状を何と見るか。すなわちいわゆる不良官僚と結託して不正な拂下げが行われ、その不正な拂下げを受けた結果厖大な利得をしている。これがすなわち敗戰後の成金を生み出した一つの例であります。ぜひひつ委員会のお力をもつてこの不正拂下げに基く不当な財産を取得した者にメスを加えていただきたい。」、「大体の事項としましては、昭和電工株式会社の不当金融、不当政治献金問題というのがあるのであります。次には竹中工務店のやはり同樣な問題があります。第三には現代議士の梅林時雄君の主宰している梅林組、これも同樣な事件があります。第四には清水組という土建業者の同樣な問題があります。第五には本委員会で今問題になつておりまする辻嘉六氏と最も好対照をなしておる終戰後の日本政界の黒幕と言われておりまする菅原通済氏、この人をめぐつての同樣の問題があるのであります。」(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204271332016c.html)
つまり、戦後のかなり早い時期から公的な不動産や物資を使って、相当に大がかりな不正が行われ、しかもそれはGHQの指示のもと、日本の司法関係者が関わって実行されたものであることはほぼ事実と考えられるのです。これが、国鉄三大ミステリー事件を起こすための軍資金の出所である可能性はかなり高いと思います。
戦時中に、戦争反対を叫んだ人々を強引に罪に問うて行った司法関係者の犯罪について、GHQは戦後まったくその責任追及をすることはなかったのです。この時の責任逃れが戦後日本の司法関係者の腐敗につながり、様々な形での世論コントロールを可能にしてきたわけです。
1952年(昭和27年)、講和条約締結後はじめての総選挙が行われます。自由党が過半数を制して240(解散前285)、改進党85(同67)、右派社会党57(同30)、左派社会党54(同16)、となり、共産党は惨敗で解散前22あった議席がゼロとなります。これだけを見ても、1949年(昭和24年)の国鉄三大ミステリー事件による反共産党世論工作は大変に有効であったことが分かります。
しかし、世論工作は共産党対策だけに行われたわけではないようです。世論工作と言うよりも、日本の官僚や政治家、実業家、学者といったオピニオンリーダーとなる方たちへ大規模にアメリカの軍産複合体の息のかかった人たちを送り込むということが戦後すぐの時代から行われていたはずなのです。
その証拠に、全国各地で行われてきた原発訴訟は金沢地方裁判所の志賀原子力発電所2号原子炉運転差止請求事件以外、運転差し止めなど反原発側の主張が認められたことはありません。同じように、公共事業に関わる不正、例えば談合は日本全国のほぼすべての自治体で相当に大がかりに行われていたにも関わらず、ほとんど問題化することはなく、例外的に問題化した場合でも、その不正自体が問われたというよりも全く別の政治的な理由により特定の政治家や公務員が公共事業談合の罪を問われると言った状態になっているわけです。
こういった日本を実質的にアメリカが支配する仕組みは、基本的には農地改革を通して行われたように思えます。つまり、農地改革によって土地を地主階級から没収する代わりに彼らを主に地方行政組織の中へ取り込むということが行われたようなのです。
農地改革は、地主から小作に出していた農地を格安価格で没収し、その価格で小作人へ売り渡したのです。この時、地主側へは農地の状態によって報奨金が政府から払われました。こういった事務を基本的に行ったのが農地委員会であり、農地委員会委員の選挙はGHQの監督のもとに行われました。格安価格と言うのは、政府による買い上げにも、小作をしていた人たちへの売渡にも30年の年賦制であり、戦後急激にインフレが進行し、1945年(昭和20年)からの1950年(昭和25年)の間で物価は50倍から100倍程度にまで上がったからです。
1946年(昭和21年)2月第一次農地改革が始められますが、基本的に当事者間の話合いで売買するかどうかを決めるとされ、世論やGHQの反対により、実質的には小作料の金納化のみが実施されました。この第一次農地改革時の小作料の額が第二次農地改革での政府の農地買い上げ価格、つまり政府からの売り渡し価格にもなりました。このことを考えると、第一次農地改革の失敗は、ある意味、故意に失敗するようにしむけられ、安い小作料の設定だけがされたのかもしれません。
