http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/174.html
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「ユダヤ教では、割礼はブリット (ברית/Brit) と呼ばれヘブライ語で「契約」を意味する語である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者(=ユダヤ人[1])は、割礼を行わなくてはならない。これはブリット・ミラーと呼ばれ、モーヘールと呼ばれる専門家が行う。
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『創世記』17:9-14には、アブラハムと神の永遠の契約として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている。(ヘブライ語のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもあるという)。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。
また創世記34章には、ヒビ人ハモルの息子シケムに妹ディナを陵辱されたヤコブの子らが、ディナに求婚してきたシケムに対して計略をしかけ、割礼を受けた者でなければ娘を嫁にやれないと答え、それに応じてシケムの町の人々が揃って割礼を受けた3日後に痛みに苦しんでいるところをヤコブの子シメオンとレビが襲って町中の男性を皆殺しにした記事がある。」(WIKIPEDIA)
ところが、ヘロドトスが「歴史」で記述するように、割礼はもともとエジプト人の伝統だった。
それどころか「イスラム教(イスラーム)においては、コーランには言及がないものの、ハディースにこれに関する記載があり、慣行(スンナ)として定着[2]している。生後間もなくか少年のうちに割礼が行われる。時期は生後7日目に行う場合から、10-12歳頃までの場合など幅がある。割礼後、祝宴が開かれ、盛装した男児が親族や近隣住民から祝福される。」(同)
中東を流浪してエジプトに辿り着いたユダヤ人が、圧政に耐えかね、神官オサルシフ(モーゼ)に連れられてエジプトを出て行く。そして異教徒を殺戮し、カナンを支配する。繁栄も虚しく、バビロン捕囚、ローマ帝国による攻撃等苦難の中で国を失う・・・
割礼はユダヤ人のシンボルだが、実は、中東の風習だったわけだ。
共産主義にかぶれた歴史家鹿島昇も、指摘するようにユダヤ人の過越の祭はベドウィンの風習に由来する。「マックス・ウェーバーによれば、ベドウィンの戦士は諸々の悪魔から保護されるために、門に血を塗り、血を食べることを禁止するという。」(鹿島昇)
ユダヤ人は元来、「金の仔牛」=「バアル」を信仰していた。(参考リンク参照)
こう考えると、ユダヤ人とイスラム教を信奉するアラブ人は元来同じ民族であり、血を分けた兄弟だといえる。
しかし、タルムードで選民思想に毒されたユダヤ人は、兄弟であるパレスチナ人の「ホロコースト」を図るのである。
「兄カインは土を耕し、弟アベルは羊飼いとなった。兄弟が神に捧げ物をしたとき、兄カインは、神の眼差しが自分にはなく弟のほうに注がれているのに腹を立てていた。或る時、二人は親にご機嫌を取るために色々な貢物を持ってきたが、どちらの受けが良いかで兄弟げんかが起った。兄カインは弟アベルに嫉妬し殺してしまった。全て見通しの神は、兄カインに、『お前は呪われる者となった。お前は地上をさまよい、さすらう者となる』と言い渡した」。
日本人は、遠く、ギリシャやバビロニアから移住したが、偏狭や一神教と八百万の神を比べてみると同祖ではないようだ。
むしろ、ユダヤ人はアラブ人と兄弟で、聖書通り、今も兄弟殺しを続けているのだろう。
<参考リンク>
◆神社の赤い鳥居 SOLOMON'S U
http://www17.ocn.ne.jp/~solomon/
モーゼはイスラエル民族を率いてエジプトから脱出しようとするが、エジプト王は許さない。絶望するモーゼに神の言葉が降る。
「この月の10日に小羊を捕り14日に屠って流れ出る血を戸口に塗れ。目印にあるようにべったりと。そうして家に閉じこもっているように。その晩私の使いがエジプト中を風のように過ぎ越して、目印のない家に生まれた男の初子たちをすべて殺していく。そしてお前たちはエジプトを旅立つことになる」
