http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/238.html
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専門家の情報発信を妨害し続けた国籍不明の反原発派。
過疎地帯で、放射線デマをばらまけば、若い人たちは二度と帰らない。
福島民報から
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/03/post_6621.html
福島市の福島医大。4月から長崎大に復職する副学長山下俊一(60)の自室には放射線に関する専門書が並ぶ。山下が長崎市から空路で福島空港に降り立ったのは、東京電力福島第一原発事故から1週間後の平成23年3月18日。以来、福島医大を拠点に放射線と健康に関する情報発信の最前線に立ってきた。
「自分の知識を全て出した」。着任後、約2カ月間でこなした講演や対話は約30回に上った。1万人以上の県民と直接向き合い、放射線の健康リスクを伝えた。
だが、ある時期を境に山下に対する風当たりが強まった。安全側に立ち過ぎている−。「御用学者」とのそしりも受けた。「放射線に対する世論がぼろぼろだった。国への不信感が全て自分に向いてしまった」と激動の2年間を振り返った。
「3・11」当時、山下は長崎大大学院医歯薬学総合研究科長の職にあった。研究科は、長崎原爆の爆心地から南東に約500メートルほど離れた長崎市内にある。昭和37年に設立された原爆後障害医療研究施設を中心に、原爆による白血病やがんなどの後障害治療、放射線が人体に与える影響などを調査・研究してきた。
山下自身、長崎原爆の被爆二世だ。長崎大医学部を卒業し、昭和61年に起きたチェルノブイリ原発事故の健康影響評価に20年以上携わってきた。世界保健機関(WHO)ジュネーブ本部で放射線プログラム専門科学官を務めるなど放射線医療の第一人者だった。
原発事故直後、文部科学省の要請で長崎大から緊急被ばく医療チームの5人が本県に派遣された。山下と研究をともにしてきた「精鋭部隊」だった。千葉市の放射線医学総合研究所を経由し、14日に自衛隊のヘリコプターで本県に入った。15日から福島医大に拠点を構えた。
山下が医療チームから報告を受けた福島医大の空間放射線量はピーク時で毎時10マイクロシーベルト前後だった。ただ、外部被ばく線量は建物による遮蔽(しゃへい)効果などで空間線量よりも低い。実際に医療チームが付けた個人被ばく線量計の値は1日当たり10マイクロシーベルトあったが、多く見積もった計算でも、発がんリスクが高まる100ミリシーベルトにすぐに達するような状況ではなかった。「100ミリシーベルト」は長年にわたる長崎、広島の被爆者の健康調査で導き出された数字だ。「慌てるようなレベルではない」。山下は冷静に受け止めていた。
「福島医大が浮き足立っている。情報が交錯し、大変な状況です」
3月15日、山下の元に電話が入った。長崎大の医師で緊急被ばく医療チームリーダーの大津留晶(55)=現福島医大教授=だった。
当時、福島医大は震災の傷病者の受け入れに加え、東京電力福島第一原発で相次ぐ原子炉建屋の水素爆発で混乱を極めていた。応急処置を施す県内6つの初期被ばく医療機関のうち、震災と原発事故の影響で機能していたのは2病院だけだった。福島第一原発の作業員を含め、被ばく患者のほとんどは二次被ばく医療機関の福島医大に運ばれた。不眠不休で治療を続けるスタッフの精神状態は極限に達していた。
この日、原発からの屋内退避が30キロ圏に拡大された。病院内では避難区域がさらに広がる最悪のシナリオを想定した対応も協議されていた。
「緊張の糸が切れ、医療崩壊が一気に起こる可能性があった」。長崎大の医療チームは放射線リスクに関する情報発信が必要として山下に助けを求めた。
だが、山下はすぐに福島に向かうつもりはなかった。
◇ ◇
東京電力福島第一原発事故当時、放射線が健康にどのような影響を与えるかについての情報が少なく、県民は不安に駆られた。放射線リスクをめぐる専門家や政府の対応、甲状腺検査や内部被ばく検査、リスクコミュニケーションの現状などを追う。
(文中敬称略)
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