農地改革で一番問題になるのは、誰の土地をどれだけ売却対象として買い上げ、誰に売るかのはずです。これについて、具体的にこういう不正があったというような記録を確認をしていませんが、相当程度に抜け道があった様子です。地主の保有面積は内地平均1町歩のように決められていましたが、その計算は世帯単位で行うということで、戦時中は大家族制が普通でしたから、親世帯と子世帯に分かれることで対応ができます。また、不在村地主と在村地主の区別も難しいものであったはずです。更に、「市町村農業委員会が自作農となるべき者の申出により宅地、建物、採草地、農業施設等の買収を相当と認めたときは、政府はこれらのものを買収できる」となっていて、これも相当に運用次第で実態はいろいろあったはずです。
農地改革で農地の買収は1947年(昭和22年)3月に始まり、売渡は1948年(昭和23年)末までに98%の農地が完了しているようです。ただし、買収は1951年(昭和26年)3月まで行われたというので、当然その頃まで農地改革に伴う土地の取引があったと考えるべきでしょう。そして、当然のことながら、当初の2年間で行われた農地の売買は標準的なケースであったはずです。このことには、戦後海外からの引き揚げ者が民間人と兵士をあわせて600万人以上いたということにも関係してきます。「帰還事業は、米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、1946年、敗戦の翌年までに500万人以上が戻ってきた」とされ、「引き揚げた軍人や民間人は皆が国内の元の住所に帰れたわけではない。食糧難の時代、引揚者の少なからぬ人数が農村部に入植した」(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html)ということですから、実際の農地改革は海外からの引き揚げ者の大部分が帰還してから行われたわけです。つまり、帰還した人たちが、焦土と化した日本で直接食糧生産にたずさわることで何とか生きていけるようにという配慮があったと言っていいでしょう。
そして、その裏返しとして、こういった帰還された方たちへの農地売渡がほぼ終わった後の農地買収・売渡は相当程度に政治的な意味合いを持っていたはずです。つまり、1949年(昭和24年)以降の売買は政治的な思惑が絡んだものであったはずだと考えられます。
「ほとんどの土地は、買収日と売渡日を同日付けとする、いわゆる「瞬間売買」により小作人に売り渡されました。第一次農地改革の実施を新聞公表した日である1945年(昭和20年)11月23日現在の事実に基づき、買収を行う(第一次農地改革以降買収を逃れようとして地主が脱法手段を講じたことも多々見られ、法的均衡を図るためこの日を基準日として農地調査規則(昭和22年農林省令22号)に基づく調査を実施)」(http://www.maff.go.jp/chushi/keiei/nozaisan/pdf/gaiyou3.pdf)というのが農地改革の当初のやり方であったのです。
しかし、それが農地法(昭和27法律229号)を制定したころから変わります。つまり、「農地改革の基本原則を維持し、買収・売渡制度がそのまま引き継がれる。一方で、新たに、買収等により取得・管理している土地のうち、自作農の創設又は土地の農業上の利用の増進の目的に供しないことが相当とされたもの(不要地)について、、売渡しとは違う、買収前の所有者(旧所有者)に売り払う制度を規定」(http://www.maff.go.jp/chushi/keiei/nozaisan/pdf/gaiyou3.pdf)した法律が農地法として制定されたのです。
ここで「農業上の利用の増進の目的に供しないことが相当とされたもの(不要地)」とは主に市街化区域にあった農地であった様子です。ここでの売り払い価格も農地買収時のものですから、旧所有者は農地改革の影響をなかったことにすることができたのです。こうして得た土地を転売したり住宅地へ変えるなどして旧地主階級の人たちは脱農し、その多くが行政組織の中へ組み込まれていったわけです。ある人たちは市町村役場へ、ある人たちは教員へ、ある人たちは市町村または県会議員、国会議員へと言った具合です。
戦後の農地改革が行われなければ、兵役にとられた若者たちの大量の戦死により、農村の反政府化、共産化は避けられず、そういった事情はアメリカも戦争中に既に理解していたでしょうから、戦後すぐの時点でアメリカが日本を二度と戦争のできない三流国にしようとしていたという話は疑わしいと思います。既に当時ソ連共産党政権は成立していましたし、中国も毛沢東による政権確立がほぼ確実でした。ですから、財閥解体とか公職追放なども、当初から本気ではなく、単にそういった人たちを脅し、その後に彼らを優遇することによって手なずける手段だった可能性が高いと思います。そもそも、もし戦争責任を問うのであれば、公職追放とか財閥解体などと言う生半可なことではなく直接刑事責任、戦争協力の責任を問うはずなのです。まあ、ドイツやイタリアとのバランスの問題もあったのかもしれませんが、少なくともドイツと比べて日本の戦争責任追及はかなり甘いものでした。
