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「日本に繁茂する樹種の中から、スサノウノミコトは、「舟は杉と樟(楠)で、宮殿は檜で、棺は槙で作れ、と教えた。
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古代日本人は、このスサノウノミコトの教えを忠実に守ったようである。遺跡や古墳などからの出土品や現存する寺社の建物が、それを証明している。
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近畿地方の古墳から出土した木棺はほとんど例外なく高野槙で作られている。また日本ばかりでなく、朝鮮扶余の陵山里にある歴代百済王の古墳にある棺もすべて高野槙で作られていた(尾中文彦「木材保存」第4巻、第7号)。
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高野槙は世界で一属一種、日本にしか産しない樹種であるので、古代朝鮮のこれらの棺材は当然、日本から運ばれたであろう。朝鮮にも種々の木材があったにもかかわらず、あえて日本から運んだということは、日本の高野槙が、棺材として比類なき優れたものであったことの証左である。」
(志村忠夫著『古代日本の超技術』)
沖縄、九州から拡大した倭人は四国を経由して近畿に入り、一部は北に海を渡って朝鮮に入った。
浜名寛祐の「神頌契丹古伝―日韓正宗溯源」にも金、昔、朴は九州から渡ったとあるし、倭の五王の上奏文、好太王碑文、日本書紀、三国史記を見ても古代朝鮮が、倭人と共通の文化圏を形成していたことは明らかだろう。
九州の加唐島で生まれたので、「島君」と名付けられた百済の武寧王は日本語で斯麻王(しまおう)と呼ばれた。
日韓の対立を煽る人間がいるが、朝鮮人も元を辿れば九州から渡った「渡来人」だということに早く気づいて真の日韓友好関係を築いて欲しいと思う。
<参考リンク>
■武寧王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B
各種表記
ハングル: 무령왕/무녕왕
漢字: 武寧王
発音: ムリョンワン/ムニョンワン
日本語読み: ぶねいおう
ローマ字: Muryeong-wang/Munyeong-wang
武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
■斯麻王(百済武寧王)考
http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/149.html
筑紫の島(九州の加唐島生まれ)だが、生まれてすぐ百済に送り返されたのになぜか斯麻王(しまは日本語)と呼ばれ、お墓が日本製の不思議な王。
大元は日本書紀の記述であり、三国史記には無いため伝説・でっち上げと呼ばれていましたが、墓の調査によって完全に事実である事が判明しました。しかもその墓が、日本づくしなのです。これは日本で産まれただけでは説明がつかないのです。(日本書紀の記述では、日本には生後1年と居なかったとしか読めません。) しかも、百済は日本の属国だからで片付けられる問題でも無いのです。完全に乗っ取られていたとしか思えません。
なお日本書紀の記述は百済王家が逃げ出した時に運び込んだか百済滅亡後に日本で作成したと思われる、『百済新撰』からの丸写しです。従って、日本書紀で編纂された記録ではなく、まるっきり百済の記録なのです。そうなると、百済はこんな話を作らなければならなかったのかと言う事になります。
■日韓正宗溯源 浜名寛祐 p428 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706
「但、南原の箔・菌・籍。凶狼にして格らず、神祖伐って之を海に放つ。
疏に曰く、箔・菌・籍は三邦の名にして鳥人クマソの族なり。
後海を歴て難渡を踏み。ウトに拠り、巨鐘を猾し、ついに辰番に入るものは。
その遺児と云ふ。」
■倭の五王の上表文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%A8%E6%96%87
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)
倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた雄略朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されている。(→古墳時代)
■朝鮮の「三国史記」は「日本書紀」を丸パクリ!? 韓国の歴史偽造は建国神話に遡るのか?
http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/601.html
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