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教会と救い
カトリックは教会に行かなければ救われないとする。ところが聖書は教会に行かなくても救われるということを何度も書いている。例えばキリストが十字架に掛かったとき、両脇に同じく十字架に掛かっていた罪人のうち一人はキリストをののしったが一人はそれをたしなめていった。
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。 イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。ルカ23:39〜43
この強盗は洗礼も受けず、教会の典礼にも参加せず、断食や祈祷もせずに、パラダイスに直行している。パラダイスとは天国の控え室のようなところと考えられている。イスラエルでは日没をもって一日を終わりとするから彼は二時間ぐらいでパラダイスに行ったことになる。
ではなぜクリスチャンは教会に行くのだろうか。
そこで専門的な教育を受けた指導者が福音(キリストの教え)を教えているから。
教会はキリストの花嫁、クリスチャンはその肢体(細胞)であるから、所属することによって命を得、成長できる。
信徒の互いの愛によってキリストを体感し、他者に分け与えられる。
よく質問されることに旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神なのかということがある。旧約聖書の神は厳しく怖い、新約聖書のキリストは優しく愛に満ちている。旧約聖書でも実は神の愛は沢山示されているのである。しかし、イスラエルがことごとく反抗するので勢い厳しくなってしまった。厳しいと言うことは逆に愛があると言うことである。イスラエルが気に入らなければ捨ててしまえばよかったのだ。そうすれば多くの民族のように歴史の中に消えていってしまっただろう。それがまるで悪女の深情けのように、いつまでも、いつまでもこだわり続けている。旧約聖書の神の厳しさは神のこだわりの表現なのである。
旧約聖書と新約聖書に共通する救いの基本形がある。それは羊の血によって罪が清められると言う原則である。旧訳聖書の場合それは年毎に捧げられる本物の羊の血であった。新約聖書の場合それは“神の子羊”と呼ばれるイエスキリストの血である。この血を自分の上に置かなければ神に近づくことは出来ない。アダムの子カインとアベルの物語でカインの捧げものが受け入れられなかったのは羊の血によって清められると言う原則を満たしていなかったからである。
不思議なことにこの思想を一文字で表す漢字がある。義という文字である。義は羊の下に我と書く。羊の犠牲の下に我を置くと義となるのだ。神の前に出るにはこの義を着なければならない。着た者は義人、正しい人とされる。どう考えてもこの漢字を作ったのはユダヤ人だろう。シルクロードを通って中国に来る間にこの聖書の思想を完全に表す文字が作られたのだろう。それ以外考えられない。
さて、キリストの福音には病の癒しと言う一面がある。キリストの福音は魂の救いと体の癒しの二本の柱からなっている。アメリカではこの癒しの伝道が盛んで多くのテレビ伝道者が怪しげな癒しを実践している。私はこれがいやでなるべく遠ざかっていた。ところが最近それを経験してしまったのだ。
昨年四月私は行きつけの泌尿器科の医師から「前立腺のPSAが高いから癌センターに行ってほしい」と言われた。PSA(前立腺特異抗原)とは血液中にある前立腺に特異的なタンパク質の一種で非常に確実な方法で前立腺がんを検出する。癌センターで調べたところそれは62.96だった。正常値は4.0以下なのでこの数値は医者も驚くほど高い数値であった。放射線による検査では背骨にも数カ所、リンパにも転移していて、末期がんだった。普通5.0や6.0で手術、放射線治療となるのである。しかし、私は透析をしているのでどれも実施できないと言われた。残る手段は女性ホルモンの投与だけであった。親族が呼び出され余命一年を言い渡された。ちょうど二ヶ月前に家内を腫瘍で天に送っていたから、私も間もなく後を追うのかなと思っていた。
ところが五月に奇跡が起こった。五月末に検査したところPSAは3.0になっていた。医師は何度も首をかしげた、女性ホルモンが劇的に利くことはあるが、透析している場合ありえないというのだ。PSAはその後も下がり続け、0.39、0.20になった。もはや私は癌ではなかった。
私に一つだけ思い当たることがある。五月の初めに私達の教団でマレーシアのレイモンド・ムーイという伝道者を呼んで聖会をした。彼は非常に福音の基礎に忠実で、癒しの伝道者としても知られ、多くの癒しが報告されていた。私はたいした期待もしないで出席し、特別に祈っていただいた。それしか思い当たることがない。私は神に癒されたのだ。今は欧米ではなくアジア・アフリカで神の御業が激しく現れている。
これがキリスト教というものである。キリスト教はこの世の権力や組織ではない。個人々々の心の中にだけ産み付けられ成長するものなのだ。キリスト教とは完結した宗教ではない、完結に向かって動き続けている宗教なのだ。
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(私のコメント)
神の奇跡は現代でも働いていると思う。「キリストの十字架の打ち傷によって私は完全に癒されたと信じる」と口で唱え信じればその通り癒された人を知っている。願わくは東日本大震災の放射能禍で苦しんでいる日本、この災害を神が救ってくれる事を願う。神が日本を見捨てず世界金融バビロン勢力に勝った日本を見たいものである。
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