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偽ユダヤのタルムード思想を持つバビロン海賊団の考え方を理解するための基礎資料として投稿します
http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/shion/shion14.htm
から転載
全部で24まであります。
シオン議定書(15)
世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的に我々(ユダヤ人たち)が王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落したことが明らかになった時(これが実際に起こるには、少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、(議定書が書かれたのが、1880年代のようであるから、1980年代以降のことを予言していることを理解すること・・・)我々(ユダヤ人たち)に対する陰謀の類いは、絶対に存在を許さぬように監視する仕事が有るのである。この為には 我々(ユダヤ人たち)の王国到来に反対し、いやしくも武器をとる者(非ユダヤ人=畜生たち)は、一人たりとも容赦なく殺戮するのである。(2005年の現在、実施中ということになる) 秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処するのである。我々(ユダヤ人たち)が認めておる現存秘密結社は、役立つものも役立ったことのあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放するのである。あまりにも事情をよく知り過ぎた畜生(非ユダヤ人)共のフリーメーソン員にも同断の処置を執るのである。なんらかの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておくのである。我々(ユダヤ人たち)の支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布するのである。
この決定は、変更できず、これに対する控訴は許さない。
畜生(非ユダヤ人)共の社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには、権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはないのである。(非ユダヤ人=畜生たち)苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福の為に苦しみを引き受けさせるのである。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、如何なる政府でも(非ユダヤ人=畜生たち)自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行せねばならぬ義務なのである。支配を揺ぎぬものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮しておることが要諦なのである。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れねば、帝政ロシアが我々(ユダヤ人たち)の唯一の強敵であったのである。記憶に留めていただきたいのは、イタリアなのである。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのである。彼は、人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、(非ユダヤ人=畜生たち)人民の目には、神と崇められたのである。人民は、大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れぬものなのである。(フリ−メ−ソンを含めて、指針の説明をしている・・・)
しかしながら、我々(ユダヤ人たち)の王国を実現するまでの期間は、我々(ユダヤ人たち)と正反対のことを行うのである。フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れるのである。それというのも、それら支部は、重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからなのである。フリーメーソンの全支部は、我々(ユダヤ人たち)だけが承知していて他には、絶対に誰も知らぬ中央管理機構の下に置くのである。その機構を構成するのは、我々(ユダヤ人たち)の学織ある長老たちなのである。支部には、代表者がおるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、上記のフリーメーソンの真の管理機構を覆い隠す為に置かれるものであり、標語や計画は、蔭の管理機構から発せられるのである。これらの支部に、革命的分子や自由主義的分子をすべて集めてしっかり結び合わせるのである。この中には(非ユダヤ人=畜生たち)社会の全階層が含まれるのである。極秘の政治計画なるものも我々(ユダヤ人たち)は、熟知しておるし、計画が立てられたその日のうちに我々(ユダヤ人たち)の指導部の手に入手されるのである。国際警察や各国警察の代理人は、ほとんどこれら支部に参加しておるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、我々(ユダヤ人生たち)の活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、我々(ユダヤ人たち)にとっては、掛け替えの無い存在なのである。
(非ユダヤ人=畜生たち)が秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を御して我々(ユダヤ人たち)が仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではないのである。その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、あまりにも強固になった団結を破るべく我々(ユダヤ人たち)が少々(非ユダヤ人=畜生たち)を撹乱せねばならなかった場合なのである。であるが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいぬという我々(ユダヤ人たち)の下僕が先頭に立っておるのである。我々(ユダヤ人たち)だけがフリーメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせぬのは、極めて当然のことなのである。畜生(非ユダヤ人)共に至っては、無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は、何であるかを知っておるのは、我々(ユダヤ人たち)だけだからでる。畜生(非ユダヤ人)共は 通常、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。しかも、その自説たるや、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に吹き込んだものであって、本当に(非ユダヤ人=畜生たち)自分が考え出したものではないことに気が付きもしない。
