http://www.asyura2.com/13/cult11/msg/522.html
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宗教改革者のルターは、偽ユダヤのタルムード思想を持つバビロン海賊団に対して、晩年に彼らの鬼畜振りに気付き、彼らについて
・シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
・更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
・宗教書を取り上げるべし
などと提言している。500年前のドイツにおいての文書を下記のリンクから拝借してその抜粋を学びたい。(全15回)
http://rekishijyoho.seesaa.net/article/28343339.html
ルター「ユダヤ人と彼らの嘘について」(7)
●悪魔にとり憑かれた者ども
ユダヤ人たちは、自分たちが神の戒律を守るという目的のために神からすべてのものを与えられているのであって、それゆえにこそ自分たちが神の民、教会の民と呼ばれているのだということを理解しようとも、聞こうともしない。
彼らの血筋と高貴さについても、神の戒律を守らせるためにこそ神は彼らを選んだというのに、彼らはそのことをわかろうとせず、考えようともしないで、ただひたすら自分を自慢するだけなのである。
彼らは割礼を自慢する。だが、割礼を受ける目的(神の戒律を守ること)は彼らになんの意味もないのである。彼らは自分たちの法律・会堂・宗教儀式・町・田舎・国家を自慢する。しかし彼らは、戒律を守るという目的のためにこそ、自分たちがそれらを所有させてもらっているのだということをすっかり忘れているのだ。
悪魔は、かかる民族にこそ、その全天使たちと共に取り憑きつづけているのである。彼らは、目に見えるもの・自分たちの才能・業績・行為などを常に自慢する。しかし、そうしたことは中身のない空虚な「空念仏」を神に捧げるのと同じことである。
神は、そうしたものを捧げる民族である彼らを神の民とし、すべての異教徒に優先して彼らを称賛し、祝福する。ゆえに彼らは神の戒律を守らねばならないし、自分たちの神として神を守らねばならない。ところが、それを引き受けようとはしないのだ。
モーセの次の言葉が当てはまる。
〈彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は、彼らを私の民とは見なさない〉
これはホセア書(第一章九節)にも言われていることであるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、ユダヤ人は神の選ばれた民ではないと彼らを説得することなど、誰にもできなかったであろう。なぜなら、邪悪さ・不服従・強情さにもかかわらず、彼らはいまだに会堂・町・田舎を保持していたであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫び、たくさんのモーセが立って「汝らは不服従であり、反抗的であるがゆえに神の民ではない」と主張したとしても。
離散させられ、千五百年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自分たちが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような高慢きわまりない考えを諦めきれないでいる!
彼らは依然として自分たちの利益のために故郷の地に戻ることを望んでいる。しかし、彼らが自分たちの勝手な想像によって聖書のなかに塗りこめておいた言葉以外には、せめてもの慰めとして頼れる約束はまったくないのだ……。
かくして、ユダヤ人はわがままを言いつづけ、また意図的に過ちを犯そうとしており、ラビたちを見限ろうとしない。それゆえにわれわれもまた、彼らが有害な冒を犯し、嘘をつくのであれば、彼らをそのまま捨ておき、無視しなければならない。
●聖書に関する偽り
私はまた以下のような経験をもつ……。
われわれがヴィッテンベルクでヘブライ語を読みはじめたことを知って、三人のユダヤ人の学者が新しいユダヤ人に会えるものと期待して私のところにやって来た。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書物を読みはじめたからには、事態はすぐに改善されるだろうと錯覚していたようだ。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るよう彼らに迫ると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならないと言った。私は彼らを不憫に思って、安心してたどって行くことができるキリストのための案内書を推薦した。しかし後で私は、彼らがキリストのことを「磔にあった犯罪者」と呼んでいると知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人ともいっさい関わりをもつ気にならなくなった。
聖パウロは、彼らは天罰にさらされていると言っている。あなたがたが彼らを助けようとすればするほど、彼らはより邪悪になり、頑固になっていくのである。彼らを彼らだけにして放っておこう。
(このあと、聖書からの多くの立証が続く。それらは神学上の細かく厳正な、それゆえ一般には理解が困難な引用である。文章は力強く、ルターのドイツ魂をよく表わし、きわめて先駆的なかたちで核心を突いた発言をしているといえる。その分量の多さゆえに、ここには採録できない。珠玉のようで感動的な聖書の章句の引用のなかから、ここには以下の文のみを引用する)
〈まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる〉(「ハガイ書」第二章六〜七節)
「すべての国々」は「異教徒」に等しい。古代の人びとは「すべての国々の宝物」を「救世主」と見なしたのである。
ユダヤ人は、その神殿がまだ立っていた時代に救世主がやって来たことを否定し、神殿崩壊後千五百六十八年も待ちつづけているのに、救世主は依然としてこれからやって来るだろうと主張する。しかしもはやそれは、こんなに長い時間が経ってもいまだにその時期がわからない以上、「しばらくして」などとは呼べないだろう。
●彼らの救世主は金と銀
彼らの救世主は決して来ることはないだろう。「しばらくして」来るはずであったのに大変に長い期間になってしまっているが、これは決してなにも起こらないということなのである。預言は「しばらくして」と言っており、「長い期間」とは言っていない!
しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「しばらくして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、「救世主」ではなく異教徒のすべての金銀を示していると言うのだ。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。するとこの文章は、いまや次のように読むことができるのである。
〈しばらくして、すべての異教徒たちの欲望が姿をあらわすであろう〉
いったいこれはなんだろう。異教徒たちはなにを望むのか、金、銀、そして宝石か。
あなたがたは、ユダヤ人がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのか聞きたくなるかもしれない。次のように私は言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽のもとに存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人ほど貪欲な者はかつてなく、現在もなく、そしていつの世においても存在しない」からだと。彼らはまた次のようにして満足する。
〈救世主がやって来るとき、その方は世界中のすべての金と銀をお持ちになり、それをユダヤ人のあいだに分配するであろう〉
あなたがたは、神と神の預言は、ユダヤ人のはかり知れぬ貪欲が異教徒の金銀によってどのように充たされるかということ以外になにもなかったと思うであろう。
子どもの頃から、彼らは、両親とラビから、「ゴイム」(異教徒)に対するこのような有害な憎悪の言葉をむさぼるように吸収し、今も休みなく吸収し、「詩篇」(百九章)によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄のなかにまで浸透しつづけてきており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、肉体と血液、骨と骨髄を変えることがほとんどできないのと同様に、彼らはその高慢さと妬みとを変えることができないのである。神が特別の奇跡を起こさぬかぎり、彼らはそうした状態のまま破滅していくしかないのだ。
*訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節)
彼はまたのろうことを愛したので、
それが自分に返って来ました。
祝福することを喜ばなかったので、
それは彼から遠く離れました。
彼はおのれの衣のように
のろいを身にまといました。
それは水のように彼の内蔵へ、
油のように、その骨々にしみ込みました。
それが彼の着る着物となり、
いつも、締めている帯となりますように。
このことが、私をなじる者や
私のたましいについて悪口を言う者への、
主からの刑罰でありますように。(続く)
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