なお、1940年あたりから小作地の国家管理が主に小作人の人たちの全国組織によって主張されています。背後にあるのは徴兵制によって兵役を担っている若者のかなりの部分を農村地域が担っているという自覚のはずです。当時の軍部はやはり主に農村部の二男三男の労働力の受け入れ組織になっていた面があり、農地改革はある意味戦前戦中の日本軍部や日本政府も望んでいたことだったようすです。
実際、和田博雄という官僚の方が実際的な農地改革の筋道をつけ、戦後の混乱期を大過なく乗り切ることができたと言われています。
以上見たように、農地改革によって、一方では社会全体の安定化をはかり、もう一方では日本全国を草の根から基本的にアメリカ流の資本主義へ協力的な社会にすることが行われたのです。別の言い方をすれば、日本の農地を元手に使って大規模な工作をやったのが農地改革であったわけです。
しかし、これだけでは不十分であることが、多分、戦後30年とか40年した段階ではっきりしてきたはずです。つまり、農地改革によって作られた体制は、基本的に、全体のパイが大きくなる中で自分自身の取り分を大きくするということを行動の指針としたものだったからです。
チェルノブイリ原発事故が起こった1986年(昭和61年)頃から、この記事の前半で述べた方針転換、つまり、日本で地震による原発事故を起こさせるというものから、本格的な事故を起こさせずに日本国民だけを被曝させて国土を世界の核廃棄物処分場にし、しかし、地球的な放射能汚染は起こさせないというものへと日本への対処の仕方が変わったはずなのです。
このことの傍証として、高速増殖原型炉もんじゅのナトリウム漏れ事故があります。もんじゅは水で原子炉を冷やすのではなく金属ナトリウムを使います。原子炉の燃料棒の周りを流れる一次系ナトリウムと一次系ナトリウムから熱を受け取りタービンを回すための水蒸気を作る二次系のナトリウムの回路があります。一次系は当然かなりの放射能を持ちますが、二次系のナトリウムはあまり放射能を持ちません。もんじゅのナトリウム漏れ事故は二次系の回路に取り付けてあった温度計が破損して起こりました。温度計は鉛筆状のものが液体ナトリウムの中に突き出るように取り付けてあるのですが、径が途中で変化していて、その変化が階段状になっていたのです。このため、液体ナトリウムに渦が生じ、それが大きな振動を発生させ、温度計の破損に結びついたのです。温度計の設計指針は定められていなかったとされます。しかし、このことは大変に奇妙です。流体の中へ表面がなだらかに変化していないものを入れれば渦ができることは流体力学にとって常識だからです。
しかも、二次系のナトリウム回路が動き始めてから3か月余りで事故が発生しています。一次系のナトリウム回路は二次系のナトリウム回路よりも17カ月も長く動いていて、一次系の温度計は破損していないのです。もし、同じ温度計が使われていたら一次系が先に破損していたはずであり、そうであれば放射能を強力に帯びたナトリウム漏れなので事故処理はとても大変であったはずです。
つまり、もんじゅのナトリウム漏れ事故は、あまり事故処理が大変にならないように考えた上で故意に起こされた可能性が強いのです。もんじゅの歴史を次に引用しますが、本体工事着工が1985年(昭和60年)であり、このころに既に二次系ナトリウム回路での事故が予定されていたのだと思います。特に今年2013年になってから発覚し、運転停止命令に結びついた、非常用発電機などの重要機器に関する13もの点検漏れはあまりにも不自然です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%85 より部分引用:
1985年(昭和60年):本体工事着工
1990年(平成2年)7月20日:動燃アトムプラザ開館
1991年(平成3年)3月22日:ナトリウム現地受入れ(国内輸送)開始
1991年(平成3年)5月18日:機器据付け完了式典・試運転開始
1992年(平成4年)12月:性能試験開始
1994年(平成6年)4月5日:10時01分臨界達成
1995年(平成7年)8月29日:発電開始
1995年(平成7年)12月8日:ナトリウム漏洩事故発生
高速増殖炉はプルトニウムを大量に使う原子炉であり、それが事故を起こせば通常の原子炉事故よりも格段にひどい放射能漏れに至ります。そのことがあるため、アメリカでも高速増殖炉計画は放棄されましたし、日本でも、再稼働が近いとされたもんじゅで、原子炉内中継装置落下事故であるとか機器の点検漏れ事故が起こり、運転停止が決定されたのでしょう。日本で計画が中止されないのは、あくまで将来原発事故を起こさせる意図があるからのはずです。