畜生(非ユダヤ人)共は、物好きからか、あるいは、大きなパイを一口で食らおうとしてフリーメーソンに入ってくるのである。中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させる為に、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もおる。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、成功と拍手喝采に飢えておるが、その成功や拍手喝采こそは、我々(ユダヤ人たち)が気前よく振る舞ってやつておるのである。我々(ユダヤ人たち)がそういう大盤振舞いをするのは、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が持っておる鼻持ちならぬ自惚れを利用するためなのである。その自惚れというのは、何が原因かというと、自身が口に出しておる思想は、絶対的に自分のものてあり、借り物などということはありえぬと自信満々で、我々(ユダヤ人たち)が示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する。・・・諸氏の想像を越えることであるが、畜生(非ユダヤ人)共の最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いとも容易いことなのである。同時に、拍手が止まったに違ぎぬといった些細な不成功であってもやつらは、簡単に落ち込みもするし、次の機会には、成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる。・・・際立って我々(ユダヤ人たち)の計画を実行さえできれば、成功不成功を問わぬのに、際立って畜生(非ユダヤ人)共は、成功さえすれば計画はどうなっても構わない。このようなやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の心理のおかげで、我々(ユダヤ人たち)は、大いにやすやすと思うがままにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を操れるのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、見た目には虎であるが中味は、羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのである。我々(ユダヤ人たち)は やつら(非ユダヤ人=畜生たち)に「集産主義」という一種の思想の玩具をあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやったのである。
やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、このおもちゃが最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものであることを、一度も考えたことがなかったし、これから先も考えようともせぬであるろう。天地創造の初めから、自然は 明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのであるからである。
こんなにも我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を明きめくらにさせることができるというのは、畜生(非ユダヤ人)共の頭が我々(ユダヤ人たち)と比較してお粗末である証拠、それも明々白々の証拠ではあろうか。我々(ユダヤ人たち)の成果が約束されておるのは、主にこのためなのである。
それにつけても、なんと我々(ユダヤ人たち)の古代の賢者長老たちには、先見の明があったことか、おどろくのである。長老がたは、言われた。大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と・・・・我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共という家畜の群にいかほど犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。さりながら、わが(ユダヤ人たち)民の犠牲も数多くに上ったが、今日、我々(ユダヤ人たち)は、この地上で夢見ることのできなかったような位置を獲得したのである。我々(ユダヤ人たち)全体の数から言えば、我々(ユダヤ人たち)の犠牲者の数は、比較的少ないが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)のおかげで民族の破滅は、免れたのである。
何人も避けられぬ終局は、死なのである。どうせ避けられぬものならば、新秩序の建設者である我々(ユダヤ人たち)よりも、建設の邪魔をする(非ユダヤ人=畜生たち)人間に早く回してやった方がよろしいのである。我々(ユダヤ人たち)は、同胞のほかには誰も気付かぬように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らぬように巧みにフリーメーソンを処刑するのである。必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである。・・・そのことが解っていても、(ユダヤ人たち)同胞は、あえて抗議はしない。かような方法を用いて、我々(ユダヤ人たち)は、フリーメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのである。我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共には自由主義を説くが、同時に一方では、わが民(ユダヤ人たち)や我々(非ユダヤ人=畜生たち)の代理人たちにはひたすら恭順に服させるのである。
我々(ユダヤ人たち)の力が及ぶところでは、畜生(非ユダヤ人)共の法律は、最小限度にしか適用せぬようにしてきたのである。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだ自由主義的な解釈を駆使して存分に失墜させてきたのである。最重要かつ根本的な事項や問題は、我々(ユダヤ人たち)の口をはさんだとおりに裁判官が決定し、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の政府機関に示したことに従って事を裁定するのである。もちろん、我々(ユダヤ人たち)が直接やつらと接触するのではなく、我々(ユダヤ人たち)の道具である人士・・新聞その他の意見として・・であるが……上院議員や内閣の中にも我々(ユダヤ人たち)の助言を一も二もなく聞く者がおるのである。畜生(非ユダヤ人)共の空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、ましてや事態がどういう結果になるかを予測する能力はさらさらいらぬのであるからである。
畜生(非ユダヤ人)共と我々(ユダヤ人たち)の間のこの能力の差違こそが、畜生(非ユダヤ人)共の空っぽ頭と対比して、我々(ユダヤ人たち)が神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められておるゆえんが明白に証明されるのである。畜生(非ユダヤ人)共の目は開いていても何も見ていぬし、何も創造せぬ(恐らく物質的なもの以外は)のである。このことをもってしても、自然は、我々(ユダヤ人たち)が世界を導き支配するように創造したことが明白なのである。
我々(ユダヤ人たち)が公然と世界に乗り出し恩恵を施す折には、我々(ユダヤ人たち)の法律は、すべて、いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何人にも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるであろう。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなるのである。こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の濫用は、行われなくなるのである。次席以下の権力濫用は、一人の例外もなくとうてい再犯ができぬほど容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。我々(ユダヤ人たち)は、国家機構の円滑な運営をはかる為に、官憲に対しても事細かに点検ずるであろう。(非ユダヤ人=畜生たち)一部分の腐敗は、あらゆる所での腐敗を惹起するのである。(非ユダヤ人=畜生たち)一片の不法行為、一片の権力濫用といえども処罰の見せしめをさせはしない。
