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5つ星のうち 5.0 日本の友フィフィさんの問題提起から見えてくる日本人と日本の今
2013/9/14
By 中西良太 / Ryota Nakanishi
書評:本書で私が一番感銘を受けた驚きの知的発見は、イスラムと日本文化圏の男女交際にみる文化論的比較から導きだされた男女交際への社会的責任の価値観の差異と本来的な交際の在り方の再発見である。現代日本では、男女交際は親族には秘密で、了承理解などを男性側がまず得ようとせず下心ありげなコソコソした責任逃避型、密会型の交際先行になりがちだが、イスラムではまずはお互いが相手の家族に各自了承理解を得て、交際へ伴う一切の相方の家族へ伴う責任をも負う事を納得の上で初めて真剣な交際をするという大変当たり前であるべきものである。しかも、それは日本の封建的な差別や拘束ではない。これは、恋愛や交際への責任について多くの読者に見失っている、いや、教えられる事のこれまでなかった何かを強く訴えるのは間違いない。フィフィさんの指摘されるこの交際の在り方の差異、ここに、性教育の基本がまずあるのではないのだろうか。フィフィさんの素晴らしい洞察に心底感激し、これまで自身にいつのまにか惰性的に身に付いていた堕落した交際観に反省させられたのには本当に感謝したい。
フィフィさんは本書で大きく三つの問題を提起している。1)現在の日本が革命前の従米政権下のエジプトの社会状況に類似していること;2)日本人が自国の諸問題に対して声を上げて議論をしないこと;3)国際感覚に欠如した若者の量産である。
第一章「日本人のおかしなところ」では、日本が問題提起自体がそもそもはばかれる社会であり、単なる言論統制社会よりもたちが悪いことが指摘されている。日本では、フィフィさんの言うような状況はお上と民の上下構造、政治や宗教と言った話題への職業上のタブー、戦時下での盲従的で、政治問題言及を封殺した労働の賛美、学生運動参加者は、安保闘争の当時だけでなく今もTPP反対や反原発闘争でも多数参加したし、実は逮捕され前科者となった人達もいる。就職活動でも政治、宗教や社会問題への言及はタブーで危険視され、排斥される社会である。日本は党国社会ではないが、雇用の現場では信教の自由はなく、基本的に政治活動や宗教活動は禁止されている。官僚主義や、憲法が依拠する欧米型の労働法と実態が矛盾している雇用システムに言論抑制の機能が巧みに組み込まれ機能しているからである。また政教分離がないという指摘も正しく、公明党のように創価学会の私的な宗教政党のような偽平和主義政党が従米軍国主義と手を携えてその亡国政権運営を今も支えている。彼らの役目はその似非平和主義による反対勢力の催眠的な武装解除であり、従米軍国主義の補完勢力に過ぎない。フィフィさんは、さらにここで日本好きと親日の差異の指摘や、排外主義による愛国教育の批判、欧米が望まぬアジアの結束、共同体設立の日本にとっての重要性、待機児童問題(就職前提と入園前提との矛盾)に絡んだ日本型雇用システムに於ける男尊女卑(例えば一般職と総合職は名称を変えただけの男女の従来の働き方差別区分の温存である)が少子化を生んでいることも指摘されている。日本社会のあらゆる差別及び差別意識はその男尊女卑の顔をも持つ日本型雇用システムから生まれているし、全てそこに読み取れるのである。そこに内包した部落差別、在日差別、性別差別、年齢差別、言論/思想差別など枚挙に暇がない日本社会の問題製造装置である。フィフィさんが指摘されていることは、日本型雇用システムの問題性と常にそれ自体絡んでいることが発見される。これを何も変革せずに国民の生活第一はまずありえない。欧米型をとる日本の労働法規と日本型雇用システムが矛盾している実態も見落とせない。
また、性問題に関しても、簡単に体を許し自身に無関心で、自身を大切にしない女性は大切にされないという道徳観は正しい。そうでないならば、責任感が本当にあるならば我々にはイスラム型の交際の在り方を実践できない道理はない。
第二章「フィフィを形作るもの」では、在日外国人への雇用差別の被害が痛ましい。フィフィさんが指摘されるように、日本国内では、外国語は基本的に一部を除いて多くの企業で全く使われない飾りである。外国人は基本的に正社員ではなく、銀行でも実態は契約社員(非正規)扱いである。彼女のように、英語を使わないのに要求され、語学留学させられ、就職できたとおもったら契約社員で頭打ちの自動解雇という無意味な悲劇を自動的に創出する社会は個人の人権を保護しその努力を還元する民主社会などではない。これ自体他国では異常事態である。ところがこれも日本人の国際比較無き世の中様の当たり前の基準になってしまっているためにおかしいなどと誰も思わないのである。フィフィさんの観点がおかしいのではない。 この社会は、おかしいと誰も気づかなければいつまでも何も変わらないのだ。