地球的な影響がある原発事故は避け、しかし、世界中に大規模に溜まりつつある核廃棄物の処分場を確保しなければならないため、日本国内でだけ影響のある原発事故を起こす必要性が出てきます。そして、こういったことをやるためには、相当程度に世論工作が必要になるわけです。
農地改革によって作られた日本の支配体制は、基本的に社会全体が発展しながら、その中で支配機構に協力するものを優遇することに基礎を置いていました。地震による原発事故は急に起こるわけですから、こういった支配体制であっても原発が稼働する体制があれば計画はうまく行くわけです。しかし、人工的な原発事故を起こすためには社会全体がダメになっても自分さえよければそれでいいという人たちが大量に必要になります。
ここでは、農地改革と同規模か、またはより大規模な工作が必要となります。しかも、より厳しく他者を裏切るようなマインドコントロールが必要になるのです。農地改革同様、ここまで大規模になるとなかなかお金では工作ができません。そのために考えられたのが多分高校及び大学入試不正、または就職試験などを含めた広範囲な試験不正です。
埼玉県では1989年(平成元年)に幾つかの高校で合格確約がされていたことが報道されています。しかし、奇妙なことにその処分は行われませんでした。その後、土屋埼玉県知事が県内中学校での業者テスト実施を禁止し、それを受けて当時の鳩山邦夫文部大臣が全国での業者テスト廃止を行います。この時期、入試を不透明なものにする制度改変が集中的に行われていきます。中学での成績評価が相対評価から絶対評価へ変わり、公立高校への推薦入試が大幅に導入され、しかもその選抜方法を各高校で個別に決めていいことになり、推薦入試は宝くじと同じとさえ言われる状況になりました。また、指導要録の成績に関連する部分だけが従来の20年間保存から5年間保存へと変更になりました。従来は20年経過したものから順次指導要録として学年ごとに保存されているものをそのまま廃棄すればよかったのですが、この変更により、いちいち5年経過時に成績に関する部分だけを抜き出して廃棄することになったのですから、実務を無視した変更であり、成績関係資料の抹殺を狙ったものとさえ言えるでしょう。
また、この時期に大学へのAO入試が導入されていきます。アドミッションズオフィイス入試というもので、受験生に論文などを自宅で書かせ、それを専門の職員が評価して合否を決めるシステムです。また、従来からある推薦入試もより大規模になり、大学によっては半数以上の学生が普通の入学試験を受けずに入学するようになってしまいました。
これらの結果、大学生の低学力化が格段に進みます。それも超エリート校と言われる大学での低学力が起こるのです。2010年(平成22年)2月に発売された週刊朝日にある塾の中学2年生と東京六大学の学生のそれぞれ30名ずつに簡単な一般常識テストを行った結果の記事が掲載されました。筆記形式の数分で終わる程度の簡単なアンケートであったのですが、総合得点一位はその塾の中二の生徒たちでした。そして、6×3-4÷2= という小学校4年の算数の問題を東京六大学の学生14%強が間違えたとされ、その中には複数の東大生も含まれていたのです。東京六大学とは、慶應義塾・東京大学・
法政・明治・立教・早稲田であり、どれもかなり平均よりも学力レベルが高いとされる学校です。多分、一昔前なら考えられないような低学力化がこれらのエリート校で進んでいるのです。
これらのエリート校へ入るためには相当に良い成績が必要ですから、こういった低学力な学生がかなりみられるということはその背後に入試不正または一般的な試験不正、つまり、中間試験や期末試験と言った試験自体がインチキになっているという事態があることを示しているはずです。
入試不正は日本人の一部にそういった不正をやることを認めることで、特別な工作資金を使うことなく、大規模に支配層の言うことを聞く人々を作り出す仕掛けであるのです。多分、特別な工作資金を使うどころか、入試不正を全国規模で行っているため、動く裏金の一部をピンハネし、そのあがりは年に数百億円程度になっているはずです。
こういった試験不正は1995年のパソコンOSであるウィンドウズの普及やインターネットの普及とも関係がありそうです。試験問題の作成はほぼ100%パソコンで行われていて、試験問題漏れはウィンドウズ上で起こっていることが確実です。また、インターネットを使って大規模な情報収集が可能になり、同時に大規模でまた非常に巧妙な世論コントロールも可能になりました。
入試不正は日本では既に20年程度は大規模にやられていて、地域住民の2割とか3割程度の方は直接入試不正に関わった方たちになってしまっているはずです。この状態で、大規模な情報収集と世論操作がインターネットを使ってできるのですから、地震による本当の原発事故シナリオではなく、故意によるインチキ原発事故シナリオを実行に移す用意はかなりできてしまっていると言えるはずです。