犯罪の隠蔽、行政の怠慢・・この種の悪事は、すべて最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影をひそめるであろう。我々(ユダヤ人たち)の政権の後光は、適切な罰則、すなはち、至高の威信に対しての侵害は 軽微なものであっても、とりわけ私利と結びついた場合は、厳罰を課ロすることでなければならない。厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、如何なる人間であろうとも許されない。例えば、裁判官たちは、寛容なところを見せたくなるが、それは、法の正義を破ることになるということを弁えねばならない。法は、逸脱堕落に罰を課して見せしめにする為に作られたのであって、裁判官の徳性を引けびらかすためのものではない。・・・そんなに徳性を引けらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではないのである。
我々(ユダヤ人たち)の法曹人は、五十五歳に達すれば現職を退くのである。第一の理由は、老人は、年をとるほど先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなる。そして、第二には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つこと、それによって我々(ユダヤ人たち)の強制力が更に容易に働くようになるからなのである。自分の椅子に留まりたい者は 留まるに値するように盲目的に服従せねばならぬであるろう。概して言えは、我々(ユダヤ人たち)は、次のような人々の中からのみ裁判官を選ぶのである。すなはち、自分の役割は、法を執行し違反する者を処罰することであって、当今の畜生(非ユダヤ人)共が空想するように、国家の教化的な仕組を犠牲にして自由主義の夢のまにまにさまようことではないということを完全に理解しておる人間からである。・・・この人事刷新の方法は 同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっておる政府の全問題にやつらの関心を結び付けるのである。若い世代の裁判官には、人民の間に確立した我々(ユダヤ人たち)の秩序を乱す畏れのあることは、如何なるものでも見逃さぬように訓練する必要が有るのである。
当今畜生(非ユダヤ人)共の裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しておるので、犯罪といえば情状酌量するのである。今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まぬから、こういうことになるのである。野獣が餌を探しに子どもに出してやる時のようなもので、畜生(非ユダヤ人)共は、職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまうのである。それでやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでおるのである。
やつら(非ユダヤ人=畜生たち)がやっておることの結果を我々(ユダヤ人たち)の政府の教訓としようではないか。
我々(ユダヤ人たち)の国家体制の為には、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、自由主義を一掃するのである。かかる位置には専ら行政支配の為に我々(ユダヤ人たち)が訓練してきた人間のみを据えるのである。古い官吏を解雇したら財務省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対しては、こうお答えしよう。第一に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやるのである。第二に、世界中の金は、我々(ユダヤ人たち)の手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのである。
我々(ユダヤ人たち)の絶対主義は、万事にわたって論理が貫徹しておるので、どの判決一つをとってみても、我々(ユダヤ人たち)の最高意志は、尊重され一点の疑念もなく遂行されるのである。あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には 制裁を加えて見せしめにするのである。
我々(ユダヤ人たち)は、控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄するのである。そういうことは、専ら我々(ユダヤ人たち)の一存・・支配する者の判断に預けられるのである。我々(ユダヤ人たち)が任命した裁判官が誤った判決を下すことがある。というような考えを(非ユダヤ人=畜生たち)人民に与えることは、断じて許してはならない。しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は 我々(ユダヤ人たち)自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さぬ旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする。・・・重ねて申し上げるが、我々(ユダヤ人たち)の行政においては一段階ごとに、一応は 我々(ユダヤ人たち)を満足させてくれておる人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのである。
我々(ユダヤ人たち)の政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するであろう。我々(ユダヤ人たち)民族と我々(ユダヤ人たち)の国民は、王という人物に、王との関係はもとより、(ユダヤ人たち)国民が望むこと、(ユダヤ人たち)国民がやっておること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るであろう。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は、完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、我々(ユダヤ人たち)が任命した者たちが私利私欲の為にではなく、ひたすら誠実に命令を実行しておるだけであることを知ったときには、我々(ユダヤ人たち)が王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うであろう。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなすように、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の生活万般を取り締まることに欣喜雀躍するであろう。我々(ユダヤ人たち)の秘策という視点から眺めると、世界の(非ユダヤ人=畜生たち)人民たちは、まだまだ成年にも達せぬ子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階なのである。
先刻御承知のように、朕は、権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げたのである。義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務なのである。人類を天然が定めた秩序、すなはち、服従に立脚させることは、強者の権利なのである。この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっと強い者に服従させられておるのである。であるからこそ、善を実現する為には、我々(ユダヤ人たち)は、さらに強い者になろうではないか。
我々(ユダヤ人たち)は、確立した秩序に違反する者は、何人でも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題なのである。
イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるである。そこに達するまでに王が王が供する犠牲は、畜生(非ユダヤ人)共の政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。
我々(ユダヤ人たち)の王は、絶えず(ユダヤ人たち)人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は、全く同時間に全世界に報道されるであろう。
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