その夜、神の教えに従ったイスラエル人の家には何事もなかったが、目印がないエジプト人の家では男の初子は皆死んでしまった。このことに怯えたエジプト王は夜を待たずにイスラエル人の出発を許した。イスラエル人はそれを記念して未来永劫に過ぎ越し(Passover)を祭ることを誓ったという。
『旧約聖書』の特徴は、一つの説話を繰り返し登場させることであるが、「ヨシュア記」にも同じような説話がある。
「その後、苦難の末にカナンの地へ着いたユダヤ人は難攻不落のエリコの城を攻撃した。斥候となった二人の男は城内に入り遊女の家に客を装って泊まった。この時エリコの捜索隊から二人を匿った遊女に対して、斥候は彼女とその家族を助けると約束し、目印として紅の綱を長く垂らし干し麻の茎を積んだ部屋に隠れているように言った。その通りにした遊女の一族を除いて、イスラエルの軍隊はエリコの住民をことごとく殺してしまった。」
この説話は、過ぎ越の祭りと同じく目印があるものを助けるというモチーフになっている。
マックス・ウェーバーによれば、ベドウィンの戦士は諸々の悪魔から保護されるために、門に血を塗り、血を食べることを禁止するという。
朝鮮と契丹の例は最もベドウィンの風俗に近く、日本の蘇民将来説話はユダヤ人の祭りに似ている。
セム族はアラビアから出発してオリエント各地に分散し、アモリ人、アラム人、アッシリア人、フェニキア人、カルデア人などに別れた。アモリ人はフッリ人とともにシリアのウガリット港をつくったが、ヒッタイト人やクレタ人と同じく「牛に乗った天候神」をもっていた。彼らはその天候神をダゴンと呼び、その息子の牛頭神をバアルと呼んだ。
のちにユダヤ人はバアル神を敵視して自らヤーウェ神と契約したと考えたが、実は予言者モーゼはバアルの神官であって、ヤーウェ神はダゴンとバアルを合成したものであった。
◆ソロモン72
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2454.html
ヤハウェのライバル神であるバアルは、ウガリット神話が記された粘土版(通常・ベルの書)に出てくる神で、この神話の中では英雄神バアルの戦いと死、そして再生が描れている。
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バアルは別名「ベル」「ベール」とも呼ばれますが正式名を「ハダト」といい、カナンの神で中東で広く崇められていたという。
古代イスラエルのソロモン王も玉座に金の仔牛を刻むほどにバアル信仰に傾倒していたと言われ、また、その200年後の南北分裂後の南ユダ王国のマナセ王(マナセ族の祖)もバアル神を熱烈に信仰していたという。これ故、マナセ族末裔とアミジャブ認定された羌(チャン)族もバアルを崇めていたに違いなく、羌族末裔の徐福もまたバアル(蚩尤)信仰をしていたと思われる。
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一方、北イスラエル王国は「金の子牛像」(アモン=古代エジプトの神)を崇めていたといいますが、これは牛神であるバアルのことでもある。以上のことから、イスラエルは古代、北王国、南王国を通じてその殆どがバアル信仰だったと思われる。つまり、本当のイスラエルの宗教の主神はバアルだったのかもしれないのです。
◆バール 隠された神
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/7639704.html
◆ついに姿を現すか 聖書の神 そして悪魔 大イスラエルが復活する 歴史の終わり
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10668637.html
◆カインとアベル兄弟物語その1、兄が弟を殺す
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/yudayashinwaco/soseikico.htm
◆<ユダヤ人捏造の歴史>ユダヤ人の割礼の伝統はエジプト人から盗み、神話はバビロニア人から拝借した!?
http://www.asyura2.com/13/cult11/msg/130.html
◆<日本人の起源>アッカド王サルゴンと契丹建国神話と八坂神社
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/189.html
◆扶余は南風(ハヤ・ふぇー)。ギリシャから来た日本人
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/766.html
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