第三章「なぜ私は日本の為に意見しているのか」では、フィフィさんはエジプトに於ける外国人優先採用のもたらしたテロの根源を指摘したり、欧米や日本メディアが喧伝する民主化ではなく、ムバラク従米政権打倒こそがエジプト革命の意義であり、21世紀型のフェイスブック革命とでも言うべきソーシャルネットワークを利用した匿名の大衆の自覚的で、特定の組織や特定の指導者依存型の20世紀の古い革命の形式との差異を見事に分析されている。情報革命は革命の闘争形式の革命をももたらした事が偉大なエジプト人民の従米政権打倒の救国革命によって立証されたのである。日本では、官邸前デモがこれに近い。実は、エジプトだけでなく、日本も大使館や其の代理機関では、雑用業務は現地人を多く採用している。彼らが現地語を話せず問題対処に無能なだけでなく、スパイも入りこんでいるのである。監視されているのだという声を外務省職員から何度も聞いた。フィフィさん、エジプトだけではなく日本も現地人の安価な調達を優先しています。弊害はフィフィさんの言われる通りです。
第四章「外国人を甘やかす日本というシステム」では、日本人学生への逆差別が、例えば国内生への有償奨学金という名のローンと無償の本来の意味での奨学金が留学生に優先的に与えられていることの矛盾が指摘される。実は、補助金という形でも日本は中国の一流大学を資金援助している。彼らは日本以上に今や裕福なのにだ。国内の大学の設備更新や教育機関同士の就職斡旋競争が熾烈を極め多大な資金援助を必要としているのにだ。しかも学費だけは国費留学生は無料、国内生は欧米以上に高いのも逆差別である。ところが欧米やその他の国では其の反対なのだ。国内生の方が3分の1ぐらい安く済む。とにかくひも付き補助金を引き出す為に日本の大学は外国人をかき集めて留学させているというのは極論ではない。フィフィさんが指摘されるように、日本の官僚は日本人を増やす気はない。また、生活保護費の外国人への支給に疑義を呈されているのも有意義である。制度的にそれは本来日本国民に限定されるからだ。国民への逆差別である。
第五章「日本にとって未知のままのイスラム社会」では、先に挙げた交際観のイスラムと日本の差異の指摘が見事。またイスラムに於ける一夫多妻が夫の不貞や暴行の防止の為である事も明らかにされ、一妻多夫、多夫多妻等の婚姻制度の比較も貴重である。またエジプトのみでなく、トイレットペーパーをトイレに流さないのは中華圏も同じ。ただ、ピラミッド建設が奴隷制によらず労働者に依ったという点には歴史の詳細な検証が必要なので、直ちに納得はできない。それから、豚が不浄の物とされるわけはここで初めてよく理解できた。明治期にイスラムに出会っても、日本人は従米プロパガンダにより、テロリズムや宗教独裁と同一視しているのが誤りであること、日本人にとってイスラム理解が逆に日本人理解に繋がることが本章から理解できる。この点を見落としてはもったいない。
第六章「グローバルな視野を持つ為に」では、日本人の内向き、国際観の欠如が指摘され、出稼ぎや国際交流が推奨される。日本人の学生の内向きは、日本型雇用システムの新卒採用制がもたらす就職活動の脅威がもたらしている。そこでは、皆内向きにならざるを得ないのである。意識をそれを制約している社会制度の変革無しには意識自体を変える事はできない。また、日本人の側からの海外出稼ぎは日本人としての身分を維持できる程の所得水準を維持できる国でなくては、格差が大きすぎ日本社会に戻れぬリスクが多大である。駐在員と現地採用が海外勤務の基本形だが、今はそれもブラック化しつつある。駐在員と称して、実質現地採用というかたちで採用搾取するパターンが出て来ている。フィフィさんが、日本をまず知れと言われるのは正しい。日本の問題を知らねば、海外でその役に立つ事はあり得ないし、外国は日本人がその国内について理解している事を望んでいるからだ。日本を知らぬ日本人では国際化は駄目である。
終わりにフィフィさんは、こう日本人に呼びかけている。「外国人に『頑張って』は必要ありません。日本人が声を上げてください。」(本書、P.240)日本人は、自分で声をあげず、自分たちの社会問題でも他人にやらせるのか?自分たちの政治運動も他人任せでいいのか?では原発反対で逮捕された無名の学生達はどうなるのか?自分たちの適切な手段、媒体を通じて批判を行い伝播し、政治運動に匿名的な大衆の一部として積極参加していくべきである。
本書は全日本国民必読の書です。
アマゾン次郎 (綾瀬)
レビュー対象商品: おかしいことを「おかしい」と言えない日本という社会へ (単行本)
フィフィさんが、テレビで韓流批判・在日朝鮮人批判をぶったところ、即時にテレビ界から事実上の追放。ここまでは知る人ぞ知るのレベル。
ネットでも特定の勢力に無茶苦茶にたたかれていたが、ついにこの本が出た。よっしゃあ〜,買って読むぞお〜。
★ タレントや宣伝会社などをやっている在日からの圧力があったのは当然。よく出したなと思える本。
この本のいいところは、在日韓国人朝鮮人の反日本的な恐るべき存在、それだけを攻撃するのではなく、メディアの日本人への洗脳、一方的な情報操作、
はっきりと発言する人間を排斥するメディア(テレビおよび新聞などすべて)をターゲットにして、持論を展開していること。
わかりやすく、ストレート。
★ フィフィさんの生まれ育ちについてのエピソードがあちこちに書かれており、それはそれでいいのだが、我々読者は彼女が日本で生まれ育ったからという理由でこの本を買うのではない。
正論だから。
すぐ読めるのでいいと思う。がんばれ。
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