しかし、まだ足りない要素があります。それは司法判断です。もし、重大な工作の時、それが不法なものであるとかインチキであると誰かが警察なり裁判所なりへ訴えてしまい、それがそのまま認められてしまえば故意によるインチキ原発事故シナリオなど実行できるはずがありません。
多分そのために行われたのが、1985年以来のバブルの発生とその崩壊による司法官僚などへの利権付与のはずです。整理回収機構には多数の弁護士や警察関係者が参加していて、その中で相当な規模で優良不動産の安売りが行われ、かなり多くの司法関係者が甘い汁を吸ったと言われています。
そして、このことが背景になって1995年の地下鉄サリン事件が起こるのです。地下鉄サリン事件はソ連崩壊により廃止が検討されていた公安警察をよみがえらせ、刑事警察よりも大きな勢力とするために起こされたと言っていい様子です。地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教は1986年(昭和61年)にその元の形ができていますから、このころから工作が始まったと言っていいはずです。
2003年(平成15年)4月に起こった志布志事件(13票を現金191万円などで買収しようとしたとされる事件)、2008年4月の江東区潮見のマンションでの女性殺害事件(遺体を細かく砕きトイレに流したとされる事件)が起こっていますが、どちらも非常に不合理な事件であり、実際に志布志事件は事件自体がねつ造であることが裁判でも認められました。こういった警察による事件でっち上げは被害者氏名の公表・非公表の判断が警察にまかされたこともあり、この数年で非常に数多く起こっているように思えます。
日本社会で警察は大変によく機能してきました。海外でよく言われるような袖の下を受け取るという腐敗もほとんどなく、一般市民の警察への信頼は大変に高いものがあります。警察内部ではいろいろな理由づけがされるのでしょうが、基本的に事実に基づかない事件が起こったことにされるのは、まさに、故意によるインチキ原発事故シナリオ実行の予行演習が全国各地で行われていると言ってもいいはずです。地球規模ではたいした放射能汚染を起こさない状態で、日本の一般市民だけがかなり程度被曝の影響を受けるという原発事故を起こす条件は今整いつつあるのではないでしょうか。
なお、2011年の福島第一原発事故の事故処理を見ても、故意に、低線量被曝の影響を受ける人を全国規模で増やそうということが行われています。瓦礫の広域処理はまさしくそういったものですし、福島の原発周辺を除染し、住民を帰還させるという政策も、見方を変えれば、原発周辺のかなり汚染された土地を使って農産物生産を行い、ある程度汚染された食品を出荷しようということになります。また、ベクレル値のかなり高い(キロ400ベクレル未満)の堆肥が全国流通しています。こういったことは、全て、将来人工的な放射能漏れを起こしたとき、市中に放射性物質をばらまく行為をよりやりやすくするためであるはずです。既に被曝している人たちに多少余計に被曝させるのであればあまり抵抗感がないでしょうし、既に被曝影響が出ている人たちが多ければ人工的な放射能ばら撒きがあってもそれが顕在化しにくいからです。
福島第一原発事故を引き起こした大地震が人工のものであるという話しがかなり信じられている様子ですが、明確なデマです。マグニチュード9にもなる規模の大きさや前震現象が数多く起こったことなど、人工的に起こすにはあまりに大きな地震でした。また、あの時期にああいった形で人工的な地震を起こす動機がありません。逆に、この地震が人工的なものであるという話しがかなり信じられているという現状そのものが、今の日本社会が相当程度に世論コントロールができるものになっているという証です。
以上、アメリカの対日本戦略の変化を見てきましたが、どうやって対処したらいいのでしょうか。まず第一は、世論コントロールの大きな仕掛けになっているインターネットを実名制になるべくすることです。次に、福島第一原発事故で地震の影響がどの程度あったかを監視カメラ映像を公開することで一般市民に直感的に分かる形で検証することです。更に、高校や大学の入試制度を透明性を持ったものへ戻すことです。そして、多分、何よりも大切なことは、世界の核保有国、原発立地国が日本を世界の核廃棄物処分場にすることを望んでいる、または少なくとも多くの国がそういった動きを黙認しているという状況にあることをなるべく多くの一般市民が理解することだと思います。
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