http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/167.html
Tweet |
「避難の目安の年間20ミリシーベルトより、はるかに低いが、除染の長期目標の1ミリシーベルトは上回る。「除染したからといって、戻っていいのか」。避難の目安と除染の長期目標とのはざまで美成子は思い悩んでいた。」
1msv=野菜嫌い、運動不足の数百分の一のリスク。
避難なんてお笑いでしかない。
福島民報から
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/09/post_8144.html
東京電力福島第一原発事故で、伊達市霊山町小国地区の自宅から同市梁川町のマンションに避難する主婦菅野美成子(41)の元に8月末、市から封書が届いた。夫(44)と5〜10歳の子ども3人、夫の母(70)を合わせた6人の外部被ばく線量測定結果の通知だ。
3カ月に1度、定期的に送られてくる。今回は今年4〜6月の積算線量結果が記されていた。小学4年の長男(10)、1年の長女(6つ)、幼稚園年長の次男(5つ)の測定欄にはいずれも「X」が並んだ。被ばく線量が小さく、バッジ式積算線量計の検出下限値未満を意味する。6月までの1年間の累積欄は3人とも0.0ミリシーベルト。「今回もゼロで良かった」。美成子から安堵(あんど)の声が思わず漏れた。
一方、同じ紙に並ぶ夫の母の3カ月間の積算線量は0.5ミリシーベルト。6月までの1年間の累積欄は2.9ミリシーベルトと、国が除染の長期目標としている1ミリシーベルトを超えていた。夫の母は、原発事故当時、家族6人で過ごしていた小国地区に今もとどまっている。
■ ■
梁川町のマンションから13キロ離れた小国地区の自宅は原発事故から3カ月半後の平成23年6月末、「特定避難勧奨地点」に指定された。福島第一原発から放出された放射性物質は北西への風で広がり、原発から約55キロ離れた自宅にも降り注いだ。局地的に空間放射線量が高い「ホットスポット」になっていた。
原発事故後、自宅の玄関前の空間放射線量は毎時3.0〜3.2マイクロシーベルトあった。年間積算線量は避難の目安となる20ミリシーベルトに達すると推定された。放射性物質がたまりやすい雨どいに線量計を向けると毎時70マイクロシーベルトを指した。「なぜこんなに高いのか」。美成子は目を疑った。
指定直後に夫と、子ども3人と共に梁川町の実家に避難した。同年11月に現在の借り上げマンションに移った。もっと原発から遠い場所に避難したかったが、当時小学2年だった長男が拒んだ。「友達と離れたくない」。その言葉が重くのしかかった。夫の母に一緒に避難するよう誘ったが、「住み慣れた家がいい」と首を縦に振らなかった。
■ ■
伊達市で本格的な除染が始まったのは23年10月下旬だった。市は霊山町などの特定避難勧奨地点から優先的に取り掛かった。しかし、勧奨地点だけでも約130世帯あった。美成子の自宅に順番が回ってきたのは24年9月。原発事故から1年半が過ぎようとしていた。
放射線量が高い庭先の砂利を入れ替え、雨どいなどは布で拭き取られた。1週間の除染作業で、庭先(高さ1メートル)の線量は毎時1.29マイクロシーベルトから3分の1の同0.43マイクロシーベルトに下がった。国が避難の目安としている年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)は大幅に下回った。ただ、除染後に市が測定した家屋周辺23地点の全てで国が除染の長期目標としている年間1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベルト)は達成できなかった。最大で毎時1.38マイクロシーベルトの地点が残った。
夫の母のバッジ式積算線量計の値は、除染前の24年7月から9月の3カ月間で1.3ミリシーベルトあった。除染後の10月から12月は0.6ミリシーベルトと半分以下になった。避難の目安の年間20ミリシーベルトより、はるかに低いが、除染の長期目標の1ミリシーベルトは上回る。「除染したからといって、戻っていいのか」。避難の目安と除染の長期目標とのはざまで美成子は思い悩んでいた。
◇ ◇
東京電力福島第一原発事故から2年半が過ぎ、県内で住宅除染が本格化している。住民と行政はどう向き合い、どのように進めようとしているのか−。再除染を求める動きや遅々として進まない避難区域の除染、森林除染の必要性など岐路に立つ除染の現状を追う。(文中敬